床や壁とは違う材質――おそらく樫の木――のノブを回す。
 回る。
 乾いた右手に左手を重ね、そのドアを押し開けようとする。
 動かない。
 一度小さく息を吸い、ドアに右肩を押し付けて体全体で押そうとする。
 動かない。
 杉の木の匂いが鼻腔を焼く。右肩が熱にやられ、長く続けてはいられない。
(なんなのよ、もう……)
 焦りを抑え、周囲を見回す。
 ドアを開けるのに使えそうな道具は無い。
 あるのはぬるま湯と、それを汲む為の手桶。そして触りようの無い、熱く焼けた小石の山――。
 あとは、自分の体に巻いたタオルだけだった。
 服は着ていない。下着も、髪留めのゴムすら身に付けていない。
 眼鏡を外している為、物の輪郭もボヤけている。
 窓の無い密閉空間。
 壁に埋め込まれた温度計に顔を近づけてみる。
 ――室温、摂氏88℃。
 喉が、ひどく渇いていた。




 

 

 

 


 
 今日のスケジュールは、美希や雪歩と3人でリポーターをするお仕事だった。
『世界の温泉を楽しもう! 身も心も温まる癒しのテーマパーク!!』
 そんな前時代的なキャッチコピーに眉をひそめつつも仕事と割り切ってリポートを務めた律子に、
「まだ一般のお客様がいないオープン前だから、貸切気分で楽しんでくるといいよ」
 と言って、プロデューサーが手を振ったのが、およそ3時間前。
 途中までは一緒にリポーターをした2人と一緒に回っていたが、途中で分かれてしまっていた。
 ジェット風呂や電気風呂は、確かに体の疲れを取ってくれた、気がする。
 薔薇風呂やミルク風呂はロマンチックだったし、チョコレート風呂は肌触りが楽しかった。
 ただ――
(失敗だったわね)
 フィンランド式サウナの入り口は、テーマパークの中でも一番奥にあった。
 テーマパークの奥には四季の花や木々が植えられ、ファンタジックな世界を作っていた。
 子供が遊ぶブロックをそのまま大きくしたようなポップな色使いの、コンテナ状の建造物。
 その中に、1人〜2人向けのサウナが16室あった。
 ロッカールームで眼鏡やアクセサリーを外し、服を脱ぎ、大き目のバスタオルを巻いて廊下を渡る。
 右に8部屋、左に8部屋。なんとなく右側の、手前から2番目の部屋に入ったのだが――
 記憶の端に一枚の紙が浮かんだ。
(あれ、何だったのかしら……)
 今にして思えば、紙が貼ってあったのはこのサウナのドアだけだった。
 この状況を踏まえて考えるなら、何かの注意書きか、警告だったのかもしれない。
 『鍵が壊れています』とか、『ドアの立て付けが悪いため、利用禁止』、とか?
 せめて眼鏡をかけていれば、もっと早く気付き、しっかりと内容を確認したはずだ。
 90℃近い室温の中で、律子は寒気を感じた。
 汗は出ない。いや、出た瞬間、揮発するのだ。
 体の中の水分量は減り続けている。それは、喉と目の渇き方で、否が応でも思い知らされる。
 時間が無い。

 律子は、頭の中で脱出方法を組み立てる。
 ドアが開かない理由を、ドアのどこかが枠のどこかに引っかかっているから、として考える。
 方法は、どちらかしかない。
 ドアを壊すか、枠を壊すか、だ。
 タオルを取るのは少し抵抗があったが、そうも言っていられない緊急事態だった。
 使えるものは限られている。
 自分の体重以上の重さをかける方法、あるいはそれを1ヶ所に集中する方法――。

 夏の気温が40℃を超えれば、普通の人は耐えられない。
 それなのに、サウナの中では、80℃、90℃でも耐えられるのはなぜか?
 それは、湿度の差に他ならない。
 つまり、サウナの中で湿度が上がれば、それは即座に、耐えられない環境となる。
(10分……5分が限界、かな)
 律子は手桶に水を汲み、それを石の山にかけた。
 瞬間、水は一気に水蒸気と化し、室内に広がる。
 湿度は質量を伴う強力な熱気の壁となり、律子の肌を焼いた。
(――っつ!)
 手桶をもう一度水に浸けると、それを使って小石の山の頂上を掬う。
 同じく水に浸けたバスタオルを使って、手桶ごと包み、余った布を捻り上げる。
 手製の、少しいびつなブラックジャックだ。
 木桶の中に小石を詰めたものを、充分な遠心力で振り回せるようになる。
「これで――!」
 狙うのは、ドアでも、枠でもない。
 もう1点あった。
 ドアと枠を繋ぐ、蝶番だ――。





 冷たい外気が、心地よかった。
 所々が擦り切れ、穴の開いたタオルを申し訳程度に体に巻いて、律子は立ち尽くしていた。
 目が霞む。
 その視界を、風で散った桜吹雪が塞いでいた。

 振り返れば、そこには外れた木製のドア。
 その張り紙には、『765プロ・アイドル様』と書かれていた。
 立ち入り禁止の貼り紙ではなく、誘導する貼り紙。
 それも、A4のコピー用紙に明朝体での印刷だ。

 ドアのノブには、左右の入り口のドアノブを支えとした金属製の掛け金が通されていた。
 律子が中に入った後で、誰かが、外から鍵を掛けたのだ。
 中に、765プロのアイドルがいる、と知っていて。

 まさか――。

 様々な想いが、脳裏をよぎる。
「すきがあった、って事ね」
 律子は、美希と雪歩の安否を気遣う。
 しかし、もう一つの可能性も、否定できなかった。

 2人のどちらかが、私を――。

 後先は考えていられなかった。
 まずは2人を探そう。

 律子の心臓が、熱く、鼓動した。


                                                              【End】

 

 

 『一時間SS』 2010/4/16参加作品 お題:「タオル」「湯気」「花見」「すき」

 

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