第四話 『そして、幕は上がった』


 

 【12月4日、夜。19時02分】

 照度の低い古びたスポットライトが消えると、春香の姿は店内の闇に溶ける。
 消えゆく音。去る音の袖を掴むように、ドラムの音が入る。
 ――タタンッ。
 その瞬間、曲調が変わる。もう1つのスポットライトの中に、伊織の姿が浮かび上がる。
「Resort Love, Love――」
 春香の届けた夏の残り香が、伊織の声でその息を吹き返す。
 店内は、どこか暖かな空気に包まれ、知らず知らず、曲を聴く者の口と心は軽やかになっていた。
 ――春香と私。最初は持ち歌で、完璧に仕上げるわよ。色は、夏!


「お疲れ様、春香。素敵だったわよ」
「本当に!? いやぁ、千早ちゃんに言われるとなんだかとっても嬉しいなぁ」
 春香の額に、一粒、二粒と汗が浮かぶ。
 店の外は寒く、店内も高い天井のせいでそれほど優れた空調が整っているとは言えない。
 だが、店内は、そしてステージは熱かった。
 お客さんの熱気。演奏する奏者達の熱意。歌うアイドル達の情熱――。
 それらを吸い上げて、まるでこの店が、鼓動を始めたようだった。
「春香は喉のケア。ちょと飛ばしすぎだったわよ」
 律子がホットカクテル用のタンブラーグラスを差し出した。
「え? お酒、ですか? 私まだ、18歳未満なんですけど……」
「日本でお酒は20歳から。アルコール勧める訳ないでしょ。ホットゆずかりん、ノンアルコールよ」
 受け取り、そっと口を付けてみる。
 酸味と、優しい香り。そして甘味が、喉を優しく包んでくれた。
「これ、美味しいですね」
「このお店に、これが大好きな常連さんがいるんですって」
 律子は、客席の奥で目を閉じ、歌に聞き入るオーナーの姿を見ていた。

「きっと、期待に応えてみせますよ――」


 店内に広がる静かな拍手。
 その拍手は5万人の歓声とは違うけれど、
 伊織は確かな達成感を感じていた。
 ―― 覚悟しなさいよ、律子。アンタの歌、頂いちゃうんだから!


 ホットゆずかりんを飲み干した後、春香は小さく呟いた。
「あ――、私っ、拍手してもらってない!」


 夜は、始まったばかり。
 そして、第二の幕が上がる――。

 

 

 

第五話 『星と雪』


 【12月4日、夜。20時00分】

 インターネットを通じて中継を聞いていたあるファンが、コメントを残していた。
「誰だろう。てか曲はなんだらう?」
 イントロが静かに響く。
 音が重なる。音。そして、声。
 ――どれだけ、飛べる?
 その瞬間、一斉に白い文字が躍った。
「まさか、美希か」
「これは…I want!」
「これがI want!ですって!?」
 衝撃的な展開は、姿の見えない中継ならではだったのかもしれない。
 しかし、それは会場となった店内でも、同じインパクトを与えていた。

「『I want!』を美希に歌われちゃうかぁ……」
 春香は苦笑する。
 美希は年下だ。
 美希は、私より少し背が高い。
 美希は、私より少し体重が軽い。
 美希は、私より少しウエストが細いくせに、少しバストが大きい。
 全部、ほんの少しだけ。
 そして、美希には私より、ずっと華がある。
 ステージの上で活き活きと歌う美希の姿を見て、どうにも胸が苦しくなる。
「何か、不都合でもあるの?」
 そっと後ろに立った千早が、春香の肩に手を添えた。
 ワンショルダーのストレッチドレスを着た春香の、大きく開いた左肩に置かれた千早の手――。
「千早ちゃん、準備は完璧っ! て感じだね」
 千早の手を振り解きたくなくて、春香は、首だけを回して千早を振り向いた。
 舞台の前、千早の手はとても冷たい。
 細かな理由は分からないけど、きっと、集中して、内側が熱くなってるんだと思う。
「千早ちゃん、自分の曲を他人が歌うのって、どんな心境?」
 聞いてみたい、と思っていた。
 ずっと聞きたいと思っていて、聞けなかった質問だった。
 千早は一瞬考え、すぐに首を横に振った。
「考えたことは無かったけれど、『自分の曲』という考え方が、もしかしたら余計なのかもしれないわね」
「どういう、事?」
「歌は、全ての人の共有物よ。今、その瞬間歌っている、その人のもの――」

 歌は、歌っている人のもの……

 なんだか、煙に巻かれてしまったような、分かったような分からないような答だった。
 でも、きっと、千早が言うならそうなんだろうな、と春香は思う。
 そんな考え方はした事がなかったけれど、でも、その意味が見えるかもしれない。
 そう思いながら、歌い終え、客席に大きく手を振る美希の姿を見ていた。
 輝いて見える。いつだって素敵な、最高の仲間の姿を。


「次は、私の番だね」
 雪歩が静かに、椅子から立ちあがった。
「雪歩、頑張ってね」
 千早が、真正面から声を掛ける。
「うん。私、しっかり歌えるから。だから、聞いててね」
 そんな2人のやり取りを見て、春香は雪歩の強さを感じた。
 迷いのない表情。
 そして、まっすぐ前を向いて歩き出す、確かな力強さがそこにあった。
 ――聞いててね。真ちゃん!




 20時02分48秒――

「あと、どれくらい――進めばいいの――」

 雪歩の声が、会場の、そしてインターネットの先の観客の心を揺り動かした。 

 

 

 

第六話 『色彩』


 【12月4日、夜。21時01分】

 ――この歌は、私の為に作られた歌なんだからッ!
 水瀬伊織は、最高の笑顔と声で、全ての観客を、聴衆を魅了していた。
 目を閉じ、空気に身を委ねる。
 低い弦の音が心地良い。
 歌いながら、目を閉じたまま、ただ音の道を辿って歩いてみる。
 手を伸ばす。
 ウッドベースの背にそっと手を這わせ、音の間を縫って、そっとキスの真似をしてみた。
 ステージの中央に戻る。
 等間隔に音を従えながら、自分はその上に立つのではなく、中に沈むのだ。
 音の応援を背に受けて、最後の最後で目を開ける。
「私の眼鏡、スキ? キライ?」

 無理を言って借りた、律子のスペアの眼鏡。
 強い度が入ったその眼鏡のせいで、観客席の蝋燭が、星を映した夜の海のように揺れていた。



 【12月4日、夜。21時03分】

 聴いてくれてますよね、あずささん。
 私の歌、どうでしょうか?
 私、しっかりと歌えていますか?

 あずささんは、私の憧れです。
 優しくて、いつでも落ち着いていて――私と、全然違います。
 だから、私、この曲は一生懸命練習しました。
 あずささんに感想を聞いたら、きっと褒めてくれるんだと思います。
 だから、私、あずささんに感想は聞きません。

 私が大好きなあずささんに、しっかり聞かせる為に、無様な歌い方にならないように。
 私自身が、誰よりも厳しく、私に点数を付けます。
 そして、私は、合格点の歌を、最高得点の歌を、今日、あずささんに聴いてもらいますから。



 【12月4日、夜。21時05分】

 雪歩ちゃんはいっつも一生懸命で、ずっと心配だったけど、それも思い過ごしだったみたいね。
 律子さんと一緒で、あなたは自分を過小評価し過ぎだわ。
 でも、それも決して悪いことじゃないのかもしれない。
 自分に自信が無いからといって、誰よりも一生懸命レッスンをしているんだから。
 知ってる? 雪歩ちゃん。
 自主レッスンに費やしている時間、765プロではあなたが第二位なのよ。
 その点では律子さんは要領良くやってしまうから、あなたとは大違いねぇ。

 レッスンに費やした時間は、あなたを裏切らないわ。
 あなたが尊敬してくれている私は、あなたより4年も先輩なのよ。
 アイドルとしては遅咲きの私を目標にするのもいいけれど、4年後に私と同じじゃカッコわるいわ。
 安心して。あなたは、4年前の私よりも、ずっとしっかりしているんだもの。
 あなた自身が認めなくても、私は認めるわ。
 雪歩ちゃんは、本当に良い仲間に恵まれているのだから、少し、肩の力を抜いて。
 自分にも、優しくしてあげてね……。

 さぁ2人で、自主レッスン第一位の彼女の、日頃の研鑚の成果を聞きましょう。



 【12月4日、夜。21時07分】


 ―― 千早ちゃん、準備は完璧っ! て感じだね
 春香の声が、耳に残っている。
 完璧とは程遠い自分の、どこを見て春香は完璧と評してくれたのだろう。

 私は、私の思い描いた高みへはまだ届いていない。
 どれだけレッスンをしても、その先に気付いてしまうだけだ。
 伏見稲荷の千本鳥居のようだ。
 朱色の鳥居が連なり、石段の昇りのトンネルが、ただどこまでも続く。
 山頂も見えず、曲がりくねった朱色の道を、ただ昇るばかり――。

 目を逸らさず、現実と向き合いながら、ただ昇るだけの作業――。

 修学旅行の記憶。

 私はあの道を、どうして登りきることができたんだっけ――?



 【12月4日、夜。21時10分】


 ホワイト――。
   イエロー――。
     ブルーに――。
        レッド――。

 声が重なる。
 たった一人、自分の内を見つめていた千早の耳に、仲間の声が届く。

 そうか。
 あの日もそうだった。

 今は?


 765プロのアイドルとしての仲間がいる。
 プロデューサーや小鳥さんがいる。
 高木社長がいる。

 すてきな企画を打ち立ててくれた今回の企画プロデューサーがいて、
 最高の腕を持った演奏者の皆さんがいる。

 この店に足を運んでくれたお客様がいる。
 インターネットを通じて、私達の声を聴いてくれるファンがいる。

 だから私は。
 私達は。

 歌い続けることができる――。


 春香、私は完璧ではないけれど、そこを目指して、上っていくわ。
 でも、私1人じゃない。
 一緒よ。みんなと。


 みんなきれいだね――。
 とてもきれいだね――。

 

 

 

第七話 『私達の答』



 【12月4日、夜。22時00分】

 しずかな音。
 水のなかをたゆたうような音。
 やすらぎの空間と眠りゆく宵闇の時間――。

 今まさに、わたし達の夜も、終わろうとしている。
 それは、このお店の歴史の終わり。
 私達は、それを、そっと――。


 ……違う。


 私達は、その為に呼ばれたんじゃない。
 私達は、ベビーシッターでもなければ、家政婦でもない。

 私達は、アイドルなんだ。

 私達が見せる夢は、安らかに眠るための夢じゃない。
 明日に向かって、笑顔で生きる為の夢よ!



「目と目が逢う――」
 その瞬間、律子の声が弾けた。
 ―― 走りすぎだ、律子!
 プロデューサーは、打ち合わせと違う歌の入りに戸惑っていた。
 静かに入り、低い音量で『聴かせる』のが律子の目的だったはずだ。
 それなのに。
 ステージまでは約15m。オーディションの時のサインなら、この店内の暗さでも届くはずだ。
 そう思い、椅子から立ちあがろうとした瞬間、
「素晴らしいですね。彼女達は」
 そう、声が聞こえた。
 ボックス席の向かい側に、1人の男性がいた。
「あなたは、今回の……」
 今回のイベント、『Club Nights』の仕掛け人であり、楽曲のアレンジを手がけた男性が、そこにいた。
「いや、しかし今の律子は少し、なんというか、その」
「気付いてくれたんですよ」
 企画プロデューサーは、ステージ上で歌う秋月律子の姿を見ていた。

 その女性は、会場全体に目を配りながらも、フレーズの最後では、必ず一ヶ所に視線を戻していた。
 客席の奥。闇の中に佇む年老いた男性へと。


 ――目と目が逢う瞬間、『好きだ』と気付いた。


 そうだ。
 オーナーは、この店を無くしたい訳じゃない。
 そんな事は、初めて会って、その目を見た時から気付いてた。
 オーナーこそが、誰よりもこの店を『好き』なんだもの。

 オーナーが求めているのは、子守唄なんかじゃない。
 まだ行ける、頑張れると背中を押してくれる応援歌なんだ。
 それに、誰よりも早く気付いたのが、企画プロデューサーだ。
 その企画プロデューサーの想いを、私達は、届けなきゃいけないんだ。

 だから、私はこの歌を、優しく静かに歌ったりしない。
 精一杯の気持ちを込めて歌おう。


 私達も、気付きました。あなたの気持ちに――。
 だから――。


 目を、逸らさないで。




 【12月4日、夜。22時04分】

   Pain ――。
   見えなくても、声が聞こえなくても――。


 美希の声は、どこまでも優しく、どこまでも伸びやかに、その空間を満たしていった。
 少女のように純真で、時に大人の女性の色香を垣間見せながら。
 律子のような思考と推測の積み重ねではなく、ただ純粋な感覚で、美希は気付いていた。
 この店は、まだ役目を終えていないと。


   抱きしめられた温もりを今も憶えている――。


 この空間には多くの人の温もりがあり、この店には多くの想いが詰まっている。


   この坂道を登る度に、あなたがすぐそばにいるように――。
   感じてしまう私の隣に、いて、ふれて欲しい――。


 この店を必要としている人は、まだたくさんいる。
 だから、そんな想いを、裏切ってはいけないんだと思う。

 美希の声はどこまでも優しく、どこまでも純粋で、どこまでも、どこまでも。
 その声は、律子が開いた老人の心の扉に我が物顔で入り込み、居座ってしまった。

 どうしてお店をやめちゃうの?
 どうして続けていけないの?
 どうして諦めちゃうの?

 ねぇ、どうして?


   そばにいると約束をしてくれた、貴方は、嘘つきだね――。


「嘘なものか……」
 その声は、会場の拍手に包まれ、誰の耳にも届かなかった。


 ただ1人。

「嘘な、ものか……」

 その言葉を発した老人の、胸の奥の、深い所に沈んでいった。

 

 

 

第八話 『歌声は、全てをこえて――』


 【12月4日、夜。22時42分】


 夜の海の潮騒のように、客席の声が聞こえてくる。
 静かに、しかし途絶える事無く続く声は、この店の静かな、そして確かな息吹だった。
 観客は誰も帰ろうとせず、目を閉じ、あるいは語り合い、それぞれの夜を想う。

 舞台を降りたアイドル達は、広く作られたバックステージで色々な話をしていた。
 在りし日には20人近いバンドを迎えた広いバックステージが、今日のアイドルの控え室になっている。
 ステージから段差無く続くその区画は、実に贅沢な造りだった。
 音響操作盤や更衣室はもちろん、簡易シャワー室やバーカウンターまであるバックステージ――。
 だが、アイドル達もまだ着替える事無く、歌の余韻に浸っていた。
「実に、素晴らしい歌でした」
 老人の、小さな拍手が響いた。
 拍手の終わりを合図に、カウンターの中でチーフバーテンダーがシェイカーを振るう。
 銀色のトレーに乗った7つのカクテルグラスが、鮮やかな黄色の雫で満たされてゆく。
 あらかじめ作られていたドリンクは既にプロデューサー達の手の中にあった。
 そして7つのグラスがアイドル達に運ばれ、ちょうど飲み物が行き渡った格好になる。
「ささやかな、御礼です。どうぞ」
 春香がためらいながら一度、プロデューサーの方を見る。
「えっと、カクテルって、お酒――」
 そんな中、伊織はグラスに唇を近付け、その香りを吸い込んだ。
「モノはしっかりしてるわね」
 そう言ってチラリとチーフバーテンダーの表情を見ると、帰ってきたのは小さな会釈だった。
「お嬢様方には、ノンアルコールのカクテルをお出ししています」
 老人が言った。
「そのカクテルの名は、『シンデレラ』。今宵の歌姫達に、ぜひ」
 クンクンと匂いを嗅ぐ春香と、品が無いわねとたしなめる伊織の様子を見ながら、あずさがにっこりと微笑んだ。
「あらあら、どうしましょう。あと1時間ちょっとで魔法が解けてしまいますね」
 魔法のような一夜。その終わりを惜しむ思いが、誰の胸にもあった。
「じゃあ、とりあえず乾杯と行きましょうか」
 プロデューサーが声を掛け、全員が右手にグラスを持つ。
 そして、企画プロデューサーを促した。
 それまでは公演が終わってからずっと音響ブースに座っていた企画プロデューサーが立ち上がり、前へ出る。
「素晴らしい歌姫達と、素晴らしい演奏をしてくれた仲間と、そしてこの素晴らしい夜に――」
 一拍の間。
「この素晴らしいオーナーと、この素晴らしい店に、乾杯!」
 乾杯の声が響く。乾杯の……声――。

 ――え?
 乾杯、と言った直後、律子がそっと振り返る。
 その目に映ったのは、ステージと客席を隔てる緞帳代わりの、厚い二重カーテンだけだった。



 【12月4日、夜。22時58分】


 プロデューサーと雪歩、あずささんの3人は、企画プロデューサーと話し込んでいる。
 椅子に座った千早を、春香が、大丈夫!? と言いながらパタパタと、ドレスの裾で扇いでいる。
「なんでノンアルコールカクテルでそうなるのよ」
 そう言いながら、伊織はグラスに入れた氷水バーテンダーから受け取り、千早に手渡していた。
「夜に……、歌に、酔ったみたい」
 千早が小さく微笑んでいた。
 美希は、と姿を探すと、千早の奥の椅子でゆっくりと揺れていた。
 まぁ、仕方が無いか。今日の美希は、本当に立派だったから。
 ――さて。
 私は、私にできる事をしよう。
 それが、私達が今夜、呼ばれた理由だと信じて。

「いかがでしたか? 私達の歌は」
 バックステージの奥まった所に座っていたオーナーの隣に、律子が座った。
「素晴らしい歌でした。子守歌にするには、少々力強い印象でしたが」
 自嘲にも似た笑顔だったが、それでもどこか楽しげに見える。
「私達は、アイドルなんです」
 律子は、いくらか持ち直した千早を引っ張ってバーカウンターに座る春香を見ていた。
 律子は、あずさと雪歩の間に割って入り、企画プロデューサーに声を掛ける伊織を見ていた。
「もちろんCDも出しますし、TVにも出ます。でも、ライブはやっぱり、特別なんです」
 一瞬、企画プロデューサーと目が合った。律子は、彼から笑顔を向けられたような気がした。
「私達は、会場に来てくれたファンの気持ちを受け取って、当日、その場で歌い方を変える事もあります」
 律子の視線が、老人の横顔に戻る。
「今日も、一緒です」
「私の気持ちは、受け取ってもらえなかったのかな?」
 老人は冗談半分で言うが、その声を受けても、律子の表情は真剣だった。
「受け取りました。だから、全力で歌いました」
 老人が、律子の目を見た。
「受け取りましたよ。この店の歴史を終わりにしたい人なんて、誰もいなかった。貴方を含めて、誰も」
「いや、私は確かに――」
「聞かせて頂けませんか? こんな、素敵な夜ですし」
 やれやれ、と言いながら老人はどこか、肩の荷が下りたような表情だった。



 【12月4日、深夜。23時07分】


「私は、体の調子があまり良く無くてね」
 何から話せばよいやら、と悩んだ末、老人はぽつりぽつりと話を始めた。
「早めに手術をすれば、まぁなんとか生き長らえる事はできるらしい」
 その手にホットウイスキーを渡され、老人はそれを小さくすすった。
「ただ、それも一つの道か、と思ったのです」
 それ、とは病に身を任せる道だった。
 もう充分生きたという気もしますしなぁ、と老人は笑った。

「あれは、秋の初め頃――」
 ある日、老人のもとを訪ねる男がいた。
 成人式の日に初めてこの店を訪れ、ギムレットを頼んで嬉しそうに飲んで以来、常連になった。
 この店に通い続けて、もう10年が経つ。青年は、もう立派な男になっていた。
「さすがに、付き合いが長いのでね。様子がおかしい事はすぐ分かりました」
 男は、夜と酒の力を借りて、老人に話し始めた。
 仕事の事。親友の事。ある事件が起きた事。友人を救う為に、渡米する必要がある事――。
「細かい話は、まぁ省きましょう。彼には大金が必要だが、持っていなかった。だから、貸したのです」
 結局、必ず返すと約束した日になっても男は現れず、連絡も無かった。
「私は、手術をどうするか、決断し切れなかったんですよ。だから、彼を利用してしまった」
 その金額は決して安い額ではなく、資産の無い老人は、店の運転資金を貸していた。
「逆説的ですが、この店が無くなるのなら、私が手術を受ける必要もなくなると思いました」
 臆病という訳ではないんですよ、と、言い訳のように言葉を繋ぐ。
「私とこの店で、1人の人間を救えたなら、それも良い幕切れでしょう」
 老人は、満足そうに頷いていた。

 重い空気だった。
 年を重ねた老人の決断に口を挟める者はなく、最も近しいはずの企画プロデューサーですら――
「でも、それってヘンだと思うな」
 美希だった。
「その人は困ってたかもしれないけど、そのせいでお店が無くなるのはおかしいよ」
 張り詰めていた空気が変わる。765プロのメンバーも、もう部外者ではない。
 そんな、細い道が見えた。
「ちょっと遅れちゃいましたー、って言って、そのうちお金を返しに来るかもしれませんよ!」
 続いたのは、春香の声だった。場違いに明るい声で、それでも真剣に老人と向かい合う。
「返しに来た時にもしお店がなくなっていたら、その人はどこに返しに行こうか、迷ってしまいますねぇ」
 あずさが、頬に手を当てながら微笑む。
「賭けるとか託すとか、カッコイイように聞こえるけど、そういうのは若い連中がやる事よ」
 伊織の2杯目は、ストレートのオレンジジュースだった。
「オーナーもいい歳なんだから、もう少し回り周りの人間の声を聞きなさい」
 よもや、孫ほどの歳の娘に注意をされるとは思わなかったのだろう。
 老人の目は丸く見開かれ、なかなか次の言葉が出てこない。
 そんな様子のオーナーを見て、企画プロデューサーが一度、咳払いをした。
「結構。貴方が客に店の運命を託すと言うなら、私達にもそれに介入する権利があるという事です」

「プロデューサー、ステージカーテンを開いて」
 律子が言った。
 今日の公演の最中、裏方として協力をしていたプロデューサーは、カーテンの開閉も担当していた。
 なんで―― そう聞こうとしたプロデューサーだったが、律子の表情を見て、迷う事を止めた。



 【12月4日、深夜。23時31分】


 ステージと観客席を隔てていたカーテンが開く。
 その瞬間、津波のような声が押し寄せてくる。
 それまで客席で飲んでいたはずの観客達は、皆、ステージ前に集まり、事の成り行きに聞き入っていたのだ。
「律子、これは……?」
「いつか、私達のライブでも小鳥さんがやっちゃった事、あったでしょう?」
 どれの事だ? と、プロデューサーは、小鳥の失敗の数々を思い返す。そして、行き着いた。
 ライブの後。楽屋。観客席――切り忘れていた、館内放送用の、マイク。
「企画プロデューサーの仕掛けです。乾杯の瞬間から、全部聞こえてたんですよ」

 押し寄せる声の波は、収まる事無く続いていく。
 壮年の男が言った。店の運転資金なら力になれる、手伝わせて欲しい、と。
 白髪の男が行った。腕の良い医者を紹介できる、術後のケアも任せて欲しい、と。
 まだ若い男が言った。やっとこの店に通えるようになったんです、まだまだ通いたいんです、と。
 髪の長い女が言った。母のように、この店で歌いたいと思っていた、あと少しで一人立ちできるんです、と。
 その誰もが、老人には見覚えのある顔だった。
 その誰もが、この店を愛してくれている。
 その誰もが、この店に消えて欲しくないと思っている。
「最後に決めるのは、貴方かもしれない。でも、私達の声は、想いは、どうか受け止めて下さい」
 企画プロデューサーの声が、老人の背中に届く。
 老人は目頭を押さえながら、小さな声で呟いた。
「やれやれ、なぜ皆、この老人を休ませてくれんのかなぁ……」

 いつしか老人の席がステージ中央に移され、何重にもファンが囲む形になっていた。
 オーナーは改めて、店の今後について相談させて欲しい、と宣言をした。
 それぞれに今夜の歌の感想を語らい、いかにこの店を残すか、盛り立てるかと話を弾ませる。
 オーナーは様々な仲間達に囲まれながら、嬉しそうに何度も頷いていた。



 【12月4日、深夜。23時41分】


 雪歩が、必死になって声を上げていた。
 その後ろに、ダッフルコートを着たままの若い女性が立っていた。
 店の喧騒は終わる事無く続き、歌と酒に酔った観客達は、店の存続を心から喜び、さらに熱を増していた。
 雪歩は女性の手を取り、何とかオーナーの下へと導こうとするが、人垣に遮られ、近付くこともままならない。
 そんな雪歩の姿に気付いた千早はステージを渡り、人垣から少し距離を開け、一度、大きく息を吸い込んだ。


   Ave Maria! Jungfrau mild, 
   Erhöre einer Jungfrau Flehen, 


 千早の高く透き通った声が、ステージの上に広がっていく。
 どんな音にもかき消されない澄んだ歌声は、全ての聴衆の会話を止めた。
 ア・カペラ。シューベルトのアヴェ・マリア。
 乙女の願いを聞き給え、という歌詞だった。



 【12月4日、深夜。23時49分】


「代理で、来ました」
 その女性は、言葉を選びながらオーナーにそう告げた。

 看護士である彼女の勤め先に、ある日、一人の男性が運び込まれた。
 アタッシュケースを決して手放さないその男性は、大型車の事故に巻き込まれ、重症だった。
 臓器の一部に深刻な損傷を負っており、2度の緊急手術の後、今も集中治療室にいるのだ、と。

「まさか、その男性というのは――」
「伝言です。『遅れてすみません。どうしても直接手渡したいんですが、年明けでも間に合いますか?』と」
 喝采が上がった。
 1ヶ月くらいなら、いくらだって無利子で立て替えますよ、と銀行家の男が言った。
 この店の常連に、悪い奴はいねぇよ! と、真っ赤な顔の男達が肩を叩き合っていた。
「それと、皆さんにも」
 女性が、765プロの面々に頭を下げた。
「『素晴らしい歌でした。今度は直接聞きたいです』と、伝えてくれと」
 その手に持った1冊の雑誌を開く。今回の企画を取り上げた小さな出版社の音楽誌の増刊号だった。
「これを見て、一生懸命、ノートPCを繋いだんです」
 『大人の夜のライブへようこそ』と題された記事の中に、『ドリンクの準備はできたか』という特集があった。
 それは、インターネット経由で今回のライブを楽しむ方法を細かく説明した記事だった。
 購読者の年齢層を考えた記者の一人が、インターネット初心者向けに書いたマニュアル記事だった。


「どこまでが貴方のシナリオ通りなんですか?」
 そう言って、プロデューサーが振り向いた
 そこに、企画プロデューサーの姿は無く、代わりに、椅子の上に1枚の走り書きが置かれていた。
 プロデューサーが拾い上げると、どうしたんですか、と律子が横から声を掛けてきた。
「――ああ、いや。そろそろ帰らないといけないなってさ。もう真夜中だし」
「そうですね。ついつい長居してしまいましたから」
「よし、じゃ律子はみんなに声を掛けて、着替えに行ってくれ。俺はオーナーに挨拶をしてくるよ」
「了解です。プロデューサー殿」
 律子は片手を上げて敬礼の真似をすると、さぁさぁと声を掛けて回った。
 プロデューサーは手の中のメモに一度目を落とす。


『素晴らしい夜をありがとう
  素晴らしい公演を、ありがとう』


 たった一言のその感想は、その日を振り返った時、誰もが口にした言葉だった。


 インターネットを通じてその公演を聞いた人間が何人いたのかは、定かではない。
 しかし、動画共有サイトにて公開されたその音楽の再生数は、今でも少しずつ伸びているらしい。

 何かの拍子に、ふと聞きたくなるような、澄んだ夜の残り香が、今も、そこにある――。




                                                              【End】

 


  
  
 

 

 

第四話 『そして、幕は上がった』:2009/12/04(20:00)公開
第五話 『星と雪』:2009/12/04(21:00)公開
第六話 『色彩』:2009/12/04(22:16)公開
第七話 『私達の答』:2009/12/05(02:35)公開
第八話 『歌声は、全てをこえて――』:2009/12/09(05:33)公開

 

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