風 桜の花はかつて、生命の象徴だった。
天津神に仕える乙女を彩る花であり、芽吹く命の象徴だった。
それが、いつしか死と滅びの象徴となった。
命を賭して死地に赴き、潔く散る誇り高き死の象徴となった。
江戸時代の、武士の文化のせいだろうか。
明治と昭和の、軍国主義のせいだろうか。
21時19分。新宿御苑、南西部。
秋月律子は、満開の桜の下で思いを馳せる。
この夜桜は私達が見る最期の光景かもしれない、と。
手に持った紙コップの中に一升瓶の中の透明な液体を移し、その臭いを嗅ぐ。
強い臭いに小さく眉根を寄せ、それを隣の、長髪の少女に手渡した。
如月千早は宵闇に舞い散る桜の花弁を避けながら、その意識を開放する。
半径50m。100m。150m――異常質量補足。
速度は通常巡航速度。直進。進路に障害物無し。接近遭遇まで、約160秒。
「律子、来たわ。1体よ。識別番号、不明――」
「1体なら、なんとかなるわ」
律子はバックパックの中からデジタルカメラとマッチを取り出し、上着のポケットに収める。
続けて、台所用洗剤と割り箸を取り出した。
置いていいわ、と千早に指示を出すと、目の前には透明な液体が入った紙コップが6つ。
律子はその紙コップの中に、台所用洗剤を加えていった。
距離100m。夜間用視覚に切り替えた千早の目に、敵の姿が映る。
「律子、来たわよ」
千早が、ゆっくりと立ち上がる。
「外観は?」
「私に、似ているわ」
ちっ、と律子が小さく舌打ちをした。
――完成したというの? 計画を1週間以上短縮して?
律子は、紙コップの中の液体を割り箸で撹拌していく。4つ、5つ。
その時、律子の右上腕のホルダーの中で、携帯端末が着信を告げた。
「千早、モード:スタンドアローン。以降の指示は音声認識に限定」
「YES、MY MASTER」
千早の応答を確認し、律子は端末のディスプレイに触れる。
表示されていた発信元は、水瀬財閥・生体工学研究所――水瀬伊織からの通信だった。
『律子、調子はどう?』
「正体不明の敵に追われてるわ。そっちでなんとかならない?」
『……戻りなさい。忠告したはずよ』
「やっぱり、あなたなのね。伊織」
『2人で戻ってくるなら、手荒な真似はしないわ』
「千早は、渡さない」
律子は通信端末を切ろうとするが、タッチディスプレイは一切の操作を受け付けない。
『回線はこちらで掌握したわ。せめて、データ採集に協力しなさい』
携帯端末を投げ捨てようか、とも考えたが、律子は、それが無駄な抵抗であると知っていた。
好きにしたらいいわ――律子は6つめの液体を撹拌し終えると、千早の隣に並んで立った。
――WARNING――
Unknown Enemy is Approaching Fast.
薄暗がりの中から姿を見せたのは、まさに如月千早だ。
ダークゾディアックに身を包み、ヘッドマウントディスプレイを身に付けていた。
「完全に、夜間戦闘用の装備ね」
『私はいつだって、最適な答を選択するわ』
「それが、千早の戦闘データ抽出という訳?」
『他に、方法があるなら教えなさいよ。私だって――』
律子の視界の端で、敵が姿勢を低くした。
「千早! 怪我だけはしないでね」
「YES、MY MASTER」
敵の速度は、千早のそれを遥かに凌駕していた。
右手四本貫手による鳩尾への刺突。続く左の肘打ちから、右の裏拳、左の中段回し蹴り――。
律子の指示を受けながら、千早はその攻撃をギリギリの所でかわす。
『旧型が新型に勝てるなんて、思っちゃいないでしょうね』
律子は伊織の言葉にはあえて返事をせず、ただ、その瞬間を待っていた。
そして、敵が一瞬の溜めを作る。後ろ右足軸から、前左足軸への重心移動。
「Catch'n Take」
律子の声。
敵は低い体制で距離を詰めながら体を回転させた。体重を乗せた、右の後ろ回し蹴り。
側頭部を狙う上段、よりもさらに高い位置から軌道が変化し、踵落としとなる。
千早は半歩前に進み、膝を曲げて腰を落としながら、両腕を交差しての十字受けで敵の膝裏を止めた。
そして、千早はきつく目を閉じる――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
単純なスペックで言えば、両腕を使ったところで、千早に止められる筈が無い。
それでも、こうして攻撃を止め、ダメージを受けずに戦闘を継続できるのが“如月千早”だ。
「やっぱり、千早のデータは必要だわ」
水瀬伊織はコントロールルームの中で、13のモニター全てを監視しながら呟いた。
この体勢では次の攻撃手段が限られる。距離を取らせよう、と伊織は右手を走らせる。
<――ReMove――
水瀬伊織が命令を下す。しかし、帰ってきた答は想定外のものだった。
>――Dance Accident!――
「なんですって?」
千早は、十字受けで蹴りを止めた直後、腕を反転させ、両手でその足を掴んでいた。
膝から大腿部までを固定され、“T-C01-P”は至近距離からの離脱が出来なかった。
そしてその直後、“T-C01-P”の視覚と連動したモニターがホワイトアウトを起こす。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
律子はデジタルカメラをポケットに戻す。
視野角ほぼ中央からの、高輝度フラッシュの直撃――夜間視覚のスターライトスコープにはキツいはずだ。
想定通り、敵はその動きを止めた。
「千早、ReMove!」
新宿御苑は今、夜間進入禁止になっていた。警察による介入。一般市民への保護措置。
だとすれば次の索敵方法は――律子は状況をほぼ正確に読み切っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伊織は指を走らせ、被害状況を確認する。
光学センサーは当分使い物になりそうにない。だが、戦闘は充分継続できる。
まだ、“T-C01-P”の方が有利な事に変わりは無い。
視覚を切り替える。無人の、夜の公園だ。熱源感知視覚で対応できる。
そう判断した水瀬伊織は、しかし、“T-C01-P”の出す声に耳を疑った。
>――Visual Accident!――
熱源感知視覚に切り替えたはずのモニターは、異常な熱源を感知し、真っ白に染まっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
律子は紙コップの中身を地面に流す。
ドロリとしたその液体は飛び散る事無く、一条の水跡となって2人と敵との間に線を描く。
そして、律子はマッチを取り出した。
白い気泡を内包したその液体は、ガソリンと、界面活性剤、安定化剤、粘度調整剤の混合液。
――簡易ナパーム燃料よ。
ゲル化したガソリンは垂れる事も流れる事もなく、黒煙を上げながら、高温でいつまでも燃え続ける。
『用意がいいのね』
「まさか身内に使うはめになるとは、思ってなかったけどね」
伊織の声は、小さく震えていた。
律子には、その声の理由が分からなかった。
『次はどういう展開になる思う?』
「夜間視覚、熱源感知視覚がダメ。それでも戦闘を継続するというなら、対物ソナーでしょうね」
『対策はあるのかしら?』
「常に桜の木に隣接して戦わせるわ。幹に衝撃を与えて桜の花を散らして、チャフ代わりにする」
『逃げてばかりでは勝負にならないわよ?』
「伊織、彼女の体表センサーの値を確認しなさい」
携帯端末越しに、伊織が息を呑むのが分かる。
『いつの間に――』
“偽千早”の首から胸、腹部、そして両足の先にまで、その液体がかかっていた。
衣装であるダークゾディアックの上だけでなく、そこから露出した肌を覆うように付着している。
「炎のラインを越えようとすれば、引火するわ。戦闘不能になるのは確実でしょうね」
沈黙。
携帯端末から伊織の声が消えた。
“偽千早”も、その動きを止めた。
状況を打破する方法を考えているのだが、伊織には実戦の経験が不足している。
「行かせて。伊織。961プロは、私達が止めるわ」
律子は優しく、語り掛けるように言った。
「水瀬財閥には、充分助けてもらったわ。感謝してる」
千早はそっと律子に近寄り、その肩に手を添えた。
フンッ――そんな声がした。震えるような声だった。
『ふざけるんじゃないわよ! 何勘違いしてる訳!?』
伊織の声。震えるその声は、語調とは裏腹に、まるで泣いている様だった。
『961プロの裏には黒井重工やKCLがついてるのよ。技術も資金も桁違いなのよ!』
「だからといって、千早を――」
『黙りなさい! 961プロに単身で乗り込むって事がどれだけの無謀か、教えてあげるわ』
伊織の声は悲痛だった。
そして初めて律子は理解した。伊織だって、千早を失いたくないのだ、と。それでも――
「Unknown!」
千早の声がした。
「どうしたの!? 一体、何があったの?」
「律子、囲まれているわ。正体不明。いえ、彼女と同型。数は――12体」
桜の木々の陰から、“偽千早”が姿を見せる。完全に包囲する形で、12人。
『千早自身が巻き添えを避ける為に夜間視覚と熱源感知を切る事は想定済みよ』
伊織が言った。勝利の喜びなど微塵も感じさせない、悲しそうな声だった。
『だから、新しい敵の発見が遅れ、結果として包囲されるのも当然。こういう戦い方が961のやり方よ』
伊織は知っていた。
圧倒的な能力を持っていたはずの“星井美希”がいかにして961プロに倒されたかを。
“萩原雪歩”と菊地真は、今も集中治療室から出られずにいる。
“天海春香”は一週間前、プロデューサーと共に消息を断った。
これ以上、誰も失いたくない――だから、伊織は決意したのだ。
圧倒的な能力の素体に、豊富な戦闘経験データを移植する事。そして、それを量産する事。
『千早のデータがあれば、961プロとも互角の勝負に持ち込めるわ。協力しなさい』
「断るわ。千早からデータを抜き出せば、私達との思い出まで消えてしまうのよ!?」
『このままじゃ千早を失うだけじゃなくて、765プロも、アンタも私も消されるのよッ!!』
“偽千早”の内の1体が、極端な前傾姿勢のまま一気に距離を詰めた。
千早はそれをサイドステップでかわしながら、右足だけをその場に残す。だが、跳躍された。
“偽千早”は空中で屈伸の1回転をすると、5mほど先に着地する。
「大したバランスだわ」
『基礎能力なら、千早を超えてるわ。アンタ達が勝てる訳、ないのよ』
「ですって。千早は、どう思う?」
「律子が信じてくれるなら、私は戦えるわ」
千早は、優しく微笑んだ。
――失ってたまるもんですか。
律子は、千早の微笑みに応えた。
――こんなにも素敵な笑顔の出せる千早を、あの頃の千早に戻す訳にはいかない。
律子は一度だけ、そっと千早の背中に両腕を回し、抱きしめた。
「私を守ろうとはしない事。あなたは敵を、1体ずつ、確実に無力化しなさい。いいわね?」
「YES、MY ……PRODUCER」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
千早が3体目の敵を倒した時、律子の悲鳴が聞こえた。
律子の背後には“偽千早”が立っており、首には“偽千早”の右腕が深く食い込んでいた。
『律子、チェックメイトよ。千早を止めなさい』
「私がいなくても、千早は戦えるわ。私は彼女を信じてる」
『あなたがいないのと、人質に取られてるのは全く別の話よ』
伊織が言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伊織は“T-C09-P”の声帯と音声回線をリンクさせ、如月千早に呼びかける。
「律子はああ言ってるけど、大切なのはあなた自身の意思よ」
伊織の声は、しっかりと千早に届いている。千早は、苦しむ律子に視線を向けた。
「私は、ただ無意味に千早を解体するって訳じゃないわ。あなたの戦闘経験データが、みんなを救うのよ」
伊織は右手でキー操作をし、“T-C11-P”による律子の拘束を強める。
その表情で千早を揺さぶる事も効果の1つだったが、今は律子に喋らせない事が何より大事だった。
「……分かったわ。従うから、律子に手荒な真似をするのはやめて」
千早が構えを解き、戦闘態勢を解除する。伊織は、それでも緊張を緩めなかった。
「あなたの決意を疑うつもりは無いけれど、両膝を破壊させてもらうわ。下肢の痛覚をカットしてちょうだい」
千早は一度小さく頷くと、そっと目を閉じた。
律子の叫び声が振動となって、“T-C11-P”の体表センサーで感知される。
――仕方が無いじゃない。
伊織は、流れる涙を拭わなかった。
“T-C09-P”が疾駆した。
真正面から膝関節を狙う。
右の踵に全体重を乗せた、踏み抜くような下段の突き蹴り――
その瞬間、伊織の視界がアラートで赤く染まる。
警告音。
――WARNING――
Unknown Enemy is Appearance.
モニターに、敵の識別番号が表示される。
Unknown、などではなかった。水瀬伊織は知っていた。
完成を急いだから、“T-C”シリーズにはデータ登録をしていなかっただけだ。
13体の“T-C”シリーズのセンサーを掻い潜り、ここまで接近できるのはただ一人だ。
唯一、完成された熱光学迷彩を展開できる、765プロのアイドル。
「発見されない」とか「目立たない」って、アイドルとしてどうなんでしょう、と苦笑していた彼女だけだ。
――天海春香。
また一粒、伊織の頬に涙が流れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
千早が目を開けた時、目の前にいたのは天海春香だった。
およそ戦闘用とは思えないゴシックプリンセスに身を包み、春香は、千早に歩み寄る。
「がんばったね、千早ちゃん」
春香はその華奢な肩を抱き寄せ、よしよし、と千早の頭をなでた。
「春、香……」
千早は額を春香の左肩に乗せた。一粒、涙がこぼれた。
「立てるか?」
目の前に差し出された手を、律子は掴む。ひとしきり咳き込んで、いくらか頭もハッキリした。
「いい大人なんですから、連絡くらい入れて下さい。本気で諦めかけてたんですよ」
律子は、目の前のプロデューサーを睨み付ける。
プロデューサーと春香が消えてから、1週間が経過していた。
「春香と2人で、いったい、どこで何をしてたんですか?」
「誤解されるような言い方するな。仕事だよ、仕事」
プロデューサーは律子を立たせると、千早と春香の2人と合流した。
「KCLに潜り込んできた」
『KCLですって!?』
律子の携帯端末から、伊織の声がした。
KCL――『クロイ・サイバネティクス・ラボラトリー』は、世界最先端の生体工学研究所だ。
その研究成果は黒井重工の技術力と合わせて、961プロに提供されている。
「だから、連絡できなかったんだ。何かで勘付かれたらさすがにアウトだからな」
『アンタ、なんでそんな危ない橋を渡ってんのよ!』
「水谷絵理を、保護してきた」
その名前に、3人が息を呑んだ。
ウィザードと称される彼女の技術と閃きは、KCLの中でも最高位と噂されていた。
「これで、千早は千早のままで、戦闘経験データだけを、抽出する事も出来る」
千早と律子は、互いに笑顔を交わす。春香は、良かったね、千早ちゃん! とその手を握る。
「データとして相互補完を行い、予測演算能力を高める事も出来る。そしてきっと、雪歩も助けられる」
プロデューサーは言った。
「伊織、苦しかっただろう。すまない。俺達がもう少し早く――」
『バッカじゃないの!? そこだって安全って訳じゃないんだから、早く戻りなさいよね!』
伊織の声は、涙声だった。そして、そこで初めて通信が切れた。
周囲の千早達は、次々と帰還をし始める。
「よし、俺達も帰ろう。765プロへ」
プロデューサーが声をあげた。
「帰ったら、全員でミーティングだ。これからの方針を伝えるぞ」
4人の間を、一陣の風が通り抜けていった。
薄紅の花びらが舞う。
夜の闇はまだ深く、夜明けはまだ遠い。
けれど、その闇夜の中で、互いの笑顔は確かに輝いて見えた。
月が、とても綺麗な夜だった。
【End】
|