その夜も嵐だった。
 吹き荒れる風。打ち付ける雨。
 ガタガタと揺れる板硝子。ギシギシと鳴る板張りの屋根。
 その下で、少女は窓の外の海を見ていた。
 荒れ狂う波。暗い、暗い、黒い海。
 少女の両親が帰らなかったのも、こんな嵐の夜だった。

 そして少女は嵐の中、透き通るような歌声を聞いた――。

 

 

 


 朝、少女は村の誰よりも早く起きた。
 こんな嵐明けの朝には、海岸に色々なものが流れ着く。
 それは硝子の瓶であったり、木で出来た食器であったり、時には木箱や樽が流れ着く。
 それを見つけるのが少女の楽しみだった。
 それは村の青年達によって広場に運ばれ、長老が分け方を決める。
 見つけたご褒美として貰える分け前が、少女の喜びだった。
 それを持ち帰った時の弟や妹の笑顔が、少女の幸せだった。

 異変は、遠目からでもすぐに分かった。
 船底が、竜骨が、帆柱が――海岸には、舟の亡骸が流れ着いていた。
 少女が最初に感じたのは、一体何が見つかるだろうかという ときめきだった。
 歩を進め、海岸に近付く内に、しかしそれは別の感情にとって代わられる。
 次に思ったことは、この舟に何人が乗っていて、何人が死んでしまったのかという怖さだった。
 入り江の桟橋は、海面に張り出していたはずの先が折れ、舟の残骸と共に浮いていた。
 そして、そこで出会う。
 長い髪の女性だった。悲しそうな目をした女性だった。
 舟の肋材の上に腰掛け、水面を見ながら口を開く。

 そして少女は嵐の夜の、透き通るような歌声を聞いた――。

 

 


「あ、あの……」
 少女が意を決して声を掛けても、その女性は、歌うことをやめなかった。
 だから少女は、ただその歌を聴いていた。
 惹き込まれるような歌声と、胸を刺すような旋律と、そしてその歌詞――。

 ――悲しみよりもまだ深い海に 探し求めた愛があるから――

 少女は泣いていた。頬を伝い落ちる涙は海の水の味がした。
 帰ってこない両親の面影を思い出そうとして泣いた。
 思い出そうとして、上手く思い出せなくて、また泣いた。
 親代わりとなって弟や妹を育てる日々が、少女から思い出を奪っていた。
 少女はそのことに気がつき、涙を止めることが出来なかった。

 そして歌が終わり、少女は無意識に手を叩く。
 パチパチパチ。
 女性は音に振り向き、初めてその目を少女に合わせ、そして少し戸惑ったように笑った。
 そっと、右手を持ち上げ、手を振った。
 両腕を繋ぐ鉄の手枷と鎖が触れて、ジャラリ、ジャラリと鳴った。


    ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞


 女性は、何も語らない。
 女性は、振り向かない。
 ただ時折口を動かすが、なんの声も出ていない。
 きっと、気がふれてしまっているのだ――と、村の若者は言う。

 女性は、人を寄せ付けない。
 女性は、手枷を外そうとしない。
 ただ海を見て、何を食べようとも飲もうともしない。
 きっと舟で運ばれていた、死にたがりの奴隷なのだ――と、村の老人は言う。


 少女は、その大人達の声を聞いていた。
 そしてそのどれもが間違いだと知っていた。

 彼女は、声が出せない訳じゃない。
 彼女は、歌っている。
 ただその声は、他の人には聞こえないみたいだけど。

 彼女は、何も食べない訳じゃない。
 彼女は、少女が朝一番に届ける素焼きのパンと果物を食べている。
 ただ干したお肉は、あまり好きじゃないみたいだけど。

 少女は、それを大人達に話さなかった。
 そしてそれが小さな間違いだった。


    ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞


 女性が海にやってきてから、六日。
 彼女はいつも舟の肋材の上に座り、誰にも聞こえない歌を歌った。

 少女は大人達の目を避けるように彼女の元へと通う。
 食べ物と飲み物を届け、真水に浸した布で体を拭いた。
 獣脂と木灰で作った石鹸でその髪を洗った。
 会話は無い。
 ただ、彼女の歌が聞きたくて身の回りの世話をした。
 その歌はいくつかの種類があって。
 彼女はその日の空の色を見て決めて。
 そして、歌う。
 悲しそうな声で歌う。
 少女は、悲しい気持ちでそれを聴く。

 ――凍てつく世界 漆黒のとばり――

 水平線の先で、雷鳴が聞こえた。


    ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞


 七日目の朝――。
 少女は新しい舟の残骸を見つけた。
 木箱も樽もあった。中には布や干した魚や、果物が入っていた。
 綺麗な瓶もいっぱいあって、大人達が喜ぶお酒だと分かった。
 少女は喜び、村の長老に伝えた。
 長老の顔は、真っ青になり、
「なんという事だ……」
 と、その場に崩れるように座り込んでしまった。

「あの女は、魔女だ」
 そんな声が、村の中で聞こえた。

 村に物資を届けるはずだった舟が、沈んだ。
 先週は、悪天候を避けたのだろう、と村人達は楽観していた。
 漂着した舟は、別の舟だと考えていた。
 そして七日後の今日、また舟が沈み、残骸と積荷の一部が漂着した。
 いつも村に届く荷物の、二割程しか手に入らなかった。
 村の中で、食べ物が不足し始めていた。
 これからは疾風潮の季節に入り、魚も捕れなくなる。
 果物も、野菜も、収穫はしばらく先の予定だった。

「あの女が来てから、一度も雨が降らないんだ」
 そんな声が、村の中で聞こえた。


 そして、十日目の昼、少女は長老に呼ばれた。


 それは、赤い林檎だった。
 長老は少女にその林檎を手渡し、彼女にあげなさい、と言った。
 彼女がどこの誰かは知らないが、何も食べないのは心配だと言った。
 少女は喜んだ。
 もしかしたら、村に呼べるかもしれないと思った。
 村のみんなにも、あの人の歌を聴いてほしいと思った。
 そんな村のみんなの気持ちだと、少女は手の中の林檎を見る。
 つやつやと光を照り返す、赤い、赤い林檎だった。
 必ず彼女に食べてもらうんだよ。
 長老はもう一度、笑顔で言った。


 少女は落とさないように、林檎をエプロンでくるみ、大切に運ぶ。
 そして、その姿を見た少女の弟達と妹が、大きな声で手を振った。
「おねえちゃん、お腹減ったよ」
 弟達と妹は口々に空腹を訴えた。
 大人のいない少女の家は、他の家よりも、配られる食べ物の量が少なかった。
 少女は、家に配られた中から、長い髪の女性に食べ物を届けていた。
 だから余計に、食べ物は不足していた。
「おねえちゃん、それ、りんご?」
 妹が、エプロンの中の赤に気付く。
 その瞬間、弟達も騒ぎ始めた。
「おねえちゃん、それ食べたいよ!」
「ボクにもちょうだい!」
 あの人に食べ物を届けたせいで、こんなにも妹や弟につらい思いをさせていた。
 その事実は、少女の心に深く突き刺さる。

 もう色々と食べ物をあげたんだから――。
 あの人だって嬉しそうに食べてくれたから――。
 だから、弟と妹の為に、このりんご1つくらいなら――。

 少女はゆっくりとしゃがみ、弟達と目線を合わせ、その林檎を右手に載せた。


    ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞     ∞


 少女は泣いていた。
「ごめんなさい」
 その声は、彼女の耳にも届いていた。
「ごめんなさい」
 その声は、割れた硝子のような声だった。
 ふわり。
 長い髪を風に預け、その女性は肋材の上から舞い降りる。
 草を踏み、少女の元へと歩みを進め、
 「――どうしたの?」
 一度息を吸い、声を出す。
「ごめんなさい!」
 少女は抱きつくように、その女性の背中に両手を回す。
 ジャラリ。
 突然の出来事に戸惑いながら、鎖で少女を傷つけないように両腕を上げた。
「……ごめんなさい」
 涙声で謝る少女の声を聞き、戸惑いながら、両腕を少女の背中に回した。
 鎖を当てないように気をつけながら、両手で、少女の背中を抱いた。
「どうしたの?」
 歌を歌う時のような、悲しい声ではなく、今はとても優しい声だった。
 少女は顔を上げ、涙を溜めた目を何度も瞬きさせる。
「りんごを、もらったんです」
「林檎?」
「はい。村の長老さんから、お姉さんにあげるようにって」
 まっすぐな視線だった。しかし少女はそれに耐え切れず、自分から目を逸らす。
「私、すぐにここへ持ってくるつもりだったんですけど、途中で弟達に見つかっちゃって」
 ごめんなさい、ともう一度謝った。
「私、お姉さんにあげるりんご、弟達に渡しちゃって、それで、それで……」
 少女は、自分の背中に回された手の温かさを知った。
 少女は、いつか母親に、私にもお姉さんがほしい、と言ったことがあった。
 少女は、温もりの中で、そんなことを思い出していた。

 ――泣くことなら たやすいけれど――

 そして少女は、透き通るような歌声を聞いた――。



 歌が終わる。
 聞こえてくる、小さな拍手。
 少女が腕と鎖の中で体を動かし、後ろを振り返る。
 そこに、弟達がいた。
 林檎を持った、妹がいた。
「これ、この人にあげたかったんだよね」
 はい、といって、妹は、少女の両手に林檎を置いた。
 その両手を包むように、鎖で繋がれた手が、そっと触れた。
「ありがとう」
 その女性が、言った。
 少女には見えなかったけど、それがどんなに素敵な笑顔かは知っていた。

「あなた達にも、私の歌、聞こえたのね」

 その女性は、少女の手から林檎を拾い上げ、その体を鎖の輪から抜いた。
 空いた右手を左手で握り、弟達の隣に並ばせる。
 そして一人ずつ、その姉弟の名前を呼んだ。

「どうして、……知っているんですか?」
 風が吹いた。暖かな南風だった。
「あなた達の、お父さんとお母さんに頼まれたの。また、一緒に暮らしたいって」
 海から波が消え、まるで鏡のような水面だった。
「この村を出て、お父さんとお母さんの所へ、行ける?」
 潮の匂い。乾いた草の匂い。濡れた木の匂い。そんなものが混じった風だった。
「おとうさんにあえるの?」
「おかあさん、げんきかな」
「おねえちゃん、いこうよ!」
 少女の目に、涙は無かった。
 ただ、一つだけ聞きたいことがあった。
「お姉さんも、一緒に行ってくれますか?」
「――ええ。もちろんよ」
 その女性は、長い髪を揺らして頷いた。


 これは、神様へのおまじないなの。
 とっても大切なことよ。

 そういって、その女性は林檎を、遠くの海へ投げてしまった。
 もったいない、とは思わなかった。
 これはとても大切なことで。
 これは必要なことだから。

 真っ青な海と空の中に、赤い林檎が浮いていた。
 その、ずっとずっと向こうに、大きな波が見えた。
 壁みたいな波。水平線が背伸びをしたような、遠い、高い波だった。

 そして、その手前に、小さな波が立つ。
 水の底から現れたそれは、まるで、巨大な魚のような舟だった。
「神様が、林檎を気に入ってくれたようだわ」
 最後の太陽の下で、みんなが、笑っていた。

 ――闇の底へ 地の底へ どこだっていい――

 それが、理想郷へと続く、長い旅の始まりだった。

 

 

 

 『一枚絵』第4回参加作品

 

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