「空が、紅いなぁ――」

 そんな声がした。
 窓の外が見たくなって、ゆっくりとベッドの上で体を起こす。
 体が、軋む。
 風車の街。石畳の街道を進む、ロバが牽く古い荷馬車のように、ギシギシと。

「もう、夕方なんですね」

 ひどく他人行儀な言い方だ、と自分が嫌になる。
 でも、どうしようもない。
 ボクは一人になりたくて、誰とも会わずにすむ場所を目指したのに。
 ボクは一人になれなくて、結局、ボクはボクのままでしかいられなかった。

「見ろよ。空と海の境目が無いんだ。こんな光景、初めて見たよ」

 シーツの間から出ようとして、少し、躊躇した。
 グレーのタンクトップに、黒のショートパンツ――。
 水着だと思えば大差ないけれど。それでも少し、抵抗がある。
 不安で押しつぶされそうな心臓が、一度、二度と悲鳴を上げる。
 頭はどこまでも冷静で、冷え切って、澄み渡っていて。
 ああ、この人はどんな嘘をついてボクの部屋の鍵を手に入れたんだろうと考える。
 海の見える小さなホテル。その最上階の角の部屋。
 この701号室が、ボクに残された最後の砦。

「この部屋で、何をやってるんですか?」

 もう少し前に聞くべき質問。
 少しずつ吹き始めた偏西風を受けて、風車がゆっくり回り出すように。
 ボクの頭は、やっと呼吸を始めたみたいだ。
 2回、息を吐く。2回、息を吸う。
 プロデューサーは背中を向けたままだ。

 部屋は、干草みたいな匂いがする。これはきっと、太陽の残り香だ。
 もう、太陽の時間が終わる。
 寒い夜になってしまう。

「担当アイドルを、心配してる」

 なら、振り返って言うべきだ。
 そう思ったけれど、口は動かなかった。
 どんな風に返されるか、だいたい分かる。
 それはとても自然な事で、常識的な事で、当たり前の事で。
 それはとても大切な事で。普遍的な事で。大人の事情で。
 それは、とても高い壁で。とても深い溝――。

「もう、違います」

 シーツの中に潜り込む。
 まだ顔も洗ってない。汗も流していない。髪もとかしていない。
 歯も磨いてないし、朝ごはんも食べてない。
 いや、今から食べても、朝ごはんではないだろうけど。

「ああ、そうだ。これ、小鳥さんから」

 プロデューサーは、窓の外を見たまま、スーツのポケットから白い封筒を取り出した。
 高木社長へ、と書かれた文字には見覚えがある。
 3日前、ボクが書いた退職願い。
 そこにかかる黒い霧。

「なんか、コーヒーこぼしちまったから、こっそり書き直して欲しいそうだ」

 ははっ。
 自分の声に驚いた。笑った? ボクが?
 
「それを届ける為に来たんですか? わざわざ?」
「ああ、そうだ」
「あずささんのプロデュースはどうなってるんですか?」
「しばらく自主レッスンだ」
「あずささんに、悪い事しちゃったな……」
「笑顔で送り出してくれたけどな」

 プロデューサーの背中。
 グレーのスーツが夕日に染まり、まるで濡れた大理石みたいだった。
 墓石みたいなその背中は、ボクの心を騒がせる。
 ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 ダメだ。

 紅に染まったカーペットの上に降り立ち、ゆっくりと素足を伸ばす。
 肌を覆うものは、ひどく薄っぺらなタンクトップ1枚で。
 その下には、何も付けてなくて。
 両足は太腿の付け根までむき出しで。
 きっと、汗のにおいや、涙の跡が残ったままで。
 なのに。

 ダメだ。

 必死の思いで、足を止める。
 プロデューサーは、プロデューサーだ。
 ボクは元アイドルかもしれないけれど、プロデューサーは――

「真」

 プロデューサーの手から、封筒が落ちる。
 拾うには距離がありすぎて。
 だから、ボクはまたプロデューサーの背中を見ようとして。

 目が逢った。

 プロデューサーの顔は涙で濡れて。
 グシャグシャに濡れていて。
 まるで雨に濡れた蓮の葉みたいに。
 まるで、通り雨に打たれた捨て犬みたいに。

「真。心配したんだ」

 ああ、そうか。
 誰にも連絡をしていなかった。
 誰にも相談できなかった。
 誰にも頼れなかった。

 いつも頼っていた人が、相手だったから。

 この人は、どうやってここを突き止めたんだろう。
 この人は、どうやってこの部屋に入れたんだろう。
 この人は、どうやって――


 近くで見れば、スーツはもうよれよれだった。
 まるで、何日も着替えてないような。
 まるで、何日も徹夜をしたような。
 まるで、何日も――


 プロデューサーは右手を伸ばす。

「もう一度、やり直させてくれないか?」

 その右手に、1つの小さな箱があった。

「真の、次の仕事、決めてきたんだ」

 その箱に、1本の口紅が入っていた。

「俺は、お前を最高のレディにするから」

 その声は、濡れたように揺れていた。不安げだった。

「だから、もう一度だ」

 その声は、ひどく渇いていた。求めていた。

 だからボクは、その口紅の封を切って、プロデューサーの右手にそれを渡した。

「じゃあ、ボクをレディにする、最初のレッスンです」

 ボクは目を閉じ、唇をそっと――




「口紅、塗って下さい、って意味ですからね」

 一応、勘違いされないように言ってみた。
 キスは、トップアイドルになるまでお預けでいい。

 目に映ったのは、真っ赤な空。真紅の海。

 真っ赤な、プロデューサーの目。真紅の口紅。


 そして―― その記憶は、ボクの一生の宝物。


                                                              【End】

 

 

 『一時間SS』 2010/4/9参加作品 お題:「口紅」「空」「レッスン」「宝物」

 

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