「如月くん。彼は、プロだ。何も心配は要らないよ」
 高木社長が、そう言った。
「彼は今までのプロデューサーとは違うからね。彼に任せたまえ」
 その頃の私は、その言葉をまるで信じていなかった。
 プロフェッショナリズムを備えたプロデューサーなどいない。
 売れるプロデューサーとは、いかにアイドルを飾りつけ、それっぽく波に乗せるかという技術者。
 そんなものに、私は私を委ねるつもりなんて無かった。
 どうせ他のプロデューサーと同様、1週間、せいぜい1ヶ月で投げ出すだろう――。
 私はまだ見ぬ男との対立軸をいくつか思い描き、溜め息をついていた。

 結論から言えば、私は全く誤解していた。
 高木社長は、あの人の事を、プロデューサーとは一言も言っていなかった。
 今でも、あの時の高木社長の苦しそうな、何かを諦めたような表情が瞼の裏に浮かぶ事がある。

『彼は、プロだ。何も心配は要らないよ』


 
 



 
 
「あなた、誰ですか?」
 私は黙って入ってきたその人に聞いてみた。答えは分かっている。
 俺はキミのプロデューサーだ――
 けれど、その人が真顔で口にした言葉は、私の予想と大きく違っていた。
「俺は、キミの救世主だ」
 ひどい話だ。私を救うとは、どういう意味だろう。私は、何も――
「キミは、プロデューサーなんて必要としていないんだろう?」
 調べている? それとも、高木社長に聞いているの?
 男は、耳を覆うやや長い髪と、おそらくそれなりのブランド物であろうスーツに身を包んでいる。
 けれど、その印象はひどく冷淡で、芸能界の人間特有の浮ついた匂いが全くしない。
 ほとんど表情の浮かばない一重の眼が、真っ直ぐに私を見詰めた。
「俺はキミをプロデュースしない。ただ、隣で見てるだけだ。キミは好きに歌えばいい」
 男は、名前を “クモ” と名乗った。

 男は3週間、一切のプロデュース活動をせず、私は、ただレッスンに時間を費やした。

 ダンスレッスンも、時には必要だ。
 基礎体力と共に、肺活量を高めてくれる。踊りながらでもぶれない音程は、強い武器になる。
 私はジャージ姿のままダンスを続け、動きを身体に沁み込ませて行く。意識している内はダメだ。
 クモは無感情なままの表情で私の動きを見ている。
 退屈じゃないのかしら?
 何の指示も出さず、何の注文も出さず、ただじっと見ている冷淡な視線。それにも、慣れてきた。
 鏡越しにクモを観察する。
 彼は確かに、私を見ている。私の身体を、視ている――。


 2週間後にオーディションを控え、全ては順調に進んでいた。
 デビュー曲は? ――どの曲が好き?
 衣装は? ――好きなのを選べば?
 アクセサリーは? ――嫌いでしょ?
 クモは、プロデュースをしない。
 その結果、私を最も長く見たプロデューサーになった。


 1週間後。レッスンスタジオ。
 6度目。曲の頭から。
 自分で選んだ ゴシックプリンセスを着て、ダンスとボーカルを合わせる。
 どうしても、上手く……噛み合わない。
 ダンスだけなら問題はない。ボーカルだけでも、もちろん問題はない。ただ、合わなかった。
 動きを止め、立ち尽くす私は、つい、クモを見てしまった。

 クモは、私を視ていた。

「貴方は、私のプロデューサーでしょう?」
「それは俺が決める事じゃないよ」

 クモは、私を視ていた。

 私はクモに背を向け、7度目のステージに立つ。観客は、1人きりだ。

 歌う。踊る。小さな齟齬。意識と身体の乖離。
 声。腕。汗。背中。揺れ。焦り。途切れる集中。
 私は、私のレッスンが信じられなくなっていたし、勝ちのイメージも見えなかった。

「プロデューサー」
「俺の事?」
「はい。プロデューサー、何かご意見を下さい」

 期待はしていなかった。いっそ諦める材料にしようと思った。
 けれど、クモは違った。その眼は、私の眼窩を抜け、脳髄と海馬の奥の意識まで見通すようだった。
「意識が、散っているんだよ」
 クモは事もなくそう言い捨てる。だから、縛り付けないと、と。

「蚕の繭から採取された天然繊維の事を、生糸という」
 プロデューサーは光沢のある白い糸を取り出した。
 き、いと。私はその漢字を思い浮かべながら、誘われるように復唱した。
「太さは2.5デニールくらい。単繊維なら、視認は不可能だ」
 その細く白い糸をくるくると伸ばし、一度口に銜えて、噛み切った。
「構成は硬蛋白質のセリシンと繊維素フィブオイン。人体には無害」
 その、目に見えるか見えないかの輝きの糸が、そっと私の首に回される。
「プ、プロデューサー? 何を――」
「千早の意識を、繋ぎ止める。おまじないだよ」
 その糸の輪がゆっくりと小さくなり、そして、私の喉に細い線を描く。
 否が応でも意識せざるを得ない、その糸は、私の心をちりちりと焼いた。
「これで、歌えと言うんですか?」
「逆、かな。それで歌うのは楽だよ。だから、それで踊る事を意識するんだ」
 クモの目が、細く、優しくなった。


 オーディションでの一位通過。喝采。そしてステージ収録。
 私は歌い、踊る。宝石のチョーカーの下の、絹の糸と共に。
 トークパート。
 司会者が私のチョーカーを褒める。選んだのは千早ちゃん?
 私は、プロデューサーです、と言ってそっとそれに触れる。
 プロデューサーが最初にしてくれた、プロデュースの副産物――。
 私の喉を縛る光の糸を隠す為の、黒い布の首飾り。
 オーディションを終え、その細い糸はもう切られてしまったけれど。
 役目を終えた生糸の残した赤い線は、今もまだ、黒い布の下に残っている。
 ちりちりと肌を焼くようなその細い細い爪痕が、今も私の意識を囚えて放さない。




 レッスン。その合間の営業。
 私達の活動は、完全にオーディションだけを標的としていた。
 いつ、どのオーディションに出るか。その為にどんなレッスンが必要か。
 その為に、『何』が必要か――。


 『美道場』は、難関オーディションの一つに数えられる。
 オーディションの時点から、ステージ衣装で審査される異色のオーディション。
 少なくとも、今の私が出るべきオーディションではない。
 普通に考えれば、当然の帰結だ。
 それでも、プロデューサーは止めなかったし、私も、決して無謀とは思わなかった。

「上手く行きません」
「だろうね。バランスが崩れてる」
 クモが、板張りのフロアに膝を突き、私の足に触れる。
 衣装はスノーストロベリー。剥き出しの素足が、きっと根元まで見える位置。
 おかしな話だけれど、男性に肌を撫で回されているという感覚がない。
 勝手な解釈だけれど、クモには通常の性欲が無いのだと思う。
 きっとクモの中では、私は人形かマネキンなのだ。
「踵を上げて」
 指示に従う。
「逆」
 踵を上げ、背伸びをするような姿勢。覗き込む双眸。
 クモはそのまま、膝と腰骨の中間点に指を這わせる。
「少し、キツいけど大丈夫?」
「はい。それで上手く行くなら」
 私は、早まる鼓動を必死で隠し、無表情を装う。クモが、小さく笑ったように見えた。
「ポリエステル製の合成糸。耐摩耗性に優れ、人の肌や衣装との摩擦では、決して切れない」
 その手に乳白色の糸が握られている。
 クモの腕が私の足の間をくぐり、その糸を手繰り寄せる。
 冷たく輝くその糸が、私の左太腿を縛り、私の意識はそれに囚われる。
 ゆっくりと引っ張られたその糸が、私の肌をゆっくりと押さえつけ、切りつける。
 背中まで走る痛痒。心を苛む掻痒。
 一瞬意識が遠のき、倒れ掛かった私はクモの両肩に手を突いた。
 クモの視界を、私の衣装のスカートが覆う。クモの息が、私の太腿の内側にかかる。
「もう少しだ」
 クモの指が、私の足を這い回る。そして、その糸が私の足を締め付ける。
「プロデューサーっ」
 私の指が、クモの肩に食い込む。真上からではクモの表情は読み取れず、声に変化は無い。
「衣装は変えよう」
 クモの吐息。近付く唇。つい逃げそうになる私の足を、その腕が押さえつけ、決して離さない。
 クモの頭がスカートの中に潜り込み、その歯が糸の端を噛み切った。
 私の中で、小さな光が明滅する。
「衣装はパステルマリン。アクセサリーでガーター」
 クモはゆっくりと立ち上がり、その途中、右手の人差し指で糸の上をなぞった。
 私は、頷くくらいしかできなかった。


 『美道場』をトップで抜けた。
 私は楽屋に戻る。プロデューサーに、糸を切ってもらういつもの儀式。
 オーディションさえ終われば必要ない――それが、クモの言い分だった。
「プロデューサー」
 私は、楽屋に入り、先に声を上げた。
「勝敗の絡むオーディションで最善を尽くすのは、当然です」
 一歩。二歩。クモに向かって足を進める。
「けれど、オンエアの収録がそれ以下でいいとは思えません」
 私は指をきつく握り締め、必死で言葉を選ぶ。
「じゃあ、どうしたらいいんだろう? 俺に手伝える事はあるかい?」
 私は、自分の口で、自分の言葉で、言わされるのだ。
 私の望みを。私の声で――。

『如月くん。彼は、プロだ。何も心配は要らないよ』

 高木社長の言葉の意味が、その時、やっと理解できた。
 蜘蛛の糸が、彼の手の中で光っていた。


                                                              【End】

 

 

 『一時間SS』 2010/6/4参加作品 お題:「貧乏の不幸」「蜘蛛」「外郎売り」「恋愛話」

 『フェチm@s』 イメージ作品

 

inserted by FC2 system