Sect.1


 右手の指。……動かない。
 左手の指。……動かない。
 腕。……上がらない。
 脚。……曲がらない。
 ここまでは、まだ受け入れられる。自分の体だから。
 でも――。
「参ったなぁ……」
 病院特有の真っ白い天井が、湧き出した涙でぼんやり霞む。
 体に、痛みは無い。
 悔し泣き。後悔の、涙。
「どうしたの? 真ちゃん」
 首を傾けると、左のベッドであずささんが体を起こしていた。
「あぁ、いえ、動いてもいないのにお腹が減ったなぁ、って。ははっ」
 とっさの嘘。声だけなら、今のボクにも演技ができる。
 言えない。言ってしまったら、取り返しがつかなくなるかもしれないから。
 流れた涙を拭くことも出来やしない。
 この顔を、あずささんに見られなかったのはせめてもの救いだ――。
 そんな風に思ってしまったボクは、やっぱりヒドいやつかもしれない。


 聞こえたのは真ちゃんの声。
 続いたのは、ため息のような深い吐息。
 何もかも、私のせい……。
 今の私に、何が出来るだろう?
 自分の無力さを感じる。それに、真ちゃんとの距離を。
 隣のベッドにいるはずの真ちゃんが、とても、遠い。
 室内を循環する空気が運んできた香り。
「真ちゃん、おリンゴなんて、食べるかしら?」
 香りを頼りに果物かごへと手を伸ばすと、真ちゃんの声が聞こえた。
「ダメですよ、あずささん! だって――」



Sect.2


「盲目になってしまう、って事ですか?」
 三浦あずさと菊地真が病院に運び込まれた三時間後。
 プロデューサーは、処置と精密検査を終えた二人の、検査結果を報されていた。
「外傷はありませんが、少なくとも彼女の視覚は、現在失われています」
「先生、それは――」
「いくつかの原因が考えられますが。おそらく、問題は菊地さんの方です」
「真が!? だって、真があずささんを背負って下山したんですよね?」
 立ち上がらんばかりのプロデューサーを医師が制し、言葉を続けた。
「必死、だったんでしょうな……」



Sect.3


    「あずささーんッ!!」
     真の叫び声が、真っ白な雪に吸い込まれていく。
     吹き止まない風。地面から舞い上がる雪。
     雲ひとつない晴れ空なのに、まるで吹雪のようだった。
     膝上まで呑み込まれる雪深い山道を、真は歩き続ける。
     気温は零度近いが、それでも真は、全身に汗をかいている。
     ――あずささん、どこまで……
     頬を切るような、一陣の風。
     その瞬間、霞のように視界を覆っていた雪が裂ける。
     ――いた! あれだ!!
     目を覆っていたゴーグルを上げ、肉眼で確認する。
     乱反射する光が瞳を刺す。
     ――ダメだ。目をやられる。
     位置は確認できた。間違いない。
     半ば雪に埋もれるようにして、あずさが倒れていた。
     もしもう少し遅れていれば、発見できなかったかもしれない。
     ――ボクが、あずささんを助けないと!
     近寄り、声を掛ける。
     うつぶせのあずさの体の下に手を入れ、仰向けにする。
    「あずささん! しっかり!」
     あずさのゴーグルとニット帽は、無くなっていた。
    「ごめんね、あずささん。今、緊急事態だから」
     アウターのジッパーを胸の下まで下ろし、真は手袋を取った右手を差し入れる。
     あずさの体は冷え切っていた。あまり良い状態とは思えない。
     ――テントか横穴があれば…… ダメか、どの道、着替えも無いや。
     ――運ぼう。ボクは、体力だけが自慢の菊地真じゃないか。
     ――行こう。あずささんの体温をこれ以上落とさない内に。
     ――進もう。まっすぐ。考えなくていい。尾根に上がれば大丈夫だ。


    そこから先は、あまり憶えていない――と菊地真は語った。
    二人が発見されたのは西側登山ルートの3合目地点。
    冷え切っていた三浦あずさの体を温めるために、
    菊地真は自分のダウンジャケットを掛け、その体を背負ったまま、
    約1,200mの雪中行を成し遂げていた。    

   「あずささんを…、助けてください」
    救援隊に支えられた真の言葉が、小さく、雪の中に舞った。



Sect.4


「凍傷?」
 プロデューサーは聞き返す。
「ええ。第二度までは進行していないと思いますが、少し様子を見ないと」
 医師はカルテの別紙を机に載せる。
「凍傷は火傷と同じで、深度が判別しにくいのです」
 そこに書かれた人型は、四肢を大きく塗り潰されていた。



Sect.5


「あずささん、やっぱりすごいや」
 真は、あずさの手の中でくるくると回るりんごを見て関心していた。
 目が見えないはずのあずさは、りんごとナイフの場所こそ真に誘導してもらったが、
 それぞれを手に持ってからは、器用に皮を剥いてゆく。
「『お嫁さんにしたいアイドル』の肩書きは伊達じゃないですね」
 努めて明るい声でそんな言葉を口にしながら、けれど真の心境は苦いものだった。
「でも、結局一位じゃなかったのよ。あのランキングでは」
「充分ですよ。ボクなんて、かすりもしないんですから!」
 何が違うんだろう、と本気で考えた事があった。
 数え上げればきりが無いくらい、あずさと真は違っていた。何もかも、対照的だった。
 ――結局、ボクまであずささんの事を……
 勝てない、という想いがいつしか別の感情に変化していた。
 それは自分だけの秘密。公私は分けていた。そのはずだった。
 なのに、たった一度だけ。唯一の、失敗。後悔。
 あれが、悲劇の引き金。


    あずさは躊躇していた。
   「私に、出来るかしら……」
    雪山登山の経験は無い。そもそも運動神経にも自信が無い。
    真に付いて行けるとしたら、体力的に考えて、美希か、千早くらいではないか?
    そう口にしてみると、真が頭を押さえ、大きく首を振った。
   「『疲れるのはイヤ』とか『あまり有意義な時間とは思えないのだけれど』とか、
    そんな事言われるに決まってます。大丈夫! 二人で頑張りましょうよ!」
    結局、弱気なあずさを真がおだて、煽り、そして、今回の企画がスタートしたのだった。



Sect.6


「精神的な問題、という事ですか?」
 プロデューサーは聞き返す。
「正確に言うと、心因性視覚障害ですな。極度のストレスが原因です」
「ストレス――?」
「ええ。彼女達は、お互いに、全てが自分のせいだと思っています」
「確かに、二人とも責任感の強い方ですが……」
 プロデューサーという立場から見た二人は、実に良いデュオだった。
 スタッフへの気配りや挨拶も、共演者への気遣いも、しっかりと出来る。
 そして、お互いがお互いを、認め合い、尊敬し合っている。
 二人の関係はとても良いものだ、と思っている。



Sect.7


 ゆっくりと、ベッドのマットレスの端が沈む。
 真のベッドの端に腰掛けたあずさが、
「はい、あーん」
 と言って、りんごを真の口に運んだ。
 照れ臭そうにしながら、それでも真は気がかりな事があり、悩みながら、聞いた。
「あずささん、ボク、汗臭くないですか?」
 あずさと会う前も、随分と汗をかいた。あずさを背負って歩く間も。
 結果としてそれが凍傷の進行を進めたらしい。
 今は今で、ギプスの中で汗と薬品が混ざり、泡みたいになっている気がする。
「んー、どうかしら」
 あずさはりんごの皿を自分のベッドのサイドボードへ戻し、真の体に顔を近づける。
「あ、いや、ちょっと! あずささん、そうじゃなくて!」
「でも、こうしないと分からないわ」
「本当に『臭いわね』とか言われたら立ち直れないですから。離れてください!」
 きっと、顔が真っ赤になっているだろうな、と真は考える。
 自分の上に覆いかぶさるように手をついたあずさの、胸から目が離せない。
 ――これは、何かの罠!? あんまりだ!
 雪の中で発見した直後の、“あの”手触りが思い出される。途端に、心臓が高鳴る。
「そうねぇ。汗臭くはないけれど、真ちゃんが気にするなら、一度サッパリする?」
「え?」
「看護士の方に、いろいろな物の位置は聞いておいたから大丈夫よ」
 そう言うと、サイドボードの引き出しの二段目から無香料のウェットシートを取り出す。
「体、拭いてあげるわ」
「ダ、ダメですよ!」
 本当なら、胸の前で腕を交差して身を守りたい所だが、今はそれも叶わない。
 あずさは脇腹から次第に指を滑らせ、真の上着の前ボタンをはずす。
「あずささん! やめてください。恥ずかしいですよ!」
 空調のおかげで、肌を出しても寒さは感じなかった。
「女同士だもの、照れる事ないわよ?」
「だって、ボクはあずささんみたいに……」
 真は、最後まで言うことが出来なかった。
 普段はほとんど気にしていないのだが、今は色々な物が重なり過ぎている。
 あずさは一瞬動きを止め、それでも全てを包むような笑顔で伝えた。
「私に拭かせて。私には、何も見えないんだもの。恥ずかしがる必要も無いわ」



Sect.8


「罪悪感が原因、という事ですか?」
「厳密に言えば少し、違うかもしれませんが……」
 医師は、精密検査後のカウンセリングシートを見ながら語る。
「『贖罪』という概念は、確かに分かりやすいかもしれません」
 医師は手元のメモを見ながら、何ヶ所かに丸を付ける。
「三浦さんの側にすれば、アクシデントでは片付けられないのでしょうなぁ」



Sect.9


「ありがとう。真ちゃん」
 ――えっ!?
 あずささんの声に、耳を疑った。
 けれど、包帯で厚く目を覆われたその表情は、確かに笑顔だった。
「私を探してくれた。そして、見つけてくれた」
 その声は、小さく、けれど強い意志を含んでいた。
「私を背負って、歩き続けてくれたのよね。真ちゃんは、私の命の恩人だわ」
「い、いやぁ、そんなの。当然の事ですよ。ほら、全然――」
 ――違う。ボクが言わなきゃいけないのは、そんな事じゃなくて。
「私、方向音痴なのに、雪山なんかに付いて行っちゃって」
 あずささんの右手が、首筋、肩、鎖骨となぞる。
「私のせいで、真ちゃん、大変な目に遭っちゃったものね」
 その手が、空気にさらされたままの肌の起伏を辿る。
 拭き残しの無いように、丁寧に、何度も、何度も。
「違うんです。ボクが、どうしてもあずささんと一緒に、いたくて。だから」
「嬉しかったわ。ありがとう。こんな私を誘ってくれて」
 あずささんの左手が、ボクの首の裏に回される。
 そして右手は髪の中に差し込まれ、ちょうどあごを持ち上げられるような形になった。
「ごめんなさい――」
 あずささんの、涙声。哀しそうな、笑顔。
 降りてくる唇を、ボクは、ただ、目で追う事しかできなかった。


「私、ずうっとそばにいるわ。真ちゃん」
「あずささん……」
「アンザイレン、って言うのですって。私達、2人で、互いに命を支え合うの」
「……なんだか、ロマンチックですね。へへっ」


    そんなつもりであずささんを誘ったんじゃない。
    そんなつもりであずささんを助けたんじゃない。
    それでも、ボクは、今――。

    ボクは、何を失って、何を得たのだろう……。

















Sect.10


 結局、ボクは何も失わなかった。
 腕も、脚も、指先も、全部元通り動くようになり、今はトレーニングの日々。

「良かったな。真。跡も残らないみたいだし」
「そうですね。なんか、お騒がせして、すいませんでした」
 そう頭を下げながら、プロデューサーに笑顔を返す。
 言い出せなかったけど、実は一ヶ所、小さな赤紫色の痣が残っている。
 視力が回復したあずささんは、その痣を、カワイイと言ってくれた。
 いつも、その上にキスマークを付けてくれる。
『これは私達の、つながりの証』
 そう言われたらボクだって返さない訳にはいかないから。
 だから、ボクも、同じ場所にキスをする。
 

 これからも、僕らはお互いに、お互いを支え合う。
 そして、唯一のパートナーとして、共に登っていくんだ。
 トップアイドルという、見果てぬ山の頂点を目指して――。




                                                              【End】

 

お題消化:14)キス 15)唯一 19)鎖骨 23)アクシデント 24)指 29)髪 36)まっすぐ 37)罠 43)つながり 45)秘密

46)弱気 58)ナイフ 63)りんご 64)悔し泣き 65)苦い 66)笑顔 67)叫び 68)ありがとう 76)言えない 78)必死

79)病院 80)嘘 82)距離 88)自慢 90)心臓 91)泡 92)無力 95)盲目 100)先生 104)ごめんなさい

 

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