「知っているかい? この桜が、なぜこんなにも紅いのか?」
立ち枯れたように見える桜の古木に、菊地真がそっと寄り添う。
墨染めの和服を着たその姿は凛として美しく、その唇は花びらのようだった。
「知らないよ。けれど、なんだかとても恐ろしい風情。まるで、心を握り潰されるみたいに」
乱れた息を整えながら、さながら夜魔のように笑う真の目を見て、雪歩は両の腕を抱く。
寒くは無い。むしろ生暖かいような夜の風に、桜の花が散らされていく。
「君はまだ、知らないんだ。そして、知らなくていいんだ」
「そんな言い方しないで。私も、一緒に――」
「その先を言う君の心は、本物なのか?」
「え――?」
ゆっくりと。ゆっくりと。その高台から菊地真が。
花びらのように舞い降りる。
大きな歩幅で、右足。そして刹那遅れて、左のつま先。
長く尾を引く箒星の様に両の袖を従えて、その桜の精は雪歩に向かう。
「その薄氷のような言葉を紡ぐ君の唇は、本物なのか?」
伸びる右手。袖から伸びる白い腕。そのさきに載る桜色の爪。
その爪が、そっと雪歩の唇に触れた。
「本物だよ。だって、今、貴方が触っているもの」
雪歩の両手が、そっとその手を包み込む。
冷たい掌が、まるで蛤の殻のように真の右手を包み込む。
そこから伸びた人差し指だけが、別の生き物のように雪歩の唇をなぞる。
「僕が触っているのかい? それは、幻かもしれない。あるいは君の願望かもしれない」
閉じられる目。開かれる唇。
その狭い隙間から這い出した赤い舌が、真の指を絡め取る。
それは精を求める蛇のように指を伝って流れ、指はまるで鱗の様に濡れてゆく。
「ああ、そうか」
菊地真の目に、涙の粒が浮かぶ。
「随分と待たせてしまったね。待ちきれなかったから、君はもう来てしまったんだ」
両手で真の右手を押さえ、逃さず、雪歩の舌は真を絡め取る。
真の爪はその柔らかな肉を傷つけながら、少しずつ温かな舌の上を流れてゆく。
奥へ、奥へ。奥へ。
「君ももう、こちら側に来てしまったんだね。だからもう、戻れやしないんだ」
涙の粒がこぼれた。
それは銀色の尾を引きながら頬を伝い、空を舞って地面に消えた。
「御免よ。待たせてしまったね」
真はさらに一歩、その歩を進め――。
「一人ぼっちで、寂しかっただろう。怖かっただろう」
真はその左手で雪歩を抱き――。
「もう、大丈夫だよ。夜の闇も、朝の日差しも、もう君を傷付けやしないよ」
ゆっくりと、その体を地面に横たえる。
雪歩の髪は水面に浮かぶ彼岸花の様に広がり、その背中には、土の柔らかさに抱かれていた。
柔らかい土だった。
「さぁ、目を開けて」
真はゆっくりと右手の指を引き抜くと、雪歩の両手を胸の上で絡めた。
白いワンピースを着た雪歩の体に、ゆっくりと自分の体を重ねる。
「君が見る最後の景色だ。そして本当の君が見る最初の光景だ」
そう言って、その白く強い指先で、雪歩の首を包み行く。
「桜が綺麗だよ」
見上げる雪歩の目に、夜空を覆う霞のような桜の天井。
そしてその下に、菊地真の笑顔があった。
「みんなも、待っているからね」
そう言って、その白い指が少しずつ、柔らかな喉を締め上げる。
「みんな、一緒だね。真ちゃん――」
そう呟いた雪歩の頬に、真の涙がポツリと落ちた。
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「なんで最後で役名間違えるかなぁ……」
「すいませんっ! 監督、雪歩もこう、没入しすぎちゃって、って雪歩ー! どこいったんだー!」
「ぐすんッ」
【End】
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