スタジオのレッスン室から出てきた春香は俯き、とぼとぼと廊下を歩いていた。その両目に
涙を溜めて、重たそうな足取りで、階下のロッカールームに向かおうとしている。

『タオルを取ってきたら、ボイスレッスンの続きよ』

 自分のレッスンを見てもらっていた、千早と伊織、美希に見送られ、春香はため息をついた。

 Eランクアイドルの春香に、活動停止の宣告が下されたのは、つい先週のことだ。
『三週間後、お別れライブを開こう』という、プロデューサーからの、最終宣告だった。

 デビューして三ヶ月の間、春香のアイドル活動は延々と低空飛行を続けていた。
 オーディションの成績も宜しくなく、歌番組に出られることもない。たまに入る営業でも、
元気だけが空回りして、挙げ句の果てには失敗してしまう有様だった。

 一足先にデビューしたアイドルたちは、華々しくステージに上がり、次々とステップアップ
している。春香がもたついている間に、隣に並んでいたはずの仲間の姿は、いつしか背中しか
見えなくなってしまっていた。皆と同じレッスンをしても、基礎力に差をつけられてしまった
春香は、ほとんど置いてきぼりにされてしまう。

 お別れライブの準備のため、春香のレッスンに来られなくなったプロデューサーが、せめて
自分の代わりにと『助っ人』を呼んでくれたのはいいが、今のところは、全くの逆効果だった。
 他の子との大きな差を思い知らされた春香は、居たたまれなくなって、半べそをかきながら
レッスン室を飛び出してきてしまったのだ。

(……私、ちっともアイドルらしくない。きっと、向いてないんだ。アイドル)

 Eランクであがいている自分が情けなかった。春香はただ、千早や伊織や、美希が見ている
景色と、同じ景色が見たかった。それだけだ。自分の歌がもっと上手かったら、誰にも臆する
ことなく堂々と歌う事ができたら、レッスンに付き合ってくれた千早をガッカリさせることも、
美希や伊織に気を遣わせることも、無かったはずなのに。
 いっそ、アイドルじゃなくて、ケーキ屋さんとか、事務員さんとか――

「あら。春香ちゃん?」

 階段を降りようとしたタイミングで、唐突に声を掛けられて、春香は硬直する。小鳥だった。
千早の頼んでいた音楽資料を、コピーしてレッスン室に届けにきたのだろう。
 春香は、自分の不安を全部見られていたような気分になって、慌てて立ち止まろうとした。
だがそこに、床は無かった。左足が空っぽの床を踏む。悲鳴をあげる暇もなく、春香の身体は
空中へと投げ出される。

「春香ちゃん!!」

 背中から落下しながら、春香は飛び込んでくる小鳥の姿を見た気がした。小鳥が抱えていた
書類が、一斉に宙に舞い上がる。春香は助けに入った小鳥を巻き込み、踊り場まで派手に転げ
おちた。強烈な衝撃が春香の全身を襲う。その際、後頭部を床に強く打ちつけ、春香の意識は
真っ白に塗りつぶされた。



 どのくらいの時間、気を失っていたのだろう。顔の上に白い紙が乗っていることに気づいて、
春香は目を開いた。書類を拾いあげる。刷りたての黒インクの匂い。あちこちに散らばる紙は、
ようやく大人しくなって、階段一面に広がっていた。書類が散らかった階段の上で、春香は、
自分のすぐ脇に倒れている、春香を見つけた。

(……えっ?)

 そこには確かに、春香がいた。春香の目の前に、春香が横向きに倒れている。

「あれっ、私?……あれっ??」

 春香は、背中と腰が、ずきずきと鈍く痛むのを感じた。階段から落ちた衝撃のせいだろう。
けれど、あれほど強く打ちつけたはずの、後頭部の痛みが無かった。自分の発する声に、姿に、
制服に。世界に強い違和感を覚える。春香は奇妙な夢でも見ている気分だった。まるで小鳥と
自分の中身が、そっくり入れ替わってしまったみたいだ。

「だ、大丈夫ですか!? 私……じゃなくって、小鳥さん! 小鳥さん!!」

 春香の呼びかけに反応し、目の前の春香はガバッと跳ね起きた。その勢いに驚いて、春香は
思わずひっくり返ってしまう。春香より元気に目を覚ました「春香」は、春香の姿を確認して、
自分の着ている赤ジャージを認識して、頭のリボンに触れて、目をぱちぱちさせている。

「……春香ちゃん、あなた、春香ちゃんなの?」
「はい! 春香です! 天海春香です! どどどどうしましょう、小鳥さん!」
「どうしましょうって言われても……」

 春香と小鳥は、床一面に散らばった書類の海の真ん中で、途方にくれていた。



*****



 あたりに散らばった書類を、二人で集めていると、階段の上から、春香を呼ぶ声が聴こえた。
「なにしてるのー?」快活な声と共に、美希が階段を下りてくる。小鳥がそれに反応した。

「あのね、春香ちゃんが転んじゃって、支えようとしたんだけど」
「春香ちゃん?」
「あっ、いや、私――う、うん! 私が転んじゃってさ! あははっ!」
「はやくはやく。千早さん待ってるから。レッスン室に行こ? ほらっ」

 ためらいもなく美希が掴んだのは、春香になった小鳥の腕だ。春香は顔を青くした。マズい。
いろいろと面倒になりそうな予感がして、書類を抱えたまま、二人の後を慌てて追いかける。

「あ、あ、あの! み、美希、美希ちゃん!」
「なーに? 小鳥」
「わ、わっ、私も行ってもいいかな!? ちは……皆に会いたいの!」

 いいよ!と、美希は言った。小鳥は軽い足取りで、美希よりも早く階段を駆け上っている。
レッスン室に流れる空気は、先程と変わらぬまま。春香が部屋を出て、10分と経っていない。
ただ、その10分の間に、春香の世界は180度変わってしまった。部屋の奥で会話を交わしていた
千早と伊織が、戻ってきた美希たちに気づいて、顔を上げる。

「千早さん。デコちゃん。春香つれてきたの! 二人でいっしょに階段で転んでた、小鳥も!」

 美希の報告に、千早は軽いため息をつき、伊織はプーッと吹き出した。一番最後にレッスン
室に入ってきた春香は、そこで初めて小鳥の背中を見た。自分の背中を、こうやって見るのは
初めてのことだ。鏡で見ていた自分の背中よりも、小鳥の背中は、不思議と、頼もしく映った。
春香がその理由を汲みとろうとしていると、淡々とした千早の声がレッスン室に響いた。

「春香、さっきの続きよ。あなたの歌を、もう一度歌ってみせて」



 小鳥が歌を歌っている。

 レッスン室で呆気に取られていたのは、春香だけではなかった。10分前にいた春香とは全く
別人が現れて、美希は目をまるくしている。伊織は、戸惑いと怪しさの満ちた表情で、疑いの
眼差しを向けていた。千早はと言えば、開始して間もなく、言葉をぴたりと閉ざしてしまった。

 小鳥の歌は、その場にいる全ての観客から言葉を奪い取った。あふれるような豊かな感情を
丁寧につむいでいく小鳥の歌唱を、全員が目の当たりにして、途中で感想を口にすることさえ
はばかられた。春香と小鳥の年の差が、そのまま表現力の差となって、歌声に現れたようだ。
春香は、千早が小さく肩を震わせているのに気がついた。

(千早ちゃん、解っちゃったのかな。私と小鳥さんの中身が、入れ替わってるってこと)

 直感的に、春香はそう思った。こんなに面倒なことになって、怒っているのかもしれない。
只でさえ歌のレッスンで怒らせてしまっているのに、おかしな現実逃避の結果が、この有様だ。
歌に対して真面目な千早は、春香の後ろ向きな考えを軽蔑するだろう。まったくの努力もなく、
いきなり歌が上手くなるわけがない。確かにレッスンからは逃げたかったけれど、こんな形で
逃げられても、正直どうしていいかわからない。
 春香は強烈に反省していた。けれど、この奇妙な夢から、どうやって元に戻るかについては、
まったく見当もつかなかった。

 音楽が止んだ。小鳥は満足そうな顔で息を吐き出す。肩を震わせていた千早が、おもむろに
口を開く。緊張し、身体を硬くしていた春香だったが、聞こえた声は予想と正反対の物だった。

「素晴らしいわ、春香! 見違えるような出来栄えじゃない!」
「すごいすごーい! 春香上手なの! なんだか、春香じゃない人みたいだね、デコちゃん!」
「……そうね。妙にインチキくさいけど。でも、間違いなく、上手くなってるわ」

 三者三様の反応に、春香は冷や汗を流している。小鳥はと言えば、ひょうひょうとした顔で、
千早からの賛辞にも、懐いてくる美希にも、そして怪しんでいる伊織にも、笑顔で応じていた。

 その様子に一旦は胸をなでおろした春香は、胸の奥に寂しい風が吹き抜けていくのを感じた。

(すごいな、小鳥さんは。私なんかより、ずっと、アイドルみたい……)

 あんなふうに堂々と歌えた記憶は、春香には一度もない。誰かを感動させるような歌なんて、
春香には、絶対に歌えないと思っていた。それは間違いだった。春香と入れ替わった小鳥は、
春香の歌声で、この場のアイドルを全員感動させられたのだから。

 春香は、不思議な感覚で小鳥を眺めた。春香が憧れていた「春香」が、そこに存在していた。



*****



 ここ最近、春香のレッスンがとても順調なんですよ。というプロデューサーの声を、春香は
給湯室の中で聞いた。
 社長とプロデューサーの何気ない立ち話。春香はそれを耳にしながら、お茶の用意をする。
昨日は社長に、今日のお茶はなんだか濃いね、と言われてしまった。春香はお茶を飲むとき、
いつも甘いものと一緒に飲むので、つい濃いめに淹れてしまう癖がついていたのだ。
 今日は、少し薄めに淹れてみようかな。春香は茶筒を傾けて、小さく茶葉をすくった。

 用意したお茶を、二人から「美味しい」と言ってもらえて、春香はホッと胸をなでおろす。
それと同時に、少し嬉しくなった。アイドルとして頑張っていた頃は、こんな風に褒められた
ことがあっただろうか? しばらく時間を費やしたけれど、何も出てこなかった。

“違う。 足りない。 おかしい。 ブレてる。 もっと。 もっと。 もっと”

 プロデューサーの言葉が、春香の胸に重く沈みこむ。「小鳥さん、まーた考え事ですか?」
唐突な声に、春香の心臓がひっくり返る。そのせいで、プロデューサーの声はどこかへ行って
しまった。

「りり、律子さんっ!?」
「色々細かい仕事が溜まってるんですから、頑張りましょうね。お互いに」
「え、ええ! もちろんですよ。私に任せてください」

 パソコンの使い方は、昨夜、小鳥から習っていた。春香は小鳥から受けたレクチャーを思い
出しながら、同時に昨日の夜の、春香の母親への電話を思い出して、少し笑ってしまった。

 「仕事で小鳥さんの家に泊まることになった」と小鳥が言って、
 「春香ちゃんはしっかりお預かりしますので」と春香が口添えをしたのだ。

 そのころには、いくらか“現実”にも頭が追い付いてきていた。

 春香は自分でもノートパソコンを持っているので、エクセルの基本操作くらいはできたが、
さすがに小鳥の仕事を全て代行する事はできない。小鳥は自分なりの判断で春香にできそうな
いくつかの業務を引き継ぎ、それ以外は深夜か早朝、小鳥がやる事になった。両立するのは、
ものすごく大変ですよね、と心配する春香の声に、小鳥は、無邪気に応じてみせる。

「全然疲れないから、問題無いわ。春香ちゃんのレッスンの成果ね」

 それは、春香自身でさえ見たことのない、“春香の笑顔”だった。



 ずっと事務所の中にいて、春香には初めて見えてきた事があった。

 とても単純な事だけれど、アイドルは「お金」になる。TV出演、ドラマ、CM、ライブ、
CDのリリース。アイドルの活動は、その全てが金額に置き換える事が可能だった。そして、
それはまさに春香の目の前で起きていた。

 小鳥のパソコンを少しいじれば、月別の売上が簡単に分かる。アイドルごとに丁寧にシート
分けされ、「誰」の「どんな仕事」が「いくら」になるのかが、一目瞭然だった。
 なんとなく感じていた事だったから、もう、悔しいとか悲しいとか、そんな感情は春香には
無かった。自分はこんなにもちっぽけな存在だったのだと、改めて確認しただけだ。

 春香は笑った。私たちが、プロフィールサイズの1センチ、2センチで、わーわーと叫んだり、
ファンレターの一通や二通で、きゃーきゃーと言い合ったりしている間、大人たちは、10万円、
100万円の差で、私たちを見ていた訳だ。
 価値の無いアイドルに、同じだけの手間をかけるなんて、可笑しいもんね――。

 春香は、泣かなかった。小鳥の視線で物事を見ているからか、あまりにも他人事のようで、
寂しさを通り越して、つい笑ってしまう。

「小鳥さん、何、笑ってるんですか?」

 斜めに向かい合う格好の律子が、キーボードを叩きながら聞いた。春香は笑顔のまま言った。

「天海春香は、結局、デビューした意味が無かったなあって」

 律子の手が止まる。一瞬何かを言いかけたが、まるで苦いものでも無理やり呑み込むように
口を閉ざした。
 2分ほど経った時、律子が立ち上がり、春香に――小鳥に言った。

「小鳥さん、ちょっとお疲れみたいですから、外の空気を吸ってくるのがいいと思いますよ」

 春香が初めて聞く、ひどく他人行儀な律子の声だった。律子と小鳥は仲が良いと思っていた
春香には、少し意外な気もした。それでも、大手を振って事務所を出られるのは嬉しい。

「そうかもしれませんね。気分転換に、少し、外を散歩してきます」

 外の散歩を楽しんでいた春香には、律子が不機嫌な理由は、まったく分からなかった。



*****



 春香と小鳥の入れ替わりは、小さなほころびを、その都度修繕しながら続いていた。

 ひょんな出来事とは言え、16歳の女子高生になった小鳥は、それを最大限に楽しんでいたし、
小鳥の身体へ移った春香は、プレッシャーも劣等感も無い、気楽な日々を過ごしていた。

 小鳥は嬉々として、春香の代わりを務めた。周囲が驚くほど歌のレッスンに励み、事務所の
用事をこなし、日が暮れるまで、同世代のアイドル仲間と一緒に過ごした。周りのアイドルは
「一体どうしたんだろう?」と不思議がったが、活動停止までの残り期間を考えると、誰もが
春香に対して寛容になった。

 春香は、事務員の仕事を、面白く感じ始めていた。会社の中で生まれる、小さな雑用たちが
積もりに積もって片付けられるのを待っている。「またこんなに溜めて!!」と、律子が雷を
落とす直前、それは、春香の手によって救出されることになった。

 領収書の管理、経費の精算。それくらいなら、落ちこぼれの春香にも手伝うことができた。
小鳥が学校に顔を出したり、レッスンに行ったりしている間、春香は黙々とそれを片付ける。
空き時間では、会計ソフトの使い方を勉強する。こつこつと自分の成果が積もっていくのが、
楽しかった。そしてそれは、小鳥の確認作業によって、評価のハンコをつけられた。

「完璧だわ。糊付けも丁寧だし。春香ちゃんって結構、事務作業に向いてるのかも」
「そうですか? えへへ、嬉しいです」

 仕事としては大したことのない業務だった。それでも春香は、けして小さくはない満足感を
覚えていた。ここのデスクに座って、ずっと領収書を片付けられたらいいのに。とさえ思えた。

 アイドルとしての最後の舞台を控えて、春香は様々な事を考えた。学校のこと。両親のこと。
そして仕事のこと。もしここで事務の仕事ができるなら、それも楽しそうだった。律子のように、
アルバイトをさせてもらうのも、良いかもしれない。プロの事務員さんから、向いているとまで
言われたのだし。

 小鳥が、春香の自宅に電話を掛けている。今日も仕事が遅くなりそうだからと、小鳥の家に
お世話になる旨を、丁寧にわかりやすく伝えていた。向こうからの反応に、怒りの色はない。

 小鳥は春香になりきって、電話でいろんな事を伝えた。活動停止の日まで二週間、しっかり
レッスンをしておきたいこと。最後までアイドルとして、後悔の無いように頑張りたいこと。
その半面、家を開けがちになってしまって、とても申し訳なく思っていること。

 小鳥の隣で聞いている春香が、申し訳なく思うほど、完璧な言い訳だった。春香自身でさえ
そこまでアイドル活動を頑張ったような記憶は無い。そう思ってしまうほどに、小鳥の演じる
天海春香はアイドルに燃えていた。いくつかの頷きのあと、小鳥はまた、あの笑顔を浮かべて
応える。

「ありがとうお母さん。頑張るね!」

 春香はその声を、なんだか他人の声のように聞いた。



 765プロの事務所から、車で15分ほどのところに、とある老舗のデパートがある。
 徒歩では30分ほど掛かってしまうその場所を、その日春香は、小鳥とふたりで訪れていた。

 時代遅れの外観と言ってしまうよりは、それ相応の年季と風格を備えたようなデパートだ。
アイドルの春香には、なじみ深い場所になっていた。デパートの南口から入り、店内の音楽を
聴きながら歩く。華やかなコスメティックのエリアでは、シャネルとイヴ・サンローランが、
尖った香りで勢力争いをしている。そんなエリアを抜け、エスカレーターで順に登っていく。
婦人服、ジュエリー、紳士服、文房具。そして屋上――。

 駅から直結という訳でもない。駐車場が何百台と入る訳でもない。昔ながらの大型デパート。
その屋上には子供たちのための遊び場が開かれていた。アスレチック型の巨大な遊具を中心に、
周りにはブランコやシーソーが並び、カラフルなジャングルジムが、塔のように立っている。

 春香がお別れライブをする場所は、このデパートの、屋上ステージと決まっていた。

 Eランクの春香は、ライブハウスや、音楽ホールで歌ったことなど一度も無い。そのかわり、
このデパート屋上のステージに限っては、他のアイドルとは違って、何度か顔を出していた。

 放送されて、じきに一年を迎えようとしているヒーロー戦隊のショーは、決まって日曜日に
行われている。その前座をつとめた春香は、初回の評判が上々だったことから、ちょくちょく
前座で盛り上げるための要員として、隔週でお呼ばれしていたのだ。春香の歌が聴こえると、
ヒーローショーの始まりを察知できる子供がいる程度には、春香もここの常連になっていた。

「今日のお客さんの埋まりは、六割くらいかしらね」
「多いほうだと思います。私が出ていた週でも、半分いけば良かったほうだし」

 ヒーローショーを遠巻きに眺めながら、春香は小鳥と話しこんでいた。観客席のキャパは、
ベンチ席80名、立ち見を含めても120名ほど。大きなライブハウスとは、比べるべくもないが、
デパートの屋上にしては、大きな方だろう。今日はその半分か、少し多いくらいの子供たちが
ショーを見に集まってきている。
 ヒーローにも賞味期限があるのだ。放映から一年も経てば、次の新しいヒーローが現れる。
どんなに人気のヒーローでも、二年も三年もやれるようなヒーローはいない。よっぽどお金に
なるのなら、別かもしれないけれど。

「ヒーローも大変なお仕事ですよね。あれだけ頑張ったのに、一年たったら終わりなんて」
「そうかしら?」
「私だったら、嫌です。だって“もうお金にならないから、捨てられる”ってことでしょう?」

 言葉に出しながら、春香は自分のことを話している気分になった。小鳥は複雑そうな表情を
浮かべている。少し離れた場所では、ヒーローが派手に怪人を投げ飛ばしていた。

「私は、ヒーローが、うらやましいな」
「えっ?」
「一年間、本当に限られた時間だけ、思いっきりヒーローになるの。
 正しいヒーローの形って、そういうものじゃない? パッと現れて、忽然と居なくなるの」

 小鳥の言い分も、なんとなく解る。春香は前を向いた。ヒーローの立ち回りに、子供たちが
はしゃいでいる。その隣で、小鳥の声が、空に溶けていった。

 ――どんな場所だって良いから、全力で輝き尽くしてみたかったなあ。

 その呟きに春香が反応するより早く、小鳥が立ちあがっていた。ヒーローのキックが怪人に
炸裂したのだ。子供たちに混ざって歓声を送っている小鳥は、確かに今、全力で輝いていた。



*****



 お別れライブを数日後に控えたある日、春香がランチ休憩を終えて戻ってくると、ちょうど
小鳥たちが揃って事務室を出てくるところだった。小鳥は一人ではなく、千早や伊織、美希と
一緒に、楽しそうにお喋りしながら、エレベーターのあるこちらの方へ向かってくる。一緒の
メンバーに気まずさを覚えた春香は、とっさに、自動販売機の陰に隠れてしまった。
 今日の小鳥は、みんなと揃いの制服を着ている。きっとレッスンスタジオに向かうのだろう。

(あれ以来、みんなとお喋りしてないなぁ……)

 春香は、小鳥と入れ替わってしまった日の事を思い返していた。

 ――小鳥さんは、変わったね。

 何度かそんな風に言われた事がある。律子だけではない、他のスタッフにもだ。今みんなに
会ったら、みんなと話したら、どう返されるだろう。春香は、自分で浮かべた考えに恐れた。

 その考えを上塗りするようなタイミングで、美希の声が聞こえた。

「最近の春香って、別人みたいだよね?」

 春香の背中が、急に凍りついた。たまらず自販機の陰から覗きこむ。美希は半笑いの表情で
小鳥にじゃれついている。小鳥は紙パックジュースのストローを口にくわえて、しれっとした
顔をしている。上目遣いだけで「そう?」と尋ねると、美希は小鳥にうんうんと頷いてみせた。

「だってー。レッスンでも全然転ばないんだもん。絶対おかしいよー」

 小鳥は、そんな美希の手から逃れるように身体をひねり、隣の千早に助けを求める。

「ふぃひゃーひゃーん! みふぃらひろいころゆー!」
「はいはい。美希がひどいことを言っているわね」
「ふぃーひゃあひゃーーん!!」
「はいはい。春香は春香のままよ。何も変わっていないわ」

 千早が相槌をうちながら小鳥をいなす。小鳥はそれでも嬉しそうに千早に抱きついていた。

「でも。確かに、ちょっと不自然よね」

 伊織の目が、何か怪しいものでも探るように、小鳥の身体のラインをたどる。小鳥が、背の
高い千早に抱きつこうとしていたせいで、セーラー服の隙間から、ウエストがちらりと覗いた。
伊織はそのまま、白いしなやかな手のひらを、自然とその隙間に潜り込ませる。

「ひゃりっ!?」

 小鳥の喉から、くすぐったいような驚いたような奇妙な声が漏れた。伊織は何かを確かめる
ように触れてから、差し入れたその手を、今度は千早のウエストに回す。そして、首を傾げた。

「別に腹筋をしっかり鍛えたって訳でもないのに、あの発声だものね」
「私は、春香には、元々素質があると思っていたわ」

 応じる千早の声は、どこか嬉しそうだった。その意見に、伊織はまだ賛成しかねている様子
だったが、エレベーターの到着音と、美希の明るい声が全てをさらう。

「春香を見てるとね、ミキもやる気マンマンになっちゃうの。だから今日もレッスンがんばろ!」
「わんらるおー!」

 千早はやれやれと溜め息をつき、伊織は肩をすくめる。美希は嬉しそうに小鳥の手を取って、
エレベーターの中へバタバタと駆け込んでいく。

 春香は、そんな「春香」を見ていた。仲良くレッスンに行く、4人のアイドルを見ていた。
 その中に、春香はいない。ただ、柵の外から見ているしかできない。

(そうだ。私、あんな風に……)

 エレベーターのドアが閉まるまで、春香はみんなに囲まれている小鳥の姿を見ていた。

 あんな風に、みんなの隣にいたかった。一緒にレッスンがしたかった。認めて貰いたかった。
仲間たちは、だれ一人として、春香に気付いてはくれなかった。ただ、もう一人の自分だけが、
なにかを問いかけるような眼差しで、春香にはない意思を含んだ目で、春香のことを射抜いた。
春香とは、まったく別人のような、まっすぐな瞳で。


 春香の中で、小さな何かが、剥がれて落ちた。
 錆びついていた心。その奥にあったはずのものが、少しだけ見えてしまった。

 あんな風にはなれないと思っていた。春香には一生無理なのだと思っていた。そんな春香の
考えは、「諦め」という錆びとなって心を覆い、そしてそれが春香を守っていた。

 なのに、あの「春香」を眺めていると、もしかしたら自分も、あんな風になれるのではない
かと考えてしまう。ほんの数週間前までは、そんなことは考えもしなかった。考えれば考える
ほど、怖かった。春香は、夢や希望が、どれだけ簡単に破れるものか知っている。
 だから――。

 小鳥がエレベーターの中に消えたあとも、春香は、その場にずっと立ち尽くしていた。



*****



 どうしても気持ちが落ち着かなかった春香は、自販機横のベンチに座って、ミルクティーを
飲んでいた。「小鳥さん」と、律子に声をかけられ、春香はそちらを向く。

「ごめんなさい。ちょっと、ゆっくりし過ぎてしまったかしら」
「いえ、いいんです。――そのままで」

 律子は、立ち上がりかけていた小鳥を片手で制すると、そのまま自販機にコインを入れた。
選んだのは、いつもの青りんごスカッシュ。それを手に、座ったままの小鳥の真正面に立った。
自然と春香は、律子を見上げる格好になる。

「色々考えて、黙っておこうと思いましたが、無理でした」

 春香の前で、努めて無表情になろうとする律子だったが、それはあまり成功していなかった。

「撤回してください。以前の、あの発言だけは、撤回するって言ってください」
「……私、何か言ったかしら?」
「『天海春香はデビューした意味が無かった』って言いました」
「ああ、だってあれは――」

 自分自身でそう思っていることだから、と、春香は言いかけた。それは言葉にならなかった。
正面に立つ律子が、小刻みに震えているのに気付いたからだ。

「春香は――」

 腹の奥から絞るような、律子の声だった。

「春香は、確かに恵まれなかったかもしれません。運が悪かったかもしれません。
 それでも、春香は一生懸命でした。たとえそれがヒーローショーの前座でも、
 今日はこんなお客さんがいたんですって、こんな声援もらえたんですって、嬉しそうでした。
 春香の歌が大好きなんだって、ファンレターをくれた女の子もいました。それを宝物だって、
 事務所中のみんなに見せて回っていた春香を――」

 律子の声が、そして肩が、明らかに大きく震えている。

「小鳥さん、あなたも見てたじゃないですか!」

 ファンレター。それは今でも、春香の日記帳に挟んである。月刊誌のふろくに付いたような、
戦隊ヒーローの便箋と封筒。封を開けるまで、春香は、絶対に男の子からのファンレターだと
思っていた。数少ないファンからの、大事なプレゼントだった。

「アイドルランクとか、稼ぎとか、そんなものだけで春香の価値を決めつけないで下さいよ。
 そんな見方をする人達に、『それは間違いです』って誰よりも正面から言い続けてきたのは、
 他の誰より、小鳥さんだったじゃないですか!!」

 律子の言葉は、小鳥の身体をすり抜けて、内側の春香を直撃した。

(そうだ。私、嬉しかったのに。小鳥さんの言葉は、いつだって暖かかったのに。
 いつからそれを、同情だとか慰めだって、思い始めちゃったんだろう。
 私だけが一方的に、プレッシャーだって、迷惑だって受け止めて――)

 春香の思考回路が混乱をきたしている中、律子はさらに追い打ちをかける。

「春香のラストライブ、中止になりました」

 今度こそ完全に、春香の思考が停止した。

「え……?」
「ヒーローショーの枠が拡大されるそうです。来期のヒーローのお披露目で」
「だって、こ――ここで、さっき、春香ちゃんたち――」
「知ってます。春香も、みんなも。さっき、プロデューサーから直接聞きました」
「で、でも! レッスンだって! 今からみんなで! あんなに、仲良く……!」
「春香はいつだって、そういう子でしたよ。そうでしょう?」

 その通りだ。春香は知っている。別人のような春香を。最後まで、レッスンを続けることを
選んだ小鳥の姿を。アイドルの仕事が与えられた小鳥は、全力で春香の代役を務めた。春香が
投げてしまいそうな仕事でも、営業でも、レッスンでも、なんでも最後までやり切ってきた。

 小鳥は、春香の代行をしてきたわけではない。小鳥は、全力でプロの仕事をしてきただけだ。
それに気付いた春香は、今までの考えが、大きく、ずれていたことを知った。

 今の春香が事務員になったら、765プロはきっと潰れてしまうだろう。どれほど向いていると
言われたところで、春香には、プロの覚悟が欠如していたのだから。小鳥はただ、何も言わず、
春香の目の前で、全力で春香を演じることで、それを教え続けてくれていただけなのだから。

 春香は、今すぐ小鳥に礼を伝えたかった。反射的にエレベーターの方を振り返る。
 そんな春香の手から、律子はそっと紙コップを拾いあげた。

「どうぞ。今日の午後は、私一人でも大丈夫ですから」

 春香は立ち上がり、一度小さく頭を下げてから駆け出した。下りのボタンを押す。一階から
エレベーターが上がるまで、約40秒。春香は一度深呼吸をし、まっすぐな目で振り返る。

「律子さん! 私が間違ってました。――天海春香は、立派なアイドルです!」
「ええ。当たり前です。春香にも、よろしく伝えておいてくださいね。
 活動停止の日まで、しっかりサポートお願いしますよ」

 当たり前です。と、春香も笑顔を返した。今の春香ができる、唯一のプロの仕事は、小鳥の
サポートだったからだ。

 レッスン室にいる四人に、春香は会いに行った。今までになく軽い気持ちで。
 春香は、輪の中から外されていたのではない。春香が、輪の中からひとり外れていたのだ。

 おかしな春香と、おかしな小鳥だと三人から評されて、二人は目配せして笑った。

 向かい合う瞳の色は、春香とまったく同じもの。元の春香と、なんら変わってはいなかった。
そのことに気づけただけでも、春香には堪らなく嬉しかった。



*****



 活動停止の当日。春香は、小鳥とプロデューサーと、デパートの屋上に向かっていた。

 お別れライブはできなくなってしまったものの、今日が春香の最後の活動日には違いない。
「何かやりたいことは無いか?」と、プロデューサーに尋ねられた小鳥は、デパートの屋上に
行きたいと答えた。ヒーローショーが見たいと言うのだ。

「どうせ最後なんですし! 子供たちに混ざって、パーっと盛り上げちゃいましょうよ!」

 プロデューサーは頷いた。お別れライブが潰れてからも、レッスンしていた様子を見ていて、
心苦しかったせいもある。最終日の記念にと、今日は春香と小鳥と三人で、ショーを見に行く
ことに決めた。
 最後の日までアイドルでいたいからと、荷物の中にアイドル衣装を詰め込む小鳥を、春香は、
不思議そうな目で見ていた。

「荷物が重たくなっちゃいますよ、小鳥さん」
「春香ちゃんが、いつもショーの日に使った、大事な衣装だもの」
「小鳥さんは、今日のショーが失敗するかもしれないって、思ってるんですか?」
「いいえ、違うわ。ショーが成功して欲しいから、ヒーローを応援しにいくのよ。
 春香ちゃんも、いっしょに来てくれるでしょう?」

 断るつもりもなかった。プロデューサーの車に乗りこんで、いつものデパートに到着すると、
真っ先に、前までとは違うポスターが目に付いた。デパートの各地に、新しいヒーロー戦隊の
ポスターが貼られている。今までの単色刷りではない、多色刷りのポスターは、デパート内の
オモチャ売り場を中心に、そこら中で見かけた。これだけでも、一番プッシュしている企画で
あることが、良くわかった。

 屋上に到着した春香は、いつもと変わらない空気に触れて、大きく息を吸った。子供たちは
ショーが始まるまでの時間、おいかけっこしたり、巨大な遊具の中で遊んでいる。その中には
春香が知っている顔もあった。いつも決まって最前列を陣取る男の子。お気に入りのオモチャ
片手に眺める女の子。
 ステージの上に立つアイドルの春香には気づけても、私服の春香には全く気づかないようだ。
はしゃぐ子供たちの脇を通りながら、春香は小鳥に尋ねる。

「そういえば、プロデューサーさんは?」
「デパートの方に、挨拶してから来るみたいよ。一足先に、ショーを見ていましょうか」

 ヒーロー戦隊ショーは15時から16時の予定だった。開催予告の放送チャイムが何度か流れ、
子供たちがぱらぱらと集まりはじめる。春香は遠慮気味に、肩を小さくして座っていた。隣で
帽子をかぶっている小鳥にも、子供たちは興味をしめさない。子供たちの今日の注目の的は、
ステージに登場するヒーローだ。春香はもう、その役目を半ば放棄している。

 猛々しいオープニングの曲が屋上に降りそそいで、初お披露目のヒーローが会場を席巻した。
子供たちが甲高い声をあげ、真新しいショーに興奮している。春香も目にするのは初めてだ。
 新しいヒーローを前に、小鳥も興奮していた。今にも席から立ちあがりそうな勢いで、子供
たちに混じって、きゃあきゃあとはしゃいでいる。あまりにも夢中で、足元の荷物が転がって
しまいそうだ。春香は、慌ててそれを引き寄せた。やっぱり重たい。

 それなりの宣伝費用をかけたショーは、確かに見ごたえがあった。揃いの衣装も派手だし、
ヒーローや怪人の立ち回りも迫力がある。大きなエフェクト音が左右のスピーカーから炸裂し、
白い煙がブワッと噴き出したところで、ステージを降りた怪人が観客席に現れた。

『あっ、怪人め、子供たちに何をする!?』

 春香の前方に座っていた子供が、呆気なく捕まってしまった。女の子は驚いて声も出ない。
軽々と抱きあげられると、ステージまで連れて行かれてしまう。ショーの司会者と、変身前の
ヒーローたちが、悪逆非道な怪人のことを、これでもかと罵倒している。

「いいわあ! お約束よねえ!」

 小鳥は腕を組んで何度も頷いている。春香はそちらに反応できなかった。女の子は混乱して、
かちかちと震えてしまっている。今にも泣きだしそうな表情で、怪人に抱えられている。その
小さな手から、大事なオモチャが落ちてしまいそうだった。

『みんな、ヒーローを呼ぼう! ヒーローの名前を呼べば、変身したヒーローが現れるぞ!』

 司会者が大きく観客席をあおる。観客席の反応は、思ったよりも薄かった。気を取り直して
ステージに向き直ると、司会者は怪人の横に進み出た。女の子に一言二言、声をかけている。
女の子の表情が、ぱっと明るくなって、マイクに向かって質問の答えを発した。

『ハルカ』

 えっ。と春香は思った。えっ。と司会者も思った。

『ハルカは、おうたうたってくれるもん。ハルカがいい』

 司会者が慌てて女の子の口元からマイクを引き離す。それでも、観客席からも、春香を呼ぶ
声が挙がりはじめた。本来なら今日は、春香が出てくるはずの日曜日なのだ。ショーの反応が
今ひとつ鈍かった理由は、ここにあった。子供たちの約半数が、くすぶっていた不満の矛先を
ステージに向けている。ショーの展開とは違うヒーローコールに、出演者たちは戸惑っていた。
春香を呼ぶ声が、なかなか静まらない。

 ステージ上の怪人は、大きな過ちを二つ犯していた。ひとつは、偶然捕まえてきた人質が、
明らかな人選ミスだったこと。そしてもうひとつは、姿を隠したヒーローが、今なお観客席の
中に潜んで、状況を目の当たりにしていたこと。
 予想外の状況に言葉を失った春香の隣で、小鳥が立ちあがった。その手がバッグに伸びる。
春香は、驚いてそちらを見上げた。

「小鳥さん」
「今日だけ私に、あなたのステージを貸してね」

 紛れもないヒーローが、春香の目の前にいた。



*****



 挨拶回りを済ませたプロデューサーが、屋上を訪れたのは、その10分後。人質を解放して、
変身のきっかけを無くしたヒーローたちは、私服のまま怪人と交戦していた。

「えーっと。春香と小鳥さんは、どの辺りだろう?」

 きょろきょろと観客席を見まわしていたプロデューサーは、ふと聴き覚えのあるイントロに
気づいて、足を止めた。ヒーローショーにしては、明るすぎる音楽だ。ステージの上が一気に
華やかになって、子供たちがそれに反応する。
 五色のヒーロー戦隊をはるかに凌駕する、二桁色のテーマソング。

“ハルカはリーダーなんでしょ。だってアカだもん。いつかテレビのまんなかにでるよね”

 いつだったか、最前列の男の子が、春香とプロデューサーに声を掛けてきたことがあった。
「Colorful Days」のイントロを背に、赤いマントを肩にかけ、自信に満ちたヒーローが言う。

『みんなのピンチと聞いて飛んできました! 謎の美少女アイドル、天海春香が参上です!!』

 プロデューサーの声は、喉で凍りついた。子供たちのテンションが一気に臨界点を突破する。
今日の春香は、いつもより派手に登場した。更衣室のカーテンが一枚、謎の美少女アイドルに
拝借されたことを知っているのは、春香と小鳥だけだ。

『一生一度のチャンス! 全力で歌いに来ました! みなさん、聴いてください!!』

 一丸となった観客は、それに全力の歓声を持って応じた。



 一方その頃、春香は裏で駆けまわっていた。舞台袖に控えている音響係が、春香のショーの
時と同じスタッフだったことが幸いだった。唐突に現れた春香に、スタッフは動揺していたが、
今日が春香のお別れライブ日だったことと、その機会を、永遠に無くしたことを説明されると、
スタッフは驚いた顔をして、繰り返し春香に確認した。本人でありながら、春香は何度も頷く。

 そして今、ステージ衣装に身を包んだ小鳥が、ステージの上に颯爽と現れたのを見計らって、
ショーの予定には一切なかった音源が、デパートの屋上を満たしていた。

 今まで何度も流れた音楽を背後に、小鳥が気持ちよさそうに歌声を届けているのが見える。
子供たちがカラフルな色の名を叫んでいる。赤の時の歓声が一番大きくて、春香の表情が少し
緩んだ。その笑顔が、バタバタと騒々しい足音によって固まる。
 ステージの上にいられなくなった、ヒーローショーの出演者たちと、その司会者だ。

「なにやってんだよ! 早くあの女降ろせ!」
「い――いやです!」
「ショーが滅茶苦茶じゃないか! どう責任を取るつもりなんだね!
 初日に合わせて宣伝してきたのが、これで台無しなんだよ!」

 責任と重圧が、春香の真正面から背中まで一気に貫いた。それでも春香は一歩も引き下がら
ない。一歩でも下がったら、律子に軽蔑される気がした。お金がなんだ。大人の都合がなんだ。
そんなものよりもっと価値があるものを、目の前で教えてくれた人を春香は知っている。

「お願いします! 歌わせてあげてください! あの子は、今日で最後なんです!」
「最後ってなんだよ。また別の日使ってくれよ」
「少しだけでもいいんです! お願いします! お願いします!」
「そう言われても、今日の契約は、すでに決まっていることなんだし……」

 輝かしい小鳥のステージとは対照的に、春香は床に膝を落として、何度も頭を下げていた。
終わらせてはいけない。ショーを終わらせてはいけない。春香の頭の中はそれで一杯だった。
春香が考えているのは、ひとつだけ。小鳥が最後まで歌を歌いきることだけだ。だから春香は、
背後の気配にも気付けなかった。

「あっ、小鳥さん! やっぱり小鳥さんの仕業でしたか!」
「プロデューサーさん……!」
「何事かと思いましたよ。立ってください。ああ、みなさんも、申し訳ありません」

 プロデューサーは名刺を取り出し、ぺこぺこと頭を下げる。その隣で春香は恐縮していた。
その頃にはようやく、プロデューサーの後ろに控えている人物にも気づける余裕が生まれた。
彼は、剣呑そうな出演者と、プロデューサーとの間に入るタイミングを、計っているようにも
みえた。思わず春香の口から疑問が飛び出す。

「プロデューサーさん、こちらの方は?」
「ああ、そうだった。ここに向かう途中でお会いしたんです。こちらは――」

 当デパートの催事担当です。と、彼は名乗り出た。

「皆さん、私の話を聞いてください。そして宜しければ、あの子を降ろさないで頂きたい」

 反発したのは出演者たちだ。順番の差異こそあれど、彼らは彼らなりに、「きちんとした」
手順を踏んで、「然るべきやり方」にのっとって、「大人が最も喜ぶ結果」を算出するために、
ステージに立つのが仕事だった。それがダメだと言われては、彼らの上が許さないだろう。

 心配する春香とプロデューサーを前に、催事担当者はステージが見える方向に進んだ。広い
空に解放されたステージと観客席を見わたし、彼はショーの出演者たちを振り返る。

「今からあなた方が出ていったとして、あれ以上の笑顔を作れますか?」

 観客席の方角を示され、出演者たちが言葉を呑みこんだ。退屈そうな表情をしている観客は、
今や一人も存在していない。大人しく座っている子供を見つける方が難しかった。ヒーローの
小鳥は、ステージの上を縦横無尽に歌いまわり、観客に向かって何度も手を振り返している。

「あの子をステージから降ろすのが、ヒーローの務めではないでしょう」

 そんなことをすればどうなるか、その場にいる誰もが容易く想像できた。全員が同じものを
想像しているのを確認し、催事担当者はひとつ息を吸うと、自分の立場で話を切り出した。

「本当に大事なのは、お客様の笑顔です。見てください、あのお客様を。
 デパートを訪れたお客様に、満足して帰って頂くことが、私どもの大事な仕事なのです」

 司会者が静かに首を振る。プロデューサーが春香の背を叩き、それで春香は我にかえった。
緊張の糸が切れて、今にも倒れそうだったが、それはまだ許可されていない。大人の春香には、
まだ、大人として片付ける仕事がたくさんある。

「今から忙しくなりそうですね、小鳥さん」
「任せてください、プロデューサーさん!」

 珍しいくらい元気な声が、春香の内側から湧き出た。
 ステージの上の熱気は、まだまだ下がりそうになかった。



*****



 デパートの屋上は、先程までの熱気を吹き飛ばし、がらんどうとした空気をかかえていた。
夕方の涼しい風が、屋上を吹き抜けていく。鳴り続けていた遊具のメロディーも、子供たちが
去った今では、すっかり黙り込んでいた。

 春香は客席に腰を降ろして、誰も居ないステージの上を眺めている。先程まで小鳥が全力で
歌っていたステージ。天海春香の、最後のライブ。自分のお別れライブを、まさか自分で見る
とは思わなかったな。そう、春香は思った。

 あの時の春香は、ステージに釘付けにさせられていた観客のひとりであり、心は紛れもなく
子供にかえっていた。目の前に現れたヒーローは、ステージの上でめまぐるしく活躍したあと、
忽然と姿を消してしまった。その余韻が強すぎて、春香はここに一人で居ることを望んだのだ。

 お別れライブが終わり、春香の中から、アイドル“天海春香”は消えた。春香に掛けられて
いた魔法もとけた。どこにでもいる一人の女子高生に戻った春香は、わずか数時間前までいた
世界に、想いを馳せていた。

「ああ、小鳥さん。ここに居たんですか」

 背後から声を掛けられ、春香はそちらを振り返った。背広の上着を手に、くたびれた様子の
プロデューサーが、頭を下げながら近づいてくる。

「プロデューサーさん。お疲れさまでした。……あの、色々、大変だったんじゃ?」
「無事に終わりました。大事にはなりませんよ。小鳥さんが居てくれて助かりました」
「そんなことないです。私よりも、こと――春香ちゃんの方が、よっぽど」

 よっぽど凄かったし、よっぽど上手だったし、よっぽど頑張ってくれた。間違いない。誰に
聞いてもそう答えるだろう。けれど春香は、それを素直に口に出せなかった。本来なら春香が
やるべき仕事で、春香はそれすらも、半ば放棄しかけていたのだから。

「先方さんにも、随分と気を遣わせてしまいましたよ。
 『最後だとは知らなかった』『あの子には悪い事をした』って。
 春香は、ここの常連アイドルでしたからね。今日が過ぎても、来ると思ったんでしょう」

 プロデューサーは空のステージを眺める。春香と何度も訪れた場所だ。活動停止を迎えて、
どんな気分なのだろう。プロデューサーの隣に座りながら、春香は言葉をさがした。いくら
さがしても「お疲れさまでした」以外の言葉が、みつからない。何か他に、言うべき言葉が
あるような気がするのに、春香にはどうしても、それを導き出すことができなかった。

「ここ最近の春香は、とても明るかったんです。小鳥さんが居たおかげかもしれませんね。
 あれほど活き活きと歌って踊る春香を見られたのは、俺も、とても久しぶりでした」
「……久し、ぶり……?」
「はい。今日の春香は100点満点です。初めて会った日のことを、思い出しましたよ」

 プロデューサーの言葉に、春香は戸惑った。今日の小鳥が満点だったのはわかる。けれど、
満点をもらった小鳥と、お別れライブを放棄していた春香を同一視するのは、いくら何でも
納得できなかった。プロデューサーは一体、何を言っているのだろう?

 春香の困惑に気づかないプロデューサーは、まるで、懐かしいものを見るような眼差しで、
ステージを眺めている。大きなステージとは縁のなかった春香が、唯一上がることのできた
ステージだった。懐かしさに腕を引っ張られる形で、春香は席を立つ。ステージへと向かう
その背中に向かって、意外な言葉がかけられた。

「一曲、歌ってもらえませんか?」

 春香は、驚いて振り返った。お別れライブを終えて、プロデューサーは何だか寂しそうに
見えた。一度は無いものにされた、春香のお別れライブが出来たものの、プロデューサーは
その裏で謝罪や修復作業に追われて、ゆっくりステージを見ることもできなかったのだ。

「ここに座っていると、まだ、春香の歌が聴こえる気がするんですよ」

 先程までのライブを、思い出しているのだろうか。プロデューサーは目を閉じて、賑やかな
ステージに想いを馳せている。小鳥と入れ替わってからというもの、そう言えば春香はずっと
歌を歌っていなかった。その必要性さえ失っていた。入れ替わってしまった春香に向かって、
「歌が聞きたい」と言ってくれるファンは、どこにも居なかったからだ。ひとりを除いて。

 迷いながらも、春香はステージに上がった。アイドルの衣装に身を包み、何度も立った場所。
子供たちが、春香の名を呼ぶ空耳が聴こえて、春香は静かに目を閉じた。


“ハルカ。ハルカ、うたって。もっとうたって。どうしてやめちゃうの?
 もう、うたいたくないの? ハルカ、アイドルきらいなの? ハルカ。ハルカ――”


 春香は閉じていた瞼を開いた。観客席に、もう、ファンはひとりもいない。役目を果たした
プロデューサーが、ぽつんと腰を降ろしているだけだ。「歌ってもらえませんか?」その声が
春香の中に、繰り返し響いていた。三週間ぶりに、春香は、メロディーらしき歌を口ずさんだ。

 歌声は、自然と春香の口をついて出てきた。



 プロデューサーは、観客席のひとつに腰を降ろし、静かにその歌を聴いていた。小鳥が歌う
「空」は、いつもよりも柔らかい空気で、プロデューサーの中へと優しく染みわたってきた。
 今までの活動を振り返りながら、寂しくなっていた気持ちを、慰められたような気がした。

 ゆっくりステージを眺める暇も無かったプロデューサーは、ようやくその時間を迎えていた。
 ステージが終わるのを、惜しいと思ったのは、先程までの子供たちと一緒だった。
 プロデューサーは、小鳥が歌い終えるまで、その場にじっと座っていた。



「……すいません。私の歌なんて、ダメですよね。い、いえ、いつもはもっと上手く――」

 なんとか歌い終えた春香は、慌てて弁明に入った。プロデューサーは首を横に振る。そして
満足そうな顔で拍手をすると、心の底から浮かび上がった、率直な感想を述べた。

「小鳥さんは、本当に歌が好きなんですね」

 春香は息を呑んだ。震える両足を一喝すると、

「――はいっ!」

 涙を必死に堪えて、それを受け入れた。大事な言葉だった。手放してしまいたくなかった。
春香は、いくつかの言い訳を並べると、プロデューサーをそこに残して、ステージを離れた。
大声で泣き叫びたかった。あるいは、一人になりたかった。

 ようやく本当の気持ちを見つけて、気づいた時には何もかもが終わっていた。絶望にも似た
無力な気持ちを感じるのは、春香にとって、およそ、三週間ぶりのことだった。



 着替えを終えて更衣室を出てきた小鳥は、子供たちの波が収まったことを確認し、そーっと
屋上を目指した。いろんなことをやり尽くして、心の奥底がポカポカしていた。その充実感を
味わっていたのが、つい先ほどまでのこと。屋上を目指していた小鳥は、階段を上っていた。

 そこで小鳥は、涙目になって降りてくる小鳥を――春香を見かけた。

「あら。春香ちゃん?」 (あら。春香ちゃん?)

 小鳥は、その感覚を覚えていた。レッスン室に届け物に行ったときのことだ。春香は涙目で
降りてきて、小鳥の存在に気づいて、びくりと身体を震わせた。
 その拍子に足元が滑って、春香がバランスを崩す。何もかもが同じで、小鳥もそれに倣う。

「春香ちゃん!」 (春香ちゃん!)

 三週間前も、同じ事が起きた。小鳥はつかの間の夢を楽しんだ。楽しみすぎて申し訳ないと
さえ思った。だからもし、時間を返すことができたら、返してあげたいと思った。16歳のまま
でも、小鳥の姿になっても、階段を降りてくる春香はいつも泣いていた。小鳥は両腕を伸ばす。

 ――どうか、神様。今度は、痛くありませんように。

 そんな風に念じながら、小鳥と春香は階段を転げ落ちていった。



 765プロに向かって、一台の車が走っている。

「まったく。小鳥さんと春香は、おっちょこちょいなところまで、そっくりですね」
「そんなことありませんよ。私はいつも巻き込まれてばかりで」
「ええー!? 小鳥さん、酷いです! 小鳥さんだって、巻き込んでばかりだったのに!」

 車の中は、とても賑やかで。活動停止したアイドルが、一番元気だった。



*****



 春香と小鳥の日常は、ようやく元通りになった。

 765プロも、三週間ぶりの日常を取り戻していた。いつものように出社する高木社長を迎え、
小鳥は背を正して一礼する。制服に身を包んだ小鳥は、顔を上げ、曇りのない笑顔を浮かべた。

 誰にも言えないことではあるのだけれど、小鳥にはひとつ、気がかりなことがあった。
 春香のお別れライブの幕を、春香ではない自分が降ろしてしまったことだ。

 小鳥は日常の業務に戻りながら、それを何処かでフォローする方法を考えていた。もちろん
今はアイドル活動を止めたばかりで、先のことなんて考えられないかもしれないけれど、もし
春香が、少しでもその気があるのなら、小鳥は今度こそ全力でサポートしたいと願っている。

 小鳥の考えを中断させるように、一本の電話が鳴った。かかってきた電話を、高木社長へと
取り次ぐ。日常のそんなやり取りさえも、今日の小鳥にはくすぐったかった。

 その電話が765プロに届いた直後、日常の穏やかな空気が一転した。



 高木順一朗はその電話を受け、驚き、戸惑い、そして電話を切る直前に二度、礼をした。 
 萩原雪歩はちょうどお茶を運んだ所だったが、高木の号令を受け、社長室を飛び出していく。



 お別れライブを終え、アイドルでなくなった春香は、プロデューサーと公園に来ていた。
 昨日の話をしながら、春香は今までの不思議な出来事を振り返り、おもむろに口を開く。

「プロデューサーさんに、聞いてほしい話があるんです」


 双海亜美と双海真美は、雪歩からその知らせを受けると、直立敬礼して事務所を駆け回った。
 如月千早は真美の伝令に驚き、ここ数週間のレッスンを振り返りながら、携帯電話を取り出す。



「なんだい?」
「私が子供のとき。子供に戻れたときに、私が憧れた、歌のお姉さんの話――」


 四条貴音は台本を閉じ、亜美の話に耳を傾けると、振り向いて共演者を呼んだ。
 秋月律子は腕を組み、その意外な展開に、事務所として何ができるかを考え始める。



 春香は語った。大好きなお姉さんの話を。歌が上手で、春香の憧れになった人の話を。
 パッと現れて、忽然と居なくなってしまった、素敵なヒーローの話を。
 プロデューサーはそれを、「春香が子供のときの思い出話」として、興味深く聞いていた。


 我那覇響は眠そうに電話に出た美希の、瞬時の変化に驚き、その隣に座って耳を寄せた。
 星井美希は千早の声に大喜びで応え、何度も頷くと、今から電話で教えるねと通話を切る。



 そして春香は足を止め、まっすぐにプロデューサーの方を向いて、口を開いた。


 高槻やよいがレッスンを終えて二人分のドリンクを取ると、真美が元気に駆け込んできた。
 水瀬伊織は携帯電話でその知らせを受け、入ってきたやよいと真美に最高の笑顔を向ける。



「――私、歌が好きです。アイドル、頑張りたいです」


 三浦あずさは事務所に戻ると、その蜂の巣を突付いたような騒ぎに、オロオロと慌てていた。
 菊地真は雪歩から聞かされた知らせの全貌を、あずさに伝えて、会心のガッツポーズをする。



 プロデューサーは驚いて、春香の名を呟いたきり、あとの言葉が続かない。
 プロデューサーの前に立つ春香から、あの錆びは跡形もなく消えていた。


 音無小鳥は、765プロが大好きだった。
 天海春香には、こんなに素敵な仲間たちがいて、プロデューサーがいて、輝く未来がある。



「時間、掛かるかもしれません。でも、どれだけ掛かっても、やりたいんです。
 今度こそ、最後まで走りきってみたいんです」


 音無小鳥は、スケジュールと会場の集客数、そして意外なスポンサーの名を紙に書き留める。
 不確定な要素もたくさんあるけれど、それもすぐに決まるだろう。 
 大事なのは、この一歩、まず歩き出す事――。



「また、一から始めようか。春香」
「――はいっ!」


 小鳥はその紙を丁寧に丸めると、壁に貼られた自分の名札を『外出中』に切り替えた。
 知らせを持ち、ドアを開け、小鳥が一歩を踏み出した。



 公園にいた二人の元へ、小鳥が走ってくる。春香の手に渡ったそれは、夢のバトン。
 お終いを迎えていない春香が、もう一度スタートするための、始まりに向かうための切符。

 春香はそれを、笑顔で受け取った。



  ――笑っていいよ 泣いていいよ

     だって巡ってまた “春” は来るから――

 

                                                       (おわり)

 

 『一枚絵』第5回参加作品 / ※この作品は寓話さんとの合作作品です:blog [寓話工場]

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