Sect.1
「なかなか雰囲気が出ているわね」
部屋に入って辺りを見渡した千早が、感心したように言う。
「まぁ、急ごしらえだけどね。低予算ながら、『いかにも』っぽくはしてみたわ」
事務所の1階、階段の奥にある倉庫の中は今、窓に遮光カーテンが掛けられ、
弱々しい蛍光灯の光だけで室内の明るさを保っている。
「で、千早の指定席が、そこ」
指差した先――倉庫のほぼ中央にある蛍光灯の真下に、不釣合いな革張りのチェアがある。
この事務所に移転してきた時のお祝いに、レコード会社から社長に贈られたチェアだったが、
『あちらからミリオンヒットを出せた時こそ、私が堂々と座らせていただこうじゃないか』
という社長の願掛けのおかげでカバーを掛けられ、倉庫の奥にしまってあったものだ。
「社長もまだ座っていないのに、撮影に使って大丈夫なの?」
「社長にはOK貰ったし、一応、贈り主にも許可を貰ったわ。完成を楽しみにしてます、って」
完成を楽しみに――。
そう、今私達は765プロ所属のアイドルだけで、ある映像作品を作っている。
年明けに東京で開かれる短編映画祭に出品しようという社長の号令の下、
『公にしても恥ずかしくない完成度』と、あくまでプロや専門家を入れずに進める、
『765プロのアイドルによる制作』の両立を目指している、今年最後の大仕事だ。
主演、星井美希。監督、水瀬伊織。脚本は私、秋月律子。
ストーリーのメインストリームは、消えた千早を探す美希の奔走だ。
冬を迎えようとする晩秋。太陽の下を駆け回る美希の姿を、カメラは追う。
そのバックグラウンドで、もう一人のヒロインとして描かれるのが千早だ。
仲間達と連携して事件解決を目指す美希とは対照的に、千早は孤独な戦いを強いられる。
千早が物語中、太陽の光を浴びる事は一度もない。
鎖で椅子に拘束され、この部屋から出ることすら許されないまま、ストーリーは進む。
唯一、彼女が会話をする相手は、自分を誘拐し、監禁する犯人だけなのだ――。
大まかな構想を語った時、当の千早も含め、大半のメンバーから、
「誘拐されるなら、千早よりも、やよいか伊織の方が良いんじゃない?」
という意見が挙がった。確かに、その発言の意図も、分からなくはない。
でも、私はそれを断った。
理由は二つある。
一つは、この物語のもう一人のヒロインを、ただの『お姫様』にはしたくなかったから。
怯えた表情や不安げな眼差しをカメラに収めるなら、やよいがピッタリだし、
声を上げながら理詰めで犯人を圧倒し、気丈に振舞わせるなら、伊織が適任だ。
でも、私のイメージは違う。
絶望的な境遇の中、状況を客観的に分析して、犯人と渡り合う交渉人であり、
暗い部屋の中から一歩も出ずに事件の真相に辿り着く、アームチェア・ディテクティブだ。
静と動なら静。でも、攻撃か防御かと言われれば、攻撃の側。
そのイメージを、私は千早に重ねたいと思っている。
もう一つは、私情だ。
私自身が、鎖で縛られた千早を見たいと思っている――。
Sect.2
「これは、リハーサルという事でいいのかしら」
千早が両腕を差し出しながら、真剣な眼差しで私の顔を見上げた。
下校途中にさらわれる予定なので、雰囲気作りの為にも、今日は制服のまま来てもらっている。
ブレザーは脱いでもらっているので、今は白いブラウスにプリーツスカートという姿だ。
黒い革張りの椅子にブラウス姿の女子高校生――。
このミスマッチな雰囲気は、実に非日常的で印象的だ。
「今日は、リハーサルのリハーサル、ってトコね。まだこっちのシーンは台詞が固まってないから」
苦笑しながら千早の目を見返す。神経を総動員して、不自然さを消していく。
脚本に行き詰まり、事態の打開の為に協力してもらう、というのは事実であり、元々の予定通り。
不思議は無いはずだ。
「…そう。私で何かの役に立つならいいのだけど」
まだ脚本も無く、演技も得意ではない自分で足しになるのか、とこぼす千早に向かって、言った。
「今、千早の意見を聞きたいのよ。一番」
「この役を演じる者として?」
「うーん、ちょっと違うわね。もっと、引いて見て。設定のあら探し、…というと語弊があるけど」
右の人差し指を右頬に当て、考える。いつか、千早に指摘された私の癖が、また顔を出す。
「まぁ、気になった事をどんどん聞いて。それに答えていけば、色々と穴が埋められると思うから」
ええ、分かったわ、と呟く千早の声は、それでもどこか心配そうだった。
「私と千早は、裏と表みたいなものだと思っているの」
「説明に、もう少し具体性が欲しいわ」
「他のみんなとは、こじれたり絡まったりもするし、向かう方向が違ってしまう事もあるけれど、
千早とは、そういう事が無くて。それでも物の見方や捉え方は別だから、とても参考になるの」
「それは、喜んだ方がいいの? 悲しんだ方がいいの?」
「どうかしらね。まぁ、素直になれない『ひねくれ者』同士、これからも仲良くやりましょう」
千早の手を、ダンススタジオから拝借したリストバンドに通す。タオル地の柔らかい物だ。
きれいな爪。細くて長い指。ブラウスの袖から見える、白い腕。
その手首に、真っ赤なリストバンド。
「この上からなら痛くはないと思うけど。……いい?」
なぜ聞くの? という目で私を見ながら、千早が頷く。
少しだけ、胸が痛む。
二度、三度と交差させながら、千早の手首に銀色の鎖を巻く。
今回の撮影の為の小道具として買い足した、数少ないものの一つ。クロームの鎖。2m。
その4分の1ほどを使って千早の手首を縛り、端をボルトとナットで固定する。
「重い?」
「この程度なら、どうということはないわ」
千早の細身の腕に不釣合いなつや消しの銀色。その奥に覗くリストバンドの赤。
「演出としてなら納得できない事もないけれど、でも、この鎖は不自然じゃない?」
「そう?」
千早は手首を目の高さまで上げた。
「こう縛るだけなら、ガムテープで充分だと思うわ。買える場所も多いし、処分も楽よ」
「まぁ、それはそうなんだけど、そこは美学というかなんというか」
ガムテープでグルグル巻きにしては、千早の美しさを損なってしまうような気がする。
と、それはあくまで私の感覚、か。
その辺りの整合性は、犯人の職業か生活環境で理由付けをしよう。
「あと、一応こうなる予定」
余った鎖を千早の頭越しに椅子の背もたれへと通す。
千早の両腕が、ちょうど頭の後ろで組まれるような形に引き上げられる。
その鎖を椅子の足に絡め、緩みが出ないようにボルトで固定する。
「なるほど。これなら、確かに鎖の方が便利ね」
「まぁ、理由付けは何とかするわ。『ガムテープより鎖の方が手に入りやすい環境』、ね」
改めて千早の正面に回ってみた。
腕を組み、椅子に縛られた千早の姿を見る。
この情景は、本当に――――。
Sect.3
犯人は、千早に対して危害を加える気は無い。むしろ、危害を加えてはいけないのだ。
だから、細心の注意を払う。腕に跡を残さないよう、鎖と腕の間に緩衝材まで入れる。
千早は、犯人との限られた会話の中で、その事実に行き当たる。
そしてその瞬間、縛り付けられ、身体的には完全に自由を奪われているはずの千早が、
精神の面で、犯人よりも優位に立つ。
「ちなみに劇中で、私はどう扱われるのかしら」
少しだけ声を落として聞いてきた千早の意図を、きっと、正確に把握できていたと思う。
「あぁ、変な絵は撮らないから安心して。犯人は千早に危害を加えられないの」
「私個人が標的ではない、という意味かしら? でも、それは危害を加えない理由にはならないわ」
そう。その通り。
もし仮に標的が高木社長だったとしても、それは千早に危害を加えない理由にはならない。
ましてや犯人は男だから、この状態の千早が目の前にいて何もしないというのは不自然だ。多分。
けれど、千早が直接犯人に触れられる事はない。ブレザー以外の物を脱がされる事もない。
そんな、自分にとって幸運な状況にすら疑問を持ち、それを根拠として思考を飛躍させるのがこの役だ。
千早こそが、適任だと思う。そして犯人を『断罪』するのではなく、『理解』するのだ。
「動機が『怨恨』ではないのね。そもそも誰かを傷つける事が、犯人の目的ではない」
「そうね」
「危害を『加えない』、では無くて、『加えられない』と言ったわね? 第三者の意思が働いているの?」
イイ。最高だ。
「そう! まさにそういう展開を狙っているのよ。犯人との会話と、そこからの推理が、千早の見せ場よ」
やっぱり、この役に千早を選んだのは正解だった。私情を抜きにしても。
「千早のシーンと美希のシーンの情報がリンクしながら、少しずつ事件の全容が見え始めるの」
「なんだか、今まで以上に興味が湧いてきたわ。脚本はいつもらえるの?」
「……それを今言わないでよ。何とかするために、千早に来てもらってるんだから」
クスッ、と千早が笑った。
少し前の千早からは考えられないくらい、本当に明るい、魅力的な笑顔だった。
舞台の設定や犯人像について話を進め、この状況下での千早の行動や思考についても話を聞けた。
今なら、シーン毎の空気感まで書けそうな気がする。
そして、視界の奥で小さな赤いLEDが光った。壁際。椅子の背もたれに遮られた、千早の死角。
――行動ヲ開始セヨ。
私は大きく息を吸う。
そして、胸いっぱいの不安とたった一握りの愉悦を抱えて、一度、千早と向き合った。
「ねぇ、千早。今、あなたがどんな格好をしているか、分かる?」
不思議そうな目で私を見返す千早に、とびっきり妖しく見えるであろう笑顔を返す。
「ここからは、撮影ではなく、個人的な話にしたいの」
私はこの部屋唯一の扉に近付き、背中に千早の視線を感じながら、二つある鍵の上側だけを掛けた。
鎖で繋がれた千早と、私。密室に2人っきりだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
Sect.4
「ドッキリ!?」
「そうなんです!」
またこの娘は無邪気に笑うなぁ、と感心しながら私は春香の話を聞いていた。
簡単に言えば、短編映画制作と平行してドッキリ企画をいくつかやろう、という事だった。
「で、私が千早を騙すわけ?」
「ダマすって言い方だとちょっと人聞きが悪いですよぉ」
「結局は一緒じゃない」
違います! と言って『騙す』と『ドッキリ』の違いを熱く語る春香。
その話を要約すると、ドキドキさせつつ、笑って終われるのがドッキリ、だそうだ。
正直、ピンとこない。
「でも、あの堅い千早に『ドッキリ』とか通用すると思う?」
「だから仕掛け人が律子さんなんですよ。律子さんが相手なら千早ちゃんも疑わないと思います!」
チクリと胸が痛んだ。千早にとって、私は、本当に特別なんだろうか?
「で、どういうドッキリを仕掛けるわけ?」
「はい。ズバリ、お色気です」
「はぁっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが、春香の顔は真剣だった。
「私が、千早に? お色気って……」
「やだなぁ、律子さん。その『まさか』が『ドッキリ』として面白いんじゃないですか」
春香の計画は実にシンプルだった。
私が、LikeではなくLoveの方で千早に『好き』だと告白し、迫る、というものだ。
戸惑いながら、それでも角が立たないようにどう断ろうか、と必死になる千早の姿を撮りたいらしい。
「律子さんにはどんどん千早ちゃんに迫ってもらって、もうダメ! って所で私が出ます!」
そう言って、春香は会議室の隅を指差した。
そこには赤いヘルメットと、『ドッキリ』と書かれたプラカードがあった。
「……小鳥さんの入れ知恵ね」
「え!? なんで分かったんですか!?」
とりあえず、ヘルメットをかぶる必要は無いから、と春香に伝える。
「まぁ、いいわ。でも、あまりに穴だらけの計画だと不安だから、細かい所はこっちでも考えさせてね」
「はいっ! 律子さんに手伝ってもらえたら100人力です!」
私はズルい。
なんとか押さえつけておくつもりだった気持ちを、嘘と装って千早にぶつけようとしている。
春香から持ち込まれた企画を、千早の反応を確かめる為に利用しようとしている。
拒絶されたら、『ドッキリ』でした、と笑って誤魔化そうとしている。
その瞬間、私の想いは死んでしまうのに、それでも、最悪の事態よりはマシだと考えている。
本気で想いを伝えて、もし千早に拒絶されたら、親友ですらなくなってしまったら――。
私は、ズルい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
Sect.5
「律子?」
不安そうな声。それでも、曇ることの無い、きれいな声だ。
初めて会った時から、私は、千早の声が好きだ。その声を紡ぐ唇と、喉が好きだ。
ジャラジャラと音を立てながら、千早が腕を下ろそうとする。
無理だ。
クロームのチェーンをスチールのボルトで止めているのだから、腕力でどうにかできる訳が無い。
「安心して。私も、千早を傷付けたりしないから」
ゆっくりと近付き、千早の首筋にそっと手を這わせる。
今も、この部屋の中には3台のカメラがあり、この千早の椅子を中心に録画を続けている。
私は、あくまで仕掛け人として、あくまで演技として、千早に迫らなくてはいけない。
何ができるだろう。
どこまでが、自然なのだろうか。
どこから、抵抗を感じるべきなんだろうか。
私の両手が、ゆっくりと、千早のブラウスのリボンをほどく。
第一ボタンまでしっかりと留めているのがいかにも千早らしい。
当の千早はといえば、大きな動揺も抵抗も無く、何かを図るような視線を私に向けている。
その視線をまっすぐに見返しながらブラウスのボタンを3つ、外してみた。
きれいな肌。
襟を押し広げると、喉と鎖骨のラインが浮かぶ。その浅いくぼみに、そっと指を這わせた。
千早の唇から、小さく息が漏れた。
「ひとつだけ聞かせて」
その声に、揺らぎは無い。
「この為に、リハーサルと言って私を呼んだの?」
「違うわ」
そこは、正直に伝えたかった。
色々な想いはあるにせよ、私の中で今、大切なのは短編映画の脚本を仕上げることだ。
その為に、千早の協力が必要だった。
「千早のその姿を見て、どうしても、……抑えきれなくなった」
どこまで、本心を喋っていいのだろう。
「今なら抵抗できない千早を、私の自由に出来る。それは、耐え難い誘惑で、たまらない魅力だわ」
千早がふぅ、と小さく息を吐いた。
「そう。……じゃあ、許すわ」
「許す?」
「ええ。良かったわ。そこに嘘がないのなら、あなたは、私が好きな律子のままだから」
千早は、私の目を見て一度微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
「え、ちょっと、それって……」
視線が、千早の唇に吸い寄せられる。薄紅色の唇。きれいな唇。
ダメだ。カメラが回っている。直接見ないようにしながら、視線を左右に振った。
確かに、打ち合わせ通りの場所で録画中を示すカメラのランプが光っている。
「唇は、あとでね」
精一杯平静を装って、そっと額にキスをした。
クスリと笑って千早が目を開ける。顔が、近い。千早の目。まつげが長いなぁ。
「腕はこのままがいい? 別に痛む訳ではないから、律子が好きなら、このままで構わないわ」
「そ、そうね――ひあぅッ!」
一瞬答を躊躇していると、体のバランスが崩れて前に倒れこみそうになる。
左手を椅子の背もたれに、右手を肘掛について、なんとか千早にぶつからないように体を支える。
あごの下で、フフッと笑い声がした。
「犯人は、私の両足も縛った方がいいわね。思わぬ反撃を食らうかもしれないから」
視線を下に落とすと、千早の両足が私の足に絡み付いていた。
スカートから伸びた脚。しなやかな、脚。
上目遣いで見上げてくる千早。
その目は挑発でもなく、懇願でもなく、ただまっすぐに私の心を量っているように見える。
応えたい。私の想いを、全部ぶちまけてしまいたい。今、ここで。
ダメだ。いけない。
どうしよう、カメラがある。止める? いつ?
千早になんて説明しようか。
いや、誰かが来る前に私がテープを回収してしまえば――
考えがまとまらない。
「あ、あの、千早。実は――」
と、その瞬間、部屋の隅に積んであった段ボール箱が崩れて落ちた。
「うわぁっ!」
全く想像していなかった事なので、つい、叫び声を挙げてしまった。
ダンボールの山。そしてその中から、赤いヘルメットをかぶった春香が飛び出してくる。
「はーい、大成功でーす! 普段絶対に見られない『ドキドキ律子さん』、いッただきましたー!」
その手には、『ドッキリ』と書かれたプラカードと、ビデオカメラが握られていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
Sect.6
なんの事はない。全て企画通り。
『ドッキリ』のターゲットは、最初から私だった。
扉から入ってくると聞いていた春香も、実はずっと部屋にいて、ずっと私達の会話を聞いていた。
千早も、全て承知の上で、演技をしていたのだ。
想いが通じたわけではなく、私が千早に迫る演技をすると知っていたから、それに合わせただけ。
一気に体の力が抜け、その場にへたり込んでしまった私の表情を、春香のカメラが追う。
一体どんな顔をしているんだろう。自分でも、想像がつかない。
とても大きなものを失った気もするし、何も変わっていないような気もする。
いや、どれも少しずつ違う。
手に入れたと思った大切なものが、砂になって指の間からこぼれて落ちた、そんな感じだった。
気がつくと、床に座り込んだ私の前に、千早が立っていた。
視覚と脳が、自分の意識とは無関係に情報を整理し始める。
千早は脚が長い。ランニングの効果か、引き締まったふくらはぎのラインがきれいだ。スカートは、短め。
「お疲れ様、律子。災難だったわね」
見上げると、千早は優しい笑みを浮かべている。
「そうね。まぁ、ちょっとダメージが大きいわ」
少し、自嘲気味に言ってみた。
「あれ? 春香は?」
「ビデオカメラを全部回収して、上に行ったわ。小鳥さんと中身の確認じゃないかしら」
「腕は、大丈夫?」
「ええ。何の問題も無いわ。本番ではもっと長くなるのだろうし」
どこまでも真面目で、誠実で、一生懸命で、手を抜かず、妥協しない。
それが千早だ。
そんな千早だから、私は――
「千早の演技力は素晴らしいわ。メインヒロインを2人にして、ダブル主演でも行けるわね」
その確認が出来ただけでも、得るものはあった。そう考えることにしよう。
「一安心だわ。脚本家からの評価が合格点で」
とびっきりの笑顔で一礼すると、千早は私に背を向け、扉に向かって歩いて行った。
後は、追えそうにない。
もう少し、時間が欲しい。
陽の差し込まないこの部屋が、今の私には居心地がいい。
こぼれるならこぼれろ。涙め。
ガシャン。
ガチャリ。
――扉に鍵の掛かる音が2つ。
ふと視線を上げると、千早が帰ってくる所だった。
Sect.7
「上がるんじゃ……なかったの?」
「いいえ。鍵を掛けてきたの。両方」
千早が元通りの指定席に座る。開いた胸元はそのままだった。
床に座った私を見下ろす。さっきまでとは立場が逆だ。
「あの扉、下の鍵まで掛けたら、外から開けられないわよ!?」
「その方が、好都合でしょう?」
千早は、少し意外そうな顔で、言った。
「律子には裏と表と言われてしまったけれど、それは少し違うと思うわ」
「違う?」
「ええ。私も律子と一緒。春香にこの企画に誘われた時、チャンスだと思ったわ」
「どういうこと……?」
「春香から『誰にドッキリを仕掛ける?』って聞かれた時、『律子』と答えたの。
この企画のせいにすれば、私は安全圏にいたまま、好きな人の反応を確認できるから」
親友を失いたくはないけれど、もし、想いを伝えたらどう反応されるか、確かめたかった。
そう言って、千早は笑った。
「私達の事、ひねくれ者同士、って言ったわよね?」
「怒らないで。冗談半分よ」
笑いながら流そうとする私の言葉を、千早は、いつも真正面から受け止める。
「ひねくれ者同士でくっついたら、きっとメビウスの輪になれるわ。私達、裏も表も、ひとつにね」
その言葉が、胸の深い所に染み込んでくる。
永遠の象徴。終わりのない、いつまでも続く道――。
「今日が、第一歩かしら」
千早が、ゆっくりと右手を伸ばす。
私は、その手を右手で受けた。
「春香はいないし、カメラもない。問題は全て解決したわね」
「え? えーっと……」
「律子、さっき約束したわよ。『唇は、あとでね』って。私はいつまで待てばいいの?」
【End】
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