如月千早、と聞いて世間の人はどんなイメージを思い浮かべるだろう?

 アイドルランクC。1時間番組のメインを張れる程度の知名度。
 当代のアイドルの中では群を抜いた歌唱力と歌そのものへの情熱。
 一方で誰にも媚びない、可愛げの無さと扱いにくさ。
 クールなルックス。細身の体に長いストレートの髪。
 色々差し引きして、今のポジションなのは、まぁ、とても妥当な線か。
 ここまで来てしまうと、急にキャッキャしたキャラには移行できないだろうし……
 いや、もちろん本人が『YES』と言うはずもないんだけど。

 ――で、その如月千早が、今日はやけに苛立っている。
 春香の呼びかけにも素っ気無いし、やよいの相手をする余裕も無いらしい。

 次期プロデューサーを目指す私としては、この空気を放っては置けない訳で――。

 
「口内…炎……?」
 実に浅い理由に驚き、つい眼鏡のズレを直す。
 それはあまりに想定外の答で、でも正直、ちょっとだけホッとした。
「律子。笑い事じゃないわ」
「わ、笑ってた? 私? ゴメン、千早。そんなつもりはないんだけど……」
 来客の予定が無いのをいい事に、私達は応接室を占拠している。
 千早を呼び出し、応接室に入る私を不安げに見守る春香とやよいの顔は妙に心配そうだった。
 さて、心配されているのは私だろうか? 千早だろうか?
「で、その原因は、何か心当たりあるの?」
「疲れ、かしらね。週明けにはライブがあるから、その準備で大変なのよ」
 時計を見る。今は13時。確か千早は今日も、15時から打ち合わせとリハの予定だ。
「本番まで、あと5日ね」
「さすがに5日もあれば治るとは思うけれど、位置が位置なだけに集中力を欠いてしまうのよ」
 そう言って、千早はため息をつく。
「どこ?」
「えっ?」
「いや、どの辺に出来てるの? 口内炎」
 千早は一瞬躊躇する。そして、なんとなく部屋の周りに視線を走らせる。
 身を乗り出し、目を閉じ、そして、小さく口を開けた。
「え、えっと」
 その姿勢に少しだけ背徳的な雰囲気を感じながら、その口の中を覗いてみる。
 千早の口の中で、小さな舌の先が2度、揺れた。
「うわ、これはまた……」
 千早が位置を説明せず、いきなり舌を見せた理由が良く分かった。
 顔を近づけ、改めてしっかりと確認する。
 千早の舌の先、本当に最先端の位置に、深い、白い点が出来ていた。
「歯の裏に当たる度に、気になってしまって」
「まぁ、確かに気になるでしょうね。それはキツいわ」
 千早は深いため息をついた。
「これが治っても、別の箇所に出来ないとも限らないわ」
「ちょっと解決策が必要ね」
「お医者様に通うのがベストなんでしょうけど――」
「時間の融通はつかないわね」
 改めて時計を見る。移動時間を考えれば、あと90分、か。
「分かったわ。私が薬を用意するから、待ってなさい」
「え? どこへ?」
「ちょっと買い物。池袋まで往復してくるわ。あなたが出るまでには間に合うはず」
 立ち上がり応接室を出ようとすると、千早が心配そうな顔で言う。
「あの、律子? 私は?」
 私が向かう先は病院でも薬局でもないから、千早が一緒に来る必要は無い。
 万が一、予定が早まる可能性も考えれば、事務所にいてもらった方がいい。
「そうね。正直にそれを2人に言って、イライラしてゴメンね、って言っておいて」
 2人、はもちろん春香とやよいの事。
 千早は最後にとびきり深いため息をついて、苦笑した。
「そうね。そうするわ」


 事務所に戻ったのは、出てからちょうど1時間後。
 目的さえ決まっていれば、大して時間はかからないものだ。
 入り口のネームプレートで、名前を確認する。
 春香とやよいは出てしまっていたが、千早はまだ事務所内にいて、ホッとする。
「千早、お待たせ」
 進行表とセットリストに目を通していた千早は私の到着に気付くと、ソファの端へ座り直す。
 私は千早の隣に座ると、バッグから特効薬を取り出し、テーブルの上に載せた。
「どうぞ」
 千早は小さな紙袋を開け、中から小さなガラス瓶を取り出した。
「これは……蜂蜜?」
「正解」
 250g入り、片手にちょうど乗るくらいの六角形の瓶。
 その黄褐色の瓶を、千早は不思議そうに眺めていた。
「これが、口内炎に効くの?」
「ええ、そうよ。まずは試食してみて」
 私はバッグから、別の袋を取り出して手渡す。中身は同じ店で買ったハニースプーンだ。
「不思議な形のスプーンね。これは、どのくらい掬えばいいの?」
「まぁ、とりあえずちょこっとでいいわ。味が気に入るかどうか分からないし」
 千早は一瞬、不思議そうな顔をしたが、スプーンの1/3ほど蜂蜜を掬い、それを口にした。
 口の中で、千早の舌が動く。
 少し経って、千早が口を開く。が、感想は出なかった。
「不味くはないでしょう?」
「ええ。どちらかといえば美味しいのだけれど……不思議な味ね。すごい粘りがあるわ」
 千早は改めて瓶を手に取る。
「甘い中にほんのり苦味があって、どこかシナモンやナツメグの雰囲気にも似ているわ」
 右手に銀色のスプーン、左手に蜂蜜の瓶というこの図は、なんだかとても可愛らしい。
 千早の顔が真剣そのものなのが、余計に面白い。
「私の知っている蜂蜜の味と、少し違うわね」
「そうでしょうね。普通蜂蜜って言うと、アカシアか、国産ならレンゲが多いものね」
「これは……」
「それはニュージーランド産。『マヌカ』という植物の蜂蜜よ」
「マヌカ?」
 さて、どこからどこまで説明しようか、と思案する。
 時計を見る。余裕はあと15分程だろうか。
「マヌカはニュージーランドに自生する白い花で、その蜂蜜には強い殺菌作用があるの」
「殺菌作用? あまり蜂蜜のイメージとは重ならないけれど」
 千早はスプーンで先ほどと同じ程度掬い、もう一度口に運んだ。
「蜂蜜は元々、殺菌効果がすごいのよ。だって自然界でも、蜂の巣の中で何ヶ月も保存されてるじゃない?」
 私はほとんど無意識にふた口目を口に運んだ千早を見て、少し嬉しくなった。
「蜂蜜は自然界に存在する食品の中で、唯一、腐敗しないし、カビも生えない食べ物なのよ」
「あら? でも以前、高槻さんが『うちの蜂蜜にカビが生えちゃいました』って悲しんでたけれど?」
「あー、それはなんとも。安い蜂蜜は、水あめなんかで水増しされてるから、そういう可能性はあるわね」
「なるほど……」
 千早は銀のスプーンを口にくわえ、瓶の蓋を捻って閉めた。
「それ、あげるわ。スプーンごと持ち歩いて、時間あったらちょくちょく舐めてみて」
「蜂蜜の殺菌作用で、口内炎が治る――という事?」
 ああそうか、と反省。私は説明の途中で脱線していた。
「まぁ、そうなんだけど、特にその『マヌカ』は効き目が強いの」
 千早から一度瓶を受け取り、ラベルの下を指差してみせた。
「UMF、20?」
 とりあえず声に出して読む千早の律儀さが、とても可愛い。
「そう。それはユニーク・マヌカ・ファクターといって、まぁ、殺菌力の目安だと思ってくれたらいいわ」
「20だと、どのくらいなの?」
「まぁ、一概には言えないけど、ピロリ菌とかO-157にも効くくらいよ」
 ふぅん、と千早は曖昧に頷いた。まぁ、いいわ。それが目的ではない訳だし。
「とりあえず、ニュージーランドでは医師の処方箋に載るレベルよ。だから効き目はバッチリ」
 私はもう一つ、一緒に買ってきた木綿の袋に蜂蜜の瓶とスプーンを入れる。
「可愛い袋ね」
 ベージュの生成りの袋には、小さな蜂のマークが付いている。
「蜂蜜の殺菌効果にはもう一つ効能があってね」
 千早はその袋を受け取ると、大事そうに両手で包む。
「歯磨きしなくても、虫歯にならないの。これ、私達には重要じゃない?」
 千早は笑う。
「そうね。それを聞いたら、安心して舐めていられるわ」
「味はどう? マヌカは、たまに苦手って人もいるんだけど」
 千早は、少し考えて言葉を選ぶ。
「普通の蜂蜜よりも、好きだわ。甘すぎないし、口の中がさっぱりするから」
「そう。良かった。嫌いって言ったら、『良薬口に苦しよ』って押し付けるつもりだったから」
 ふふっ、と千早は笑う。
「こんなに美味しい良薬なら、大歓迎だわ」
「そのまま舐めてもいいし、もちろん、パンやヨーグルトに合わせてもいいわ。ちょっと続けて」
 千早は頷くと、時計を見た。
 うん。そろそろ時間ね。
「律子?」
「なあに?」
 事務所の入り口の扉が開き、プロデューサーが姿を見せる。
 実にいいタイミングの、お迎え。
「今度は私も、このお店に行くわ。連れて行ってね」
「ええ、いいわ。今度は薬じゃなくて、美味しい蜂蜜を選んであげる」
 約束よ、と言った千早の笑顔に、私は大きな満足を感じていた。
 大丈夫。ライブは絶対に成功するわ。

 小さな蜜蜂と小さな花が作った蜂蜜――。
 それがあなたの声に艶を出す、美味しい美味しい魔法の雫――。



                                                              【End】

 

 

 『ぐるm@s!』 【材】Foods>『その他』 収録

 

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