デスクの上に肘をつき、秋月律子が考える。

 私は、どうしたいんだろう。
 私は、どう在りたいんだろう。
 私は、どう見られたいのだろう。

 中指と薬指の間で愛用の万年筆を挟み、その頭を唇の先でくわえる。
 律子は、ああ、ダメだ、と呟いた。
 このままあと2年もしたら、私は確実にタバコを吸い始めるだろうな、と考えながら。


 デスクの上に肘をつき、水瀬伊織は考える。

 彼女はどう見られたいのかしら。
 彼女はどう在りたいのかしら。
 彼女はどうしたいのかしら。

 中指を耳の裏の窪みに添えて、頬杖をつきながらあくびを噛み殺す。
 伊織は、バカみたい、と呟いた。
 分かってるクセに分からない気分に浸ってるんだから、幸せなもんよね、と笑いながら。











 春先。ある日の朝。深刻そうな顔のアイドルが2人――。

「何、ひとりで煮詰まってんのよ」
 伊織は頬杖をついたまま、斜め前に座る律子に聞いた。
「『煮詰まる』ってのは順調に進む、って意味よ。フレンチでも『ソースを煮詰める』って言うでしょ」
 律子は唇から緑色の万年筆を離すと、その視線を伊織に向ける。
「物事の停滞を言う場合は『煮詰まる』じゃなくて『行き詰まる』よ」
 伊織は頬杖から頭を起こすと、腕を組んでニッコリと笑った。
「誤用にツッコミ入れられるくらいには、聞こえてるのね。安心したわ」
 はぁ、と深い溜息。
「条件反射よ。伊織相手にフレンチ料理引き合いに出すなんてね」
「カッコ悪いわね」
「はいはい、どうせ私は伊織お嬢様ほど優雅で華麗なレディではございませんわよ」
 律子の顔は笑っている。そんな自分を、笑っている。
「おやおや、みじめで華の無い律子さん。カッコ悪いついでに、私に相談してみたら?」
 伊織の顔は笑っている。自分を笑っている律子を、笑っている。

 765プロは大きくなった。
 最初の頃の仕事は、地方局の収録とイベント会場でのPRライブが中心だった。
 やがて、キー局のリポーターが入り、バラエティのスタジオにも呼ばれるようになった。
 ライブハウスでの単独ライブで大喜びしていたら、次はアリーナ、屋外ステージになった。
 おかげで予期せぬ仕事も舞い込んできて、その度に右往左往している状態だった。

「で、アンタが渋ってるのはどんな仕事なのよ」
 伊織の問い掛けに、律子が言葉を選びながら答える。
「ファッションモデル? キャンペーンガールかな。中身が主役じゃないから、グラビアじゃないわね」
「水着のグラビアだって『戦略上必要なら』って割り切る律子にしては、ずいぶん弱腰ね」
「条件がねぇ……」
 突き付けられた条件は、契約期間の3ヶ月、公私共に、必ずそのブランドの服を着る事だった。
 通常のギャラに加え、着た服で気に入ったものは全て提供される、というおまけ付き。
「そのくらいなら、受けてもいいんじゃないの? どうせ大してこだわり無いでしょ」
 むしろコンビニの制服みたいなシャツを卒業する良いチャンスじゃない、と言って伊織は笑う。
 律子は、どんな衣装も『着ろ』と言われれば着る。納得のいく理由さえあれば、着る覚悟がある。
 だが今回の場合、もう一つの条件が、頭痛の種だった。
「眼鏡と三つ編みは禁止、ですって」
 笑った方がいいんだろうか。伊織は、少し考える時間が欲しいと思った。

「ジュエリー流行らせてるのは、伊織なの?」
 律子が聞いた。
「私は聞かれた事に答えてるだけよ」
 伊織が応えた。
「何か、この伊織ちゃんに聞きたいことでもあるのかしら?」
 律子が聞いた。
「私に似合う宝石、教えて」
 首の裏を押さえながら、律子がゆっくり首を回す。
 伊織は事務所で――もちろん外で仕事がある日を除いて――自分より後に来る律子を見た事が無い。
 そして、自分より先に帰る律子を見た事が無い。
「エメラルド」
「即答ね。理由を教えてもらえる?」
「エメラルドの特徴の1つはその『もろさ』よ。モース硬度で8に届くから、決して軟かい訳じゃないわ」
 でもね――と、伊織は椅子から立ち上がると、デスクの島を回り込んで律子を見下ろすように立つ。
「一定の方向からの衝撃にはてんで弱いの」
 スウッ、と右手の人差し指を、律子の眼鏡のツルに這わせながら伊織が続けた。
「あとは、不純物の多さ。インクルージョンを含まないクリアなエメラルドは、まず無いわね」
 律子のデスクの端に浅く腰掛け、伊織は軽く足を組む。
 伊織の黒いワンピースの裾をつまんで少し持ち上げながら、律子は苦笑した。
「人を例えて『不純物が多い』はひどいんじゃない?」
 そして律子は全く別の意識で、もう少し短くしてもカワイイわよね、と呟いた。
「アンタの場合は不純物っていうよりも、雑念ね」
 ぴょん、と机から飛び降りると、伊織は書類用のダブルクリップを拾い上げた。
 律子の押さえた長さでスカートを仮留めし、一度そこで回って見せる。
「雑念?」
「そう。私は誰々みたいに可愛くない、とか言って比較される事から逃げてるじゃない?」
「逃げてるって何よ。私は冷静かつ客観的な分析で――」
「アンタ、誰が褒めたって認めないじゃない。その時点で主観100%なんだから客観的とか言わないでよね」
 律子が事務所で『私のずんどうな体型』と発言した時の空気を、伊織は今も憶えている。
 上位者の謙遜は、その下に位置する者全てを傷付けるのだと、伊織はあの日、知った。
「でも勘違いしないでよね。私はそれを責めてる訳じゃないわ」
 さらに2cmほど短くなったスカートから、肩幅に開かれた伊織の足が見えていた。
「エメラルドは衝撃に弱く、インクルージョンも多い。でも、その弱点を全て克服する方法を見つけた」
「弱点を克服?」
「――エメラルドカット」
 伊織は、髪を留めていたリボンをほどくと、自分の左の太腿に巻いてみる。少し悩み、外側で結ぶ。
「一般的に用いられる宝石のカットの中で、唯一、宝石そのものの名が付いた、エメラルドの為のカットよ」
 変形のスクエアカット。石全体を取り巻くように八面にファセット(切子面)を配した、特有のステップ。
「インクルージョンのせいで弱まるはずの輝きを最大限に発揮する為の、屈折率まで計算し尽くされたカット」
 律子は椅子から立ち上がると、両手の人差し指と親指で長方形のフレームを作り、伊織を切り取ってゆく。
 そして思い付いたかのように、自分のバッグから白いカフスとカラーを取り出した。
「そしてそれは同時に、鋭角を減らす事で衝撃耐性を高め、輝き以上に色の深みを得る事も可能にしたのよ」
 カフスとカラーを伊織に付けながら、律子は、まるで独り言を呟くように言う。
「随分、うまい話があるものね」
「ずっとそれ狙ってるのがアンタでしょ。何を今さら」
 あははっ。そういやそうね――律子が、吹き出すように笑った。
 呆れたような目で律子を睨みつけようと思った伊織だったが、律子につられて笑ってしまう。
「アンタはなんでも分かってる癖に、たまに行き詰まってるフリするのがムカつくのよねー」
 律子は机の上からノートと万年筆を取り上げると、ポーズをとる伊織を見ながら気付いた事を書き留めていく。
 ガーター代わりのリボンは黒。ブーツよりは、ニーハイにパンプス。赤? 黒? 白も可。
 カフス、カラーに合わせて、白の髪飾り。大きめのイヤリングでも可。
「私もペンダントか何か、買ってみようかしら」
「地金はゴールドにしなさいよね。あと、安いエメラルドは色が浅くて目も当てられないから、ちょっと頑張るのよ」
 律子は伊織の声に2度、頷いた。
「確かにゴールドと深いグリーンの組み合わせは、素敵よね」
 そう言って、万年筆を目の前にかざす。その万年筆も、緑の軸に金色の金具が美しい1本だった。
「父親から、もらったのよね。それ」
「ええ。デビューしても事務員続けるって言ったら、何日か経ってから『両方ガンバレ』って渡されたの」
「……律子の父親に会ってみたくなったわ」
「え?」
 何を急に? と、訝しがる律子を無視して掌を差し出し、伊織は、律子の万年筆を受け取った。
 それはイタリアのブランド、『ビスコンティ』の万年筆――。
 その中でも、鮮やかな色彩をモチーフにした“ヴァン・ゴッホ”シリーズの緑、『エメラルド』だった。


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「ルシエル・ベイユですって!?」
 悲鳴にも似た伊織の声がこだまする。
 あの話は断ったわ。私は私流で行く事にする――そう、得意気に見せた律子の笑顔が、固まった。
「アンタ、バカじゃないの!?」
「え、伊織……、あなたが『私らしく行け』って応援してくれたから」
 ツカツカと律子に歩み寄り、伊織はその両肩をギリギリと掴む。
「日本じゃまだ無名でも、ヨーロッパじゃ圧倒的な支持を受けてるデザイナーブランドなのよ!」
 伊織も、ワンピースとドレスをオーダーしたが6ヶ月待ちと告げられていた。
 日本上陸となれば、日本のファッション業界全体が揺れる。そんなブランドだ。
「なんでアンタにそんな仕事が来るのよ!」
「分からないわよ。この前の『東京ガールズコレクション』のステージ前に緊張してトイレで顔洗ってたら、
なんか金髪の女の人に呼び止められて――」
「まさか、本人じゃないでしょうね」
 『東京ガールズコレクション』のステージには、特別ゲストとしてルシエル・ベイユが招待されていたはずだ。
「ああ、ご本人だったみたいよ。『私のブランドの服を着て欲しい』って通訳さんが言ってたから――」
「今すぐ眼鏡外しなさい!! 三つ編み禁止ー!!!!」

 伊織は、律子の胸元で揺れるエメラルドを見ながら想う。
 きっと律子は、トップアイドルになったとしても、その先を探してしまうんでしょうね――と。

 

 

 エメラルドの石言葉は、『新たな始まり』なのだから。


                                                              【End】

 

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