風が吹いていた。
暗い夜の闇を照らす灯りはあまりに弱く、朧げで、儚い。
全てを呑み込む様な虚無と重力が、心を濃い影で覆っていく。
心臓の裏側から引っ張られ、地面に取り込まるような錯覚。
背骨を掴まれ、肉体と乖離したそれが夜空へ吸い込まれるような感覚。
虚言。虚勢。虚栄。
虚像。虚構。虚飾。
――虚無。
失うものはあまりに大きく、すがる糸はあまりに細い。
それでも少女は夜闇に光る蜘蛛の糸、その一条に手を伸ばし、絶望を確かめる。
もう届かない。
もう手に入らない。
もう取り戻せない。
もう――。
「客観的かつ公正な視点で、決して私情を挟まず、事実のみを列挙する事にしましょう」
それが、秋月律子の提案だった。
わずかに厚みのあるレジャーシートの下に桜の根を感じながら、千早が頷く。
では、私から――と、律子。
「まず、プロデューサーのプロデュースには、確かな実績があるわよね」
その点については、千早も大きく同意する。
候補生だった自分をたった1年でBランクアイドルに育て上げたのだから。
それも、千早一人だけではない。同時に3人を担当して、だ。
「私をBランクアイドルにするなんて、すごい力量だと思うわ」
それぞれにソロとして活動しながら、律子と千早は、時折同じステージに立った。
だからこそ、お互いを認めているし、お互いの気持ちも知っていた。
「そのプロデュース力は広く行使されるべきで、対象を限定すべきではないと思うの」
風が吹く。桜の花びらが舞う。
心が騒ぐ。千早の表情が曇る。
「例えば指導者的な立場に立って、後進を育成する事こそ、プロデューサーの進む道だわ」
律子は右手の人差し指を立て、同意を求めるように千早を見る。
千早は溜息混じりに首を横に振り、律子の言葉に抵抗を示す。
「……選択肢の一つではあるけれど、それが最善だとは思えないわ」
律子の眉が、小さく沈む。
千早の声が、小さく弾む。
「いくら実績があるとはいえ、まだ2年しか経験が無いのよ」
千早の手が中空に円を描く。そしてそれを、さらに大きな円で囲んだ。
「プロデューサーは不動の地位を築くべきよ。例えば、国外でも実績を上げる、とか」
律子は両腕を組み、小さく首を傾ける。千早は気付かないふりをして、話を続ける。
「社長業は、凱旋帰国の後でもいいんじゃない? プロデューサーも律子も、まだ充分若いわ」
――千早が、一歩踏み込んだ。
「千早。あなたがアメリカでトップアイドルになるのに、何年かかるの?」
――律子が、それを受けて立つ。
「やってみなければ分からないわ」
「日本よりも簡単だとは思えないから、早くて2年としましょうか」
律子が右手の甲を向け、人差し指と中指を伸ばして見せる。
「プロデューサーの実績から言えば、2年あればAランクアイドル2人とBランクアイドルを4人出せるわ」
ここ1年の成果に2を掛けただけの単純計算だったが、ただそれだけに、間違いも無い。
「それだけの才能を、千早が独り占めする気?」
知っていた。
律子が、プロデューサーと一緒に事務所を構えたがっていた事を、千早は知っていた。
千早が、プロデューサーと一緒にアメリカで挑戦したがっていた事を、律子は知っていた。
だから2人は、互いに夢を語れなかった。
誰よりも大切な人を、誰よりも仲の良い親友から奪うことは出来なかった。
そして2人は、プロデューサーを失った。
「3人で、アメリカに行ければ良かったわね」
「え……?」
「楽しいと思うわ。律子も、学べる事が多かったでしょう? きっと」
考えてもみなかった。
でも、それはとても刺激的で、それはとても楽しそうな世界だ。
「アメリカは、エンターテインメントとショービジネスの本場だもの。興味あるでしょう?」
「楽しいかもね。ううん、楽しいに決まってる。千早と、プロデューサーと」
2人は語った。
決してたどり着けない場所。
訪れる事の無い未来。
もう手の届かない、夢――。
「なんだかんだで頼りになったのよね」
律子は、そっと右手を耳の裏に向け、右の三つ編みに触れた。
「ミスは多いし、オーディションじゃアイドルよりも緊張してたけど」
「プロデューサーは、優しかったわね」
千早は、ペンダント代わりに首から下げたプラチナの指輪に触れた。
「いつだって、本当にいて欲しい時には、隣にいてくれたもの」
律子が、じっと千早の顔を見る。
「今は、『いて欲しい時』じゃないの?」
「私達も、卒業の季節なのよ。きっと」
「卒業、か……」
2人は、ふぅっ、と息を吐いた。
千早は紙コップを2つ取り、1つを律子に手渡した。
律子は事務所から持ち出した水筒から水を注いだ。
「カンパイ」
律子が言った。
「どっちの意味?」
千早が聞いた。
律子は答えずに、冷たい水に唇を付けた。
「その内、結婚式に呼ばれたりするのかしらね」
律子の目には、幸せそうなプロデューサーの顔が浮かんでいた。
「呼ばれないほど嫌われてはいないつもりだけど」
千早の耳には、嬉しそうな同僚の声が残っていた。
「呼ばれたら、千早は行く?」
「行かない訳には……いかないわよね」
千早もゆっくりと喉を潤す。
風が吹いた。
満開の桜が大きく風をはらみ、霞のように花びらを散らした。
「いっそ、どうしても外せない仕事とか、入らないかしら」
律子の呟きを聞いて、千早が笑った。
「じゃぁお仕事でスケジュールを埋める為に、私達もAランクアイドルにならないとね」
「何言ってるのよ! あの子と並んだってしょうがないじゃない」
ビシッと、音が出るような勢いで律子が人差し指を立てた。
「超えるのよ。私達は、Sランクを目指すのよ!」
「じゃあいっそ、デュオで再デビューしてみる?」
「いいわね。私と千早なら、絶対イケるわ!」
――乾杯!
2人の声が重なった。
夜の公園に、明るい声が響く。
月明かりの下で、桜の色が移った様な2人の頬は、ほんの少し、濡れていた。
【End】
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