高槻やよいは、今日も食べ物を届けた。
 乾いた麦のパンと、蜜の入った山羊の乳。

 如月千早は、今日も歌を歌った。
 蒼い鳥と、思い出をありがとう。

 

 

 


 男は言った。
 私の為に歌を歌えと。
 対岸の館まで届くように、声を出せと。

 少女は従った。
 貴方の為に歌いますと。
 貴方の部屋まで届くように、歌いますと。



 
 如月千早は歌が上手かった。
 その名は山を越えて知れ渡った。
 遠くの町から人が来て、歌を聞かせて下さいと頼み込む。
 千早は少し照れたような顔をして、わかりましたと歌を歌う。

 あなたの歌に救われましたと、人は言う。
 千早は少し照れたような顔をして、いつでもどうぞと笑顔を返す。
 そんな千早の隣には、小さな弟の姿があった。
 お姉ちゃん、お姉ちゃんと千早を慕う、小さな可愛い弟だった。

 千早は、笑顔の似合う少女だった。
 けれど、ある日を境に、千早の顔から笑顔が消えた。


 弟が倒れる。
 医者の見立ては、木化病だった。

 咳が出る。熱が出る。汗が出る。
 汗が引くと、そこに斑が出る。
 緑色の斑が、やがて体中を覆う。
 声が出なくなる。
 目が見えなくなる。
 耳が聴こえなくなる。
 やがて眠り、目が覚めなくなる。
 体が動かなくなり、皮膚が硬化し、やがて木の様になる。
 人が人ではなくなる奇病――。


 千早は声をあげた。
 誰か、助けてください。
 弟を、助けてください。

 千早の歌が大好きだった人達は、みんなで必死に考える。
 どうしたら、彼女の弟を救えるか、考える。
 そして一人の男が言った。

 黒井の館には、万病に効く薬があるはずだと。

 少女は一筋の望みに賭けた。

 うなされる弟を背負い、街を出る。
 革の袋に水を入れ、林檎を鞄一杯に入れ。
 山を登り、川を渡った。

 やがて弟がうなされる声も聞こえなくなる。
 少しずつ、その体が硬くなる。
 目的地までの丸1日、一昼夜、千早は一度も立ち止まらなかった。
 風吹き付ける草原も、暗い森の中もただ真っ直ぐ、左右の足を進めるばかり。

 森の奥、湖の岸辺。
 黒井の館は荘厳で、重苦しく、威圧的だった。
 けれど千早は声を上げた。

 助けて下さい。
 どうか薬を分けて下さい。

 首筋が熱くなる。
 何かと思って振り向くと、弟が泣いていた。
 弟の目から流れる涙はひどく熱く、それが千早の心を冷やす。

 助けて下さい。
 どうか薬を分けて下さい。

 何時間かが経った頃、銀色の髪の少女が現れる。
 お入りなさい、旅の方。黒井殿がお会いになります。
 千早はそれでも礼を言った。
 ありがとうございます。どうか弟を助けて下さい。



 一角獣の角は大変美しく、そして大変高価なものだ。
 その男は言った。
 これを手に入れる為に、何人もの人間が命を賭けたのだ。
 100人が命を落とし、101人目が片目、片腕を失いながら手に入れたのだ。
 平民が一生遊んで暮らせる金と引き換えに、私はこれを買ったのだ。
 なぜお前にそれをくれてやらねばならんのだ。

 全て欲しいとは申しません。
 ただ、弟を救うだけの欠片を下さい。

 馬鹿な事を。
 これはそもそも薬などではなく芸術品だ。
 傷が付けば価値は無いのだ。

 芸術品で人の命を救えるなら、そちらの方が――

 馬鹿な事を。
 人の命に価値などあるものか。
 毎日何千何万と生まれ、何千何万と消えるものに価値などあるものか。

 なんでもします。弟が助かるのなら、私は――

 馬鹿な事を。
 お前の命に価値などあるものか。
 力仕事も出来ない、まだ幼く、肉付きの貧しい女の体に価値などあるものか。

 ならばなぜ!
 ならばなぜ、ここに通したのですか?
 ならばなぜ、館の中に入れたのですか?


 部屋に吹き込む一陣の風。
 揺れる銀色の髪。こぼれる溜め息。


 およしなさい、如月千早。
 黒井殿も、お人が悪い。心を持て遊ばずとも、ただ命じれば良いのです。
 引き換えに、お前の『歌』を差し出せと。

 私の――歌を?

 貴音様がそういうなら、そのように致しましょう。
 鼻を鳴らし、息を吐き、黒井は千早と向かい合う。
 その表情は真剣で、その口元に笑みは無い。


 その子は、私の館で治療しよう。
 一体どれだけ時間がかかるのか、それは私にも分からない。
 だが、確かに、責任をもって治してみせよう。
 だがお前は私の持つ貴重な芸術品を一つ失わせるのだ。
 ならば、お前自身が芸術として、私の物になれ。
 お前は今日から、私の歌だ。
 この湖の対岸に、お前が住む為の社を建てさせよう。
 自由は無い。疑う事は許さない。
 日の出から日没までの間、歌えるだけ歌い続けるのだ。
 お前は私の物になる。だから、二度と弟とも会えぬ。
 自由は無い。疑う事は許さない。
 さぁ、どうするのだね?


 そして千早は決意する。


 私は歌になりましょう。
 水面を越えて、この館まで歌を届けましょう。
 だからどうか、どうか弟を助けて下さい。


 男は言った。
 私の為に歌を歌えと。
 対岸の館まで届くように、声を出せと。

 少女は従った。
 貴方の為に歌いますと。
 貴方の部屋まで届くように、歌いますと。

 少女は心の底で誓った。
 弟の耳にまで届くように、歌いますと。



 高槻やよいは、今日も食べ物を届けた。
 乾いた麦のパンと、蜜の入った山羊の乳。
 黒井のおじさんに言われた通りに。
 このお姉さんのお世話をすれば、弟達もご飯がもらえるから。
 黒井のおじさんの屋敷で、読み書きや計算を教えてもらえるはずだから。


 如月千早は、今日も歌を歌った。
 蒼い鳥と、思い出をありがとう。
 乾いた空気を震わす様に、喉を開き、空気を吸い込み。
 黒井の館に届きますように。あの子の耳に、届きますように。
 私が歌い続ければ、あの子は助かるはずだから。

 

 

 


 黒井は街々の有力者や商人に声を掛け、次々に館へ招く。
 妙なる調べと美食の限りを尽くし、天使の声を聞かせる宴へ。
 訪れた客達は、その美しい歌声に心を奪われ、何度も通うようになる。
 最初は招待だが、二度目からは金を取った。
 それでも来訪者は後を絶たなかった。
 結果、黒井の富はさらに膨れ上がった。
 千早の歌が、金に変わった。


 その歌声は、晴れの日も、雨の日も、途切れる事無く続いていた。


 2週間が過ぎた頃、千早が小さく咳をした。
 やがて声が嗄れ始め、思うように歌えなくなった。
 それでも千早は歌い続けた。
 少しでも声が届くよう、崩れた舟の残骸に座り、歌い続けた。
 やよいは蜂蜜と香草を練り合わせ、喉に良いとされる薬を作った。
 やよいは願った。
 千早の歌が、弟達にも届きますように――。

 3週間が過ぎた頃、やよいが熱を出して倒れた。
 千早はそれに気付かなかった。
 何も食べず、何も飲まず、ただ、かすれた声で歌を歌った。
 その歌に力は無く、黒井の館に届く事も、湖を渡る事もなかった。

 千早の目から、涙が流れた。
 涙が流れた跡は、緑色の筋になっていた。


 薄れ行く意識の中で、千早は銀色の髪の女性を見た。
 弟は、元気になりましたか?
 自分の声が、聞こえなかった。
 痛んでいるのは、喉だろうか。耳だろうか。
 貴音はそっと千早の手をとり、確かに告げた。
 あなた様の弟は、やよい殿の弟達と仲良くしています、と。

 ああ、良かった。ありがとう。
 それは、如月千早だったものが口にした最後の言葉だった。



 黒井は金を数えていた。
 他人の人生を、どれだけ買える額だろうかと。
 これだけの金があれば、どれだけの平民が命を顧みず、自分の言に従うだろうかと。
 金を集める為に、手段は選ばなかった。
 金を集める為の、知恵はいくらでも湧いた。


 黒井殿。高槻やよいと如月千早が運ばれてきましたが。
 貴音が言った。
 そうか、ついに2人も物言わぬ木の塊になってしまったか。
 黒井が言った。


 弟達と、並べてやれ。


 黒井の館の下男達は、それを中庭に運んだ。
 中庭には、いくつもの木の塊があった。
 下男達は、見取り図の中から彼女の弟の、弟達の名前を探す。
 そして、それぞれの区画にやよいと千早を安置した。
 一角獣の角で、木化病は治らない。
 2年前から、黒井はそれを知っていた。



 太陽と土、そして雨があれば、彼女達も命を繋ぎます。
 貴音が言った。
 その視線の先には、やはり一つの木塊があった。
 彼女の盟友、黒髪の少女であった木塊。

 当然だ。そうでなくては困る。
 黒井はその庭の全景を眺めると、ふと、その一画に降りていく。
 そして、一つの木塊の前に膝をついた。
 髪だった箇所、頬だった箇所に指で触れ、そっと呟く。



 待っていろ。音無小鳥――。
 もうすぐ、お前も自由にしてやれる。
 この雨ざらしの監獄から、自由に羽ばたける日は、もうすぐだ。

 お前は笑うかもしれないが、お前と同じくらい立派な歌い手も見つけたぞ。
 お前と同じくらい輝く笑顔の少女を見つけたぞ。
 みんなまとめて、自由にしてやる。
 どこへでも、行け。
 この私が、お前ごときを追いかけるものか――。




 黒井は、やがて最後の大号令を発する。
 その蓄えを、私財を、全て投げ打って。

 彼の、たった一つの願いを叶える為に。

 

 


 『地の果てまで行け。海を越えて行け。木化病の治療薬を探し出せ』

 『もしもそれが本物なら、大聖堂の四つ鐘と同じ大きさの黄金と、ワイン樽一杯の宝石をくれてやる』

 その額は、一つの町が丸ごと買える額であり、国と国との戦争を止める事ができるだけの額だった。


 貧しい者は豊かな人生を取り戻すために命を賭けた。
 豊かな者はその財を肥え太らせるために貧しい者達を雇った。
 若い者は両親の為に、兄弟や姉妹の為にその冒険の旅に出た。
 老いた者は自分の後を継ぐ者に何かを残そうと荒野の果てを目指した。
 残された者は、往きし者の無事と幸運を祈る。
 食料が売れた。服が売れた。ランプとロープが売れた。刃物が売れた。
 馬の値段が2倍になった。町も、村も、全てが潤った。

 そして、それまで誰も立ち入らなかった森や荒野が開拓されていった。

 黒井は、医者と薬を集めた。 
 治療薬探しの旅で傷付き、病んだ者達が帰った村には医師を向かわせ、可能な限り治療した。 


 そして、ある日、本物の治療薬を見つけた者が現れた。 
 その治療薬を使い、黒井は館の全ての木化病発症者を治す。 

 千早とその弟も、やよいと弟達も、そして音無小鳥も意識を取り戻し、元の体に戻る。 
 みんなは口々にお礼を言いうが、黒井はうるさい黙れ、と一喝し、 
 いくらかの金貨を持たせ、目障りだ、とっとと去れと言って追い出した。

 
 貴音と響も、国へ帰ると言った。

 黒井は残った薬の全てを貴音に渡す。
 貴音もまた、自国の民を治す為、木化病の治療薬を求めて黒井の館を訪れた賓客だった。

 


 誰もいなくなった広い館の中庭で、黒井は昔を懐かしむ。 
 そして、青空の下で、熱くなる目頭を押さえ、そんな自分に苦笑した。 


 ――王者は涙など流さんのだ。 

 涙で濡れたその指先は、いつか見た、緑色に染まっていた。

 薬は、もう無い。

 黒井に残されたのは空っぽの館と、どこまでも青い、出る事の叶わない青空だけだった。

 

                                                                            【END】

 

 

 『一枚絵』第4回参加作品

 

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