<1>


「双海真美選手、ドトウのカイシンゲキであります! なんというドクソウ! 圧倒的だ!」

 うぉんうぉんぶろろおおおおおおーん!と、口でエンジン音を吐きながら、真美が事務所の
中を爆走している。広いオフィスルームの中、人影はまばらだった。デスクの合間を駆け抜け、
電話に応じている小鳥の前を突っ切ると、身体を傾けドリフトしながらゴールに突っ込む。

「チェックイィーン!!」
「あらあら、真美ちゃん」

 それを言うなら、ピットインじゃないかしら? ソファの上で雑誌を読んでいたあずさが、
隣に飛び込んできた真美の方を向いて小首を傾げた。Fランクアイドルのあずさと、それより
わずかに上のランクの真美。双子の片割れが、デュオユニットの相手と外出してしまっていて、
真美はひとりで退屈を持て遊んでいた。

「気にしない気にしないっ。えーっと、あずさお姉ちゃんは、何を読んでたの?」

 真美が手元を覗きこむ。あずさは読んでいた雑誌をひろげて見せた。TV番組表を軸にした
その雑誌も、今週号は『アイドルアルティメイト』の話題で一色だった。優勝候補と目される
二人の対立や、確執を煽るばかりの内容に、ピンとこない真美は、ふぅんとそっけない返事を
する。同じような感想を抱いたあずさも、ちょっとだけ肩をすくめた。

 いつからアイドルは、競ってばかりの存在になったのだろう。優勝候補の二人を知っている
あずさから見ても、彼女たちが立つ場所は、まるで遠い世界のように感じられた。

「あずさお姉ちゃんも、すぐ雑誌のるよ。『真夜中のレースクイーン』はダテじゃないしね!」
「まあ。真美ちゃんったら」

 トップアイドルの記事を読むあずさを見て、真美はどうやら「あずさが落ち込んでいる」と
勘違いしたようだった。ソロアイドルとして、未だパッとしないあずさが、唯一獲得していた
レギュラーが『クイーンオブレース』を着て流行りものを紹介する、木曜深夜枠のバラエティ
コーナーだった。恵まれたルックスと、天然リアクションの面白さが視聴者に受けて、好評を
博しているが「あまり色が付きすぎると良くない」と心配する声もぽつぽつ挙がっている。

「でも、まだ本物のF1サーキットには、行った事がないのよねぇ」
「んー。あずさお姉ちゃんは、屋外ロケより、カメラが近いスタジオの方がいいよ!」

 真美の言葉に、あずさはそうかもしれないわね、と曖昧に微笑んだ。真美の言葉に納得した
わけではない。あずさ自身も、どんな仕事が自分に向いているのかが分からないので、賛成も
反対もできないのだ。
 アイドルとしての方向性を見つけられない。それが、三浦あずさの現状だった。

「あーあ、はやく亜美とゆきぴょん帰ってこないかなぁ。今日はね、真美が――」

 真美がそう言い掛けた瞬間、爆発でも起こったような勢いで事務所のドアが開いた。二人が
驚いてそちらを振り向く。勢いよく部屋に躍り込んできたのは、亜美だった。

「真美ー! キンキュウジタイ発生だよーっ!」

 ぜぇぜぇと肩で息を荒げている亜美の手には、茶色い塊が抱えられている。一瞬あずさは、
亜美が毛布か、スリッパでも拾ってきたのかと思ったが、その予想は大きく斜めに反れた。

「亜美ちゃん。雪歩ちゃんはどうしたの? 今日は、一緒にお出かけしていたはずよね?」
「あ。ゆきぴょんはちょっと、この子がいるから……」

 この子。あずさは、その言葉で、初めて亜美の腕の中の「それ」が生き物だと気がついた。
生き物は亜美の腕の中で、小さく震えている。ちょっとしたサッカーボール程度の、ふわふわ
した、茶色くて丸い生き物。

「ゆーきーぴょーん! 大丈夫だってばー! 亜美がちゃんと抱っこしてるからー」

 大きく開かれていたはずの入り口のドアは、いつの間にかほとんど閉ざされていた。そして
指先をかけて開いた隙間から、半泣き顔の雪歩が、おそるおそる中を覗いている。
 亜美の腕の中で、その生き物が、わん。と啼いて。

「ひゃわぁぁぁぁっ!?」

 バーン!とけたたましい音を立てて、ドアが閉められた。



 連れてこられた仔犬は、すぐにあずさに懐いた。もとより犬を飼っているあずさは、扱いに
動揺するところがない。オモチャ扱いしようとする双子や、頭から恐れおののいている雪歩と
ちがって、犬もあずさに安心を覚えたようだった。

 


「だいじょうぶだって、ゆきぴょーん。亜美たちのユニットは、あくまでデュオだからさ」
「こっ、この子もユニット入ったら、『リトル・スノウ』は解散決定だからね、亜美ちゃん!」

 現在Eランクの『リトル・スノウ』は、亜美と雪歩のデュオユニットだ。ソロデビューした
あずさの、一月あとにデビューした、765プロでは最も新しいアイドルユニット。物静かな姉と、
元気な妹という、普段通りの姉妹性が受けて、出演しているドラマの端役などでは、ほとんど
演技いらずのままで通用していた。

 こんな展開になるなら、様子を見にいくんじゃなかった。と、雪歩はガックリ肩を落とした。
まあまあと亜美に宥められ、真美は真美で、あずさが抱く犬に夢中になっている。

「それで、どうしてこの子がうちに来て、緊急事態なのかしら?」

 いつもどおりの、のんびりした口調で、あずさが真美にたずねる。真美も今更、隠しごとは
しないつもりだった。あのね、と前置きして、言葉を選びながら説明する。

「ほら。おととい真美たち、ドラマの収録に行ったっしょ?」

 おととい真美と雪歩がロケに出かけた際、河川敷で段ボール箱を発見した。その中に仔犬が
入っていたのだ。中には、両手ですくえる程度のドッグフードと水の入ったボウル、そして、
「優しい方へ」と書かれた手紙があった。

『真美たちってチョー優しいから、これって真美たちの事だと思う! だよねゆきぴょん!?』

 手紙を取った真美の笑顔は、それはもう輝いていた。犬が苦手な雪歩は、とにかく勘弁して
ほしかったのだが、かと言って、その場に放置してくることも、出来なかったのだと言う。

「そんで、今日は亜美と、ゆきぴょんに様子を見に行ってもらったんだよ」
「う、うん。そうだね真美。そのつもりだったんだけど……」
「あら。どうしたの、亜美ちゃん?」

 亜美の表情は冴えなかった。雪歩が仔犬を怖がるのは分かるが、亜美まで沈み込む理由が、
あずさには分からない。犬と一緒に帰ってきた時は、あんなに嬉しそうだったのに、何か嫌な
ことでも思い出してしまったみたいだ。

 IUに出ることになっちゃったんだよね。そう、亜美は告げた。

「アイ・ユー……?」
「ええーっ!? 亜美、『アイドルアルティメイト』、出んの!?」

 考え込んだあずさの隣で、真美が仰天している。その言葉には、あずさも聞き覚えがあった。

 『アイドルアルティメイト』は、年三回だけ開催される「究極のアイドル」を決める有名な
トーナメントだ。今年は『アルティメイト・サン』と『アルティメイト・スター』が開催され、
既に、二人のアイドルが栄冠を手にしている。
 現在開催されているのは、『アルティメイト・ムーン』。数ヶ月前から本選が始まっており、
今からエントリーできる余地は無いはずだった。

「ち――違うの、真美ちゃん!」

 そこで口を開いたのは、雪歩だった。

「『アイドルアルティメイト』じゃなくてね、『イヌ・アルティメイト』なの」

 ぽかんとした真美と、あずさの間で、主役がわんと啼いた。亜美は頭を抱える。雪歩も正直、
複雑そうな顔になっていた。

 『イヌ・アルティメイト』。黒井社長が『アルティメイト・ムーン』の決勝戦前座枠として、
番組を貸し切った、なかば961プロの宣伝番組だ。
 「我が社は人材に限らず、優れたアイドル犬をモデルに輩出できる」というのが黒井社長の
自論で、「人」よりもよほど従順で賢いところが、彼のお気に入りらしかった。

「河川敷でね、ゆきぴょんと遊んでたら、ピカピカの外車がブーンって走ってきて――」

 亜美と雪歩は、ばつの悪いことに、番組の企画社長の目に留まってしまったのだという。

 目障りなライバル事務所の、低ランクアイドル。輝きの欠片すらない、価値の無い捨て犬。
黒井社長は素敵な笑顔を浮かべると、これ見よがしに、二人を称賛した。ダメアイドルには、
ダメ犬がお似合いだなと言われ、二人は――その挑発に乗ってしまった。

「事務所のみんなは、『アルティメイト・ムーン』で忙しいし。兄ちゃんもバタバタしてるし。
 千早お姉ちゃんは『ボーカルマスター』が近いでしょ。はるるんも、まこちんも忙しいし……」

 喋りながら、亜美の元気はどんどん削られていった。その背を雪歩がそっと支える。二人は
まだ、大きなステージに立てるような力量も名声もなく、高名な大社長の喧嘩を買うなんて、
自殺行為に等しいのかもしれなかった。けれど。

「それじゃあ、私も力になるわ。みんなで、いっしょに頑張りましょう」

 あずさからの提案に、三人はパッと顔を輝かせて一斉に頷いた。
 こうして、あずさは『リトル・スノウ』の代行プロデューサーも務めることになったのだ。



<2>

 犬が事務所にきて一週間が過ぎた。高木社長から許可を承ったあずさは「黒井との口約束は
ともかく、出場するからには全力で健闘してくれたまえよ」と勇気づけられ、背筋を伸ばして
深々と礼をした。

 犬は毎日をのんびり過ごした。ジョギングに向かう千早や真の後を追いかけ、亜美や真美と
散歩に出かけ、進行中の『アルティメイト・ムーン』で忙しそうな部屋からは、あずさに移動
させられた。「ここには居てもいいよ」という部屋を覚えてからは、それも少なくなった。

 犬が苦手な雪歩を除けば、皆は優しかった。事務所は充分大きく、スタッフも大勢いたし、
なにより765プロきっての動物好きが、暇な「アイドル候補生」だったからだ。

「なんだ、おにぎり。あずさはまた迷子か?」

 休憩室に入ってきた響は、隅に置かれたソファに寝転がる犬を発見した。現在の事務所には
あまり似つかわしくない、くたびれて色褪せたソファだ。おにぎり、と呼ばれた犬は、ひとつ
ふたつ目をこすって、うとうとと居眠りをはじめていた。

 数ヶ月前に『アルティメイト・サン』が終幕し、響があの事務所を離れたころ。765プロも
事務所を移転することになった。候補生になった響の初仕事は、引越しの手伝いだったのだ。
ソファと犬を交互に眺め、響は何か言いたそうな顔をしたが、それは来客の声に止められた。

「響。かの犬をご存知ありませんか?」

 入ってきた貴音に声を掛けられ、響はソファの上を示した。貴音は少し意外そうな顔をして
から、良かった、と胸を撫でおろす。

「ここなら大丈夫でしょう。捜されていた三浦あずさも、直に顔を出すでしょうし――」

 そこまで呟き、貴音は「不思議ですね」と続けた。響の隣に腰を降ろすと、周囲のソファを
見回す。他にも座り心地のいいソファがあるのに、犬はその古びたソファを選んでいたからだ。
「他のみんなは、困ってるみたいだけどな」と響が応えて、貴音は首を傾げる。

「このソファ、昔は美希の指定席だったんだってさ」

 美希が事務所にいたころの話だ。昔の765プロは貧乏事務所だった。事務所の移転を決めた時、
「ボロボロだった応接セットは全て買い換えよう」と高木社長は決めたのだが、その場にいた
全員が「新しい事務所に移転するにしても、このソファだけは持って行きたい」と高木社長に
掛け合ったのだ。
 それは、美希がいつも昼寝をしていた、モスグリーンのソファだった。

「事務所の場所が変わって、このソファまで無くなったら、
 美希が帰る場所が無くなっちゃいそうだから――って」

 美希は皆に愛されていたのですね、と貴音は言った。そうだな、と響も応じる。結果として、
応接室には新しい応接セットを入れ、古びたソファは、社内の休憩スペースに置かれることと
なった。

 主の帰りを待つソファは、いつもぽっかり空席になっていた。偶然誰かが座ろうとすると、
他のアイドルたちは懸命に遮った。ある人物の指定席だから、そこだけは空けておいてほしい。
座らないで欲しいと。そう言って、もっと座り心地の良いソファに案内した。

 その流れを途切れさせてしまったのが、この犬だった。周囲の制止も聞かず、犬はまるで、
美希の様にソファにごろりと横になるなり、あくびを一つこぼして眠ってしまったのだ。
 亜美が叱っても、真美が抱っこして移動させても、犬は、お気に入りのソファに戻ってきて
しまった。やがて事務所の皆が、この犬を「おにぎり」と呼ぶようになるまで、さほど時間は
必要としなかった。

「そういや、美希は大丈夫かなぁ」

 今「日本で最も有名なアイドルは」と聞かれたら、十中八九が『星井美希』と答えるだろう。
TVで星井美希が映らない日はないし、ラジオで美希の歌声を聞かない日もない。雑誌でも、
ネットのポータルサイトでも、大きく取り上げられる毎日だった。
 それは、プロジェクトフェアリーとしての広告宣伝費が、美希一人に集約された結果であり、
美希の知名度が、同世代のどのアイドルよりも高いことを示している。美希が、普通の量では
ない仕事のスケジュールをこなしていることも、二人の目には明白だった。

「美希、このままじゃ燃え尽きちゃいそうだよな」
「その程度なら仕方ない、とでも言いかねないのが、961プロの流儀ですからね」
「いっそ、美希が『アルティメイト』で負けちゃえばいいのか?」

 ピンときたと言わんばかりの表情で、響が言った。けれど貴音は、首を横に振る。

「黒井殿は、断じて敗北を許さぬ方。負ければ美希とて、961プロには居られないでしょう。
 ですが……だから765プロに戻って来れるかといえば、そうだとも言い切れません。
 もとより黒井殿にスカウトされただけの私達とは、いささか事情が異なりますゆえ」

 貴音の声に、響はため息をつく。なんとかしてやりたいよなあ。と呟いた響に対し、貴音は
未だ険しい表情を崩さぬまま、より真剣なまなざしで、危険な言葉を発した。

「黒井殿は、美希を――『苗床』にしようとお考えなのではないでしょうか」
「なえどこ……って、何?」
「美希を事実上のトップアイドルとして、961プロの広告塔にする事で、
 周囲からは『次世代の才を集めようとしている』と思われても、仕方がありません。
 黒井殿は、美希をこのまま使い切る所存なのではないか、と」

 貴音の言葉は難しかったが、響は理解にはげんだ。確認を取りながら、貴音が言わんとして
いることを、砕いて飲み込む。

 黒井社長は、美希を961プロの「看板」にしようとしていること。
 その看板は、大きければ大きいほど良く、名が知られるほど効果があること。
 看板がボロボロに古くなって壊れるまでは、ずっと飾りつづけようとしていること。

「でも……それ、あまり良いやり方じゃないよな? ファンも世間も、美希には飽きちゃうぞ?」

 961プロを出てきた響には、それが良くわかった。「使い捨て」という言葉が喉まで出かけて、
慌てて堪える。それでも貴音は、淡々と言葉を重ねた。

「『星井美希に憧れてアイドルになりたい』と思った者は、皆、961プロを目指します。
 黒井殿はその中から、己の眼鏡に適った者だけを取り込めば――」

 また、同じことの繰り返しです、と貴音は続けた。響が乱暴にうなる。むずかしい話は嫌い
だったが、何も出来ないのはもっともっと嫌いだった。唸りだした響を見て、眠っていた犬が
むくりと顔を起こす。貴音はちょっと申し訳なさそうな視線を犬に向け、静かに告げた。

「美希の進退は『アルティメイト・ムーン』次第です。
 良くも悪くも黒井殿は、決勝を終えた時点で、美希に決断を下してしまうのでしょうから」

 まあ、そうだよな。と響も納得した表情になり、貴音も頷いた。

「それに、律子も絶対負けないって言ってたし、なんくるないさー!」
「そうですね。彼女の言葉を信じて、待つことに致しましょう」

 やがて二人の会話は、次第に『アルティメイト・ムーン』から遠ざかっていった。



 あずさは溜め息をついた。なんだかとても重たい話を聞いてしまって、結局休憩室の中には
入れなかったのだ。961プロに移籍した美希が「トップアイドル」として華々しく活躍している
ことは、あずさにも解っていたが、それにしても過酷すぎる「アイドル」の現状には、言葉も
出てこない。

 あずさの口から漏れたふたつめの溜め息と、似通ったタイミングで、別の溜め息が聞こえた。
あずさが廊下を曲がった先には、少し困った様子の小鳥の姿があった。

「あら。小鳥さん、どうされましたか?」

 あずさの声に、小鳥は驚いた顔で振り返った。「実は、突然お客さまがお見えになられて」と
切り出した小鳥は、心なしか、どんよりとした表情をしている。

「社長にお茶をお出ししたいんですが、私が、一番苦手なお客さまなんです。
 『お茶は要らないよ』と仰ってもらえたんですが、なんだか心苦しくて」
「それなら、私がお茶を持っていきましょうか?」
「あずささんが?」
「お茶くらいなら、ご用意できますから。私にまかせてください」

 小鳥から礼を言われ、役目を頂戴したあずさは、慣れた手つきで茶盆に湯呑みを二つ用意すると
社長室に向かった。立派なドアをノックしようとしたところで、中の激しい声が廊下に漏れだす。

「調子に乗るなよ、高木。偶然が、三度も続くとは思っていないだろうな」
「珍しく気が合うな、黒井。その通りだ。三度続けば、もうそれは偶然とは言えまい」

 社長室の中では、二人の男が向かい合っていた。いつも温厚な高木社長の表情は険しく、男の
表情にも、どこか余裕が無かった。
 その空間を断つような形で、コンコンとノックの音が響き渡る。

「失礼します。お茶をお持ちしました〜」

 部屋のドアが開くと、高木社長は驚いたように顔を上げた。それがあずさだったと知ると、
どこかホッとしたような表情になり、再び目の前の男に視線を向ける。男は右手で額を押さえ、
のけぞりながら甲高い声で笑った。

「しかし、如月千早ならいざ知らず、あの事務員上がりを出場させるとはな!」

 事務員上がり。その乱暴な言葉に、湯呑みを置いていたあずさの手が、ピタリと止まった。
男はそれに気づいた様子もなく、高木社長への罵倒を止める気配もない。

「お前は『情』で動きすぎる。だから、才能の無い者を勘違いさせて、結果、絶望させるのだ」

 その言葉を耳にした高木社長の眉間に、深い皺が寄る。右手に固く拳をつくり、そして――

「あらあら。あんまり芸能界には、お詳しくないみたいですね」

 高木社長が口を開く前に、あずさが微笑んで言った。男は絶句して、あずさを振り返る。

「芸能界に……詳しくないだと? この私に、今、そう言ったのか!?」
「はい。そう言いました」

 あずさは、空になったお盆を両手で抱くようにしながら背を伸ばす。

「律子さんはとっても素敵なアイドルですよ。それをご存じないなんて、勉強不足です」

 間に立っていた高木社長は、目の前の展開を見届けるしかなかった。あずさはまっすぐ男の
目を見つめたまま、視線を逸らそうとしない。呆気に取られ、開いた口が塞がらなかった男は、
すぐさま、その表情を一変させた。

「……三浦あずさ、だな。知っているぞ。765プロの底辺アイドル風情が、言ってくれるものだ」

 男は立ち上がり、あずさの喉元に人差し指を突き付けると、まるで見下すようにして言った。
堪らなく面白い玩具を手にした子供のような目に、無邪気な残忍さを映し、男は笑いかける。

「ならばお前と私、どちらがより『無知』なものか、思い知らせてやろう。
 あの時、双海亜美がサインした契約書の内容を、よく読んでおく事だな。
 この私を真っ向から愚弄した、己の甚大なる愚かさを、せいぜい呪うがいい!」

 捨て台詞のような言葉を投げつけると、男は乱暴に部屋を出ていった。あずさはへなへなと
床に座り込む。慌てて高木社長が手を差し出すも、大丈夫です、とあずさは笑いかけた。

「突然のお客さん、って、あの方だったんですね。961プロの、黒井社長――」
「そうだ。美希君の身を預かり、律子君を小馬鹿にし、亜美君たちに、声をかけた男だ」

 単なる口約束だと思っていたが、厄介なことになっていたようだな。と、高木社長は続けた。
黒井社長に喧嘩を売られた亜美は、その勢いで『勝負に参加するための書状』に、一筆サイン
してしまったのだと言う。

「サイン……ですか? なにか、大事な約束でも?」

 あずさは高木社長を見上げる。口を閉ざした高木社長は、意を決すると、黒井社長がここに
置いていった紙きれを、あずさに差し出した。

「エントリーの契約書だ。亜美君がサインした現物の、コピーだと言っていた」

 高木社長の発言を受けて、あずさの視線が文書を辿っていく。『イヌ・アルティメイト』に
関する参加事例と、共済団体の名前などが並び、その最後に、読み捨てられない文を見つけた。
目を通したあずさが、驚いた表情で顔を上げる。

「……社長さん、これは……!?」
「うむ。亜美君は、黒井の言葉に乗って己を賭けたつもりのようだが、
 この『契約』ならば、黒井は765プロから誰でも一人引き抜ける。
 そして、今となっては――黒井の狙いは、ほぼ三浦君に確定しているはずだ」

 勝負に負ければ、誰かが961プロに移籍しなくてはならない。『イヌ・アルティメイト』から
伸びていたのは、不可視の鎖だった。765プロがその勝負に負けたとき、黒井社長は嬉々として
現れるだろう。そしてあずさに、その鎖を掛けるに違いなかった。

「このことは、私と君だけの秘密だ。亜美君たちに知れたら、より大事になってしまう」

 大丈夫だ。あの子たちが簡単に負けるものか。高木社長は断言する。君はうちのアイドルだ。
それにはあずさも応じずには居られなかった。ハッキリとした闘志を認識し、はいと頷く。

 けれど、黒井社長の発言に潜む『何か』が気になって、あずさは不安を隠しきれずにいた。
あずさを縛る不可視の鎖は、やがて地雷のような可能性へとすり替わった。不安を抱えたまま
社長室を退室したあずさは、懸命に気を取り直し、おにぎりを捜しに休憩室にむかった。



<3>

 事務所からバスで20分揺られた場所に、その森林公園はあった。おにぎりを走らせるために、
近くの公園では狭いと感じた亜美と真美が、小鳥に頼んで捜してもらったのだ。ちょっとした
グラウンド規模の広場があり、あずさたち同様、散歩にきた犬たちが駆け回っている。

 曇り空を天に広げた、土曜日の午後四時すぎ。園内には、さまざまな人が出入りしている。
陸上部のジャージを着て走りこむ、学生らしき集団。ベンチに集って談笑している老人たち。
あずさも何度かここを訪れているが、未だにどうしても道を覚えられていない。今日も雪歩と
亜美と真美に導かれ、いつもの場所にビニールシートを広げた。リードを外されたおにぎりが、
いつものように少しだけ戸惑った表情で、代わる代わる四人を見上げている。

「ほら、走っていいよ、おにぎり!」
「んっふっふ〜♪ 亜美と真美の全力ダッシュに、ついてこれるかなー?」

 勢いよく駆け出す双子を見て、おにぎりも後を追った。遠投されたボールのように、小さく
なったその背中に向けて、あずさが声をかける。
 
「亜美ちゃん、真美ちゃん。あんまり、遠くまで行っちゃ、駄目よー」

 はぁーい!と元気な声が返ってきて、あずさは満足そうに頷いた。シートに座った雪歩が、
いそいそと水筒を取り出している。穏やかな時間だった。公園の周囲を走っていく車の音も、
意識しないと忘れてしまうくらい、のどかな午後。雪歩から差し出されたお茶を、礼を言って
受け取ったあずさは、目の前に広がる景色を眺めていた。

「なんだか、事務所のいろんな忙しさを、忘れてしまいそうねぇ」

 あずさの言葉に、雪歩は素直に同意した。だだっ広い公園に、低ランクのアイドルが四人。
道行く人たちも、限りなく無名のあずさたちを、いちいち気に留めたりはしない。

 『アルティメイト・サン』や『アルティメイト・スター』で優勝を果たした、やよいや伊織
ならばまだしも、あずさを見てアイドルだと気づけるような人は、公園には誰も居なかった。
 それは「未だに底辺アイドル風情」なあずさを、ほんの少し気楽にさせ、ほんのちょっぴり、
寂しい気分にさせた。

「再来週の本番で負けたら、亜美ちゃん、引き抜かれるんですよね。私たち、勝てるかな……」

 おにぎりを遠くに見ながら、雪歩が呟く。あずさも視線を向けた。あの犬はずばぬけて足が
速いわけでも、得意な芸があるわけでもない。競争心がほとんど無い、マイペースな犬なのだ。

 「まて」も「ふせ」も「おて」も、揃って立ち上がってしまう。障害物競走なんだと称して、
いろいろ用意しても、くぐり抜けて欲しいネット内で絡まり、並べたポールを全て倒していく
ような犬だ。亜美と真美に叱られる犬を前にして、自分と似たダメっぷりを見せられた雪歩は、
まるで自分が叱られているような気分になるのだと言う。

 それを聞いたあずさは、最初から完璧に出来る子なんていないわ。と、穏やかに笑った。

「才能ってね、急かしても芽はでてこないの。きっと、ゆっくり育てるものなのよ」
「そう……でしょうか?」
「うふふ。私が頭ごなしに叱られるの、苦手なだけかもしれないわね〜」

 その発言に、雪歩はあずさを振り返る。あずさはお茶のコップを傍に置くと、脇に置かれた
紙袋を差し出した。その中には、おにぎりのためのゴムボールやフリスビーが入っている。
 雪歩は、何かを決意したような表情で紙袋を受け取ると、亜美と真美のいる方へ足を進めた。

 思いきって雪歩が声をかけると、改めて双子が背を正した。おにぎりもむくりと起きあがる。
びくびくしつつ、雪歩は袋の中身を手に取り、思いっきり空へと投げる。見事にへなちょこな
投球フォームは、亜美や真美がいる場所とは、あらぬ方向へとボールを飛ばした。
 わあわあ言いながら、亜美と真美とおにぎりが走っていく。拾いあげられたボールは、再び
宙を飛んだ。袋の中身が空っぽになるころには、雪歩の固い表情も、大分ほぐれ始めていた。

 輪に加わった雪歩を見届けていたあずさは、安堵の表情で、おにぎりと三人をながめていた。
時間は掛かるけれど、悪い方向に転んだりはしないだろう。あずさの中にある不安は、日に日に
大きくなっていたが、だからと言って、それをどうすることもできなかった。

 あれからあずさは、961プロのことを調べていた。黒井社長の言葉をそのまま鵜呑みにすれば、
才能を引き出してくれる、優れたアイドルになれる。それが961プロという芸能事務所だった。

(私に、アイドルの可能性なんてあるのかしら?)

 あずさは少し悩んだ。方向音痴、という自覚はあるが、ここに来て人生に迷ってしまいそう
だった。アイドルとして、あまりぱっとしない自分。競争心のない自分。とことんアイドルに
不向きな気分になってしまいそうになり、あわてて首を振って、その考えをかき消そうとする。
そこでふと、あずさは周囲の景色に違和感を覚えた。

 視線をぐるりと巡らせる。まばらな人影をぬけ、立ち並ぶ木々の間をぬけて、公園の外へ。
ハザードランプを点滅させて、立派な外車が停まっている。先程まであの場所に車はなかった。
車から10メートルと離れていない場所、柵の外側に、女の子が立っている。

 広場の様子をじっと見つめていた人物は、星井美希だった。



 美希を乗せて961プロに向かう車が、あずさたちのいる公園を通りすがったのは、偶然だった。

 見覚えのある双子が、フリスビーを投げあっている。それは風に流れ、雪歩の足元に落ちた。
雪歩は全力で逃げ出し、犬は全力でそれを追った。

 赤信号を待っていた間の出来事だった。あずさが皆になにか声を掛けている。事務所の皆と、
足元の犬がそれに反応する。美希にも、その声が聴こえた気がした。

 停めましょうか? 運転手が振り返らずに答える。

「……いいよ。ミキ、このあと事務所でレッスンだもん」

 美希のその言葉は、どこか諦めを含んだ口調だった。一日のスケジュールは細かく管理され、
違うことをする、と言う例外の発生は許されない。

 ひどい渋滞ですね。と、運転手が呟いた。通りに車の数は、たいして多くない。美希は一瞬
耳に何かが詰まったような顔をしてから、「ありがとなの、運転手さん」と言った。

 何を話すわけでもない。ただ美希は純粋に興味があった。美希がいなくなった後、皆は相当
ショックだったと聞いている。『アルティメイト・ムーン』の決勝戦を目前にして、掌を返す
つもりなど毛頭なかったが、こんなところで時間をつぶしている765プロのアイドルに、興味が
あったのだ。

 あずさを始め、いずれも『アイドルアルティメイト』にはエントリーしていない顔ぶれだ。
犬相手に遊んでいるのを見て、決勝の前座に黒井社長が用意した「犬レース」のことが美希の
頭をよぎる。もしそうだとしたら、本当に時間を無駄にしているとしか思えなかった。

 961プロが勝負事で手を抜くことなどはありえない。前座番組のために招集された犬たちは、
専属のトレーナーをつけられて、本番に備えたトレーニングをさせられている。それは美希も、
例外ではない。美希は今まで必死にレッスンしてきた。何日も何週間も耐えて我慢してきた。
だから美希は優勝して当然なのだ。美希の努力を上回るアイドルがいるなんて、考えられない。

「あずさおねえちゃーん! おにぎり、ちっともわかってくんないよー!」

 真美の大声に、あずさが美希から視線を外した。美希も犬に視線をやる。落ちこぼれな犬を
相手に、亜美たちが手を焼いているのが見えた。

 こんな公園でのお遊びが本番に通用するなんて、美希には全く思えなかった。犬種からして、
既に勝負はついているのだ。体格にしろ脚力にしろ、才能と血統までは、今更どうすることも
できない。
 美希は、あの犬を可哀想だと思った。「絶対負けるためのレース」に出場させられるなんて、
哀れな犬だ。けれど、美希の思考は、別の大声に邪魔されてしまった。

「うおおおお、おにぎりスゴッ! ねぇねぇ今の見た、真美!?」
「ボールごと地面で三回転でんぐり返りしたよ!? チョーカッコいー!」
「あらあら。おにぎりちゃんまで、転がりすぎてボールになっちゃわないかしら〜」

 犬はうす汚れていた。走り方だって必死で、キャッチすら出来ずに、無様に転んだだけだ。
それでもボールを持ってくると、うわあと大きな歓声があがった。「やるじゃん、おにぎり!」
「おにぎり、がんばったねー!」双子の間で、もみくちゃにされ、あずさから頭をなでられ、
ちょっと離れた場所から雪歩に拍手されて、犬は得意そうに啼いていた。

 それを見ていた美希は、何故かとても『カチン』ときた。

 美希はもっと早く走れる犬を知っているし、もっと賢い犬だって見ている。それでも簡単に
褒められたりはしない。あのダメ犬が皆から褒められているのは、美希にはなんだかおかしく
感じられた。

 961プロの中で厳しい特訓をしている犬たちを知らないから、あの犬は褒められているのだ。
あれくらいのことは偉いことじゃないのに、ましてや美希の100分の一の努力にも満たないのに、
みんなは全然わかってない。

 ざわつき始めた気持ちを押さえながら様子を伺っていると、美希の心情に同調したように、
ざわりと木々が揺れた。風は雨の匂いを運んできた。ぽつり、ぽつりと雨粒が地面を叩きだし、
みるみる色を染めていく。突然の夕立に、園内の誰もが慌てて避難を始めた。

「みんな。今日はもう、事務所に帰りましょう」

 雨雲に覆われ、空はどんどん暗くなっていた。雪歩が荷物を抱え、あずさが折りたたみ傘を
広げる。亜美はビニールシートを頭上から大きくかぶり、その中に犬を抱えた真美を入れて、
きゃあきゃあとはしゃいでいた。真美の腕の中で、犬が吠える。小雨の中、あずさが皆に声を
かけると、雪歩たちは一斉に駆け出した。

 傘も屋根も持ち合わせていない、低ランクアイドルの四人は、突然の雨から逃げだすように
撤収してしまった。あんなに濡れて帰ったら、事務所のドアをくぐった時に、きっと大目玉を
くらうに違いない。雑巾がけが待っているに違いない。それから。それから――

 美希も雨に濡れていたが、それはたいしたものではなかった。車内に戻りドアを閉めれば、
世界とは遮断された。遠くに雨音を聞きながら、美希は目を閉じる。
 美希の脳内に聴こえてきたのは、あずさの声でもなく、雪歩や亜美真美の返事でもなかった。
四人の声に混ざる、あの犬の声が、美希の脳内で、邪魔なノイズのように響いた。

 美希の耳の奥に残ったノイズは、事務所に戻ってからもしばらく消えることはなかった。



<4>

 美希が公園に立ち寄った日以来、961プロ内での美希の拘束は、更に厳しくなっていた。

「余計な遠回りは、トップへの遠回りに他ならないのだよ」という黒井社長の言葉とともに、
美希専属のSPが増えた。ほんの少し気が合った運転手を、あれきり美希は見ていない。

 無駄なものはことごとく除かれ、必要なものだけが与えられた。『アイドルの頂点に立つ』。
その一点のみに絞られたスケジュールだった。その中に、美希の意思は介在していない。

 皮肉なことに美希は、黒井社長が与えた課題をクリアできる、充分なポテンシャルを秘めて
いた。さらに黒井社長は、美希の才能を引き出す労力を惜しまなかった。だからこそ美希は、
決勝まで駒を進められたのだ。

 それでも黒井社長は油断しなかった。響は情に負け、貴音は人に負けたのだと語った。

「他の声に耳を傾けてはいけないよ。知らぬ連中の言葉など、全て余計なノイズだ。
 私以外の誰かの言葉に、美希ちゃんの才を伸ばせるものなど、有るはずがないのだから」

 あの二人の二の舞になってはいけないよ。そう強く諭されて、美希は頷いた。頷いていれば、
黒井社長はそれ以上なにも言わなかったからだ。美希からすれば、それが一番楽なことだった。

 今日の仕事は、『アルティメイト・ムーン』の決勝戦の会場と、同じスタジオでの歌収録だ。
何事もなく時間が過ぎれば、この場所で来週、美希は栄冠を賭けて、マイクを取ることになる。

 すでにリハーサルを数本終えた美希は、控え室のモニターで、スタジオの様子を見ていた。
映像はときおり、別のフロアの様子に切り替えられる。見覚えのないセットが映り込んだとき、
一瞬だけ美希は首を傾げたが、それもすぐに「前座」のものだと知れた。事務所の黒井社長が、
リハーサルに犬を何頭も送りだしていたのを、見かけていたからだ。

 美希の耳の奥に、ノイズがちらついた。大したこともしていないのに、褒められていた犬。
うれしそうに賞賛の声をもらっていた犬。ちりちりとした苛立ちは、美希の心を軽く焦がした。
美希は軽く頭を振ると、外の空気に触れたくなって扉を開いた。ノイズはそこに転がっていた。

 わん、と声がして、あの時の犬がいた。美希はたっぷり五秒固まり、がばっと膝をつく。

「え!? ええ!? なんでココにいるの!? なにしてんの、キミ!?」

 美希の質問にも、犬は聴く耳などもたない。わふぅ。と言わんばかりの大あくびを見せて、
美希の目の前を通り過ぎると、控え室に置かれたソファに、ごろりと寝ころがってしまった。
なんとかなりますよ。と言われた気分になった美希は、ちょっとむっとした顔になる。

「ミキはね、キミよりエライの。一人でなんでもできるの。ミキはカンペキなんだからね」

 ちりちりした苛立ちは、心臓の端を炎で炙られるような気持ちにさせた。美希は続ける。

「ミキの方がエライってことはね、ミキの方がずっと褒められるってことなんだよ。
 ミキが前の事務所にいないから、みんなは、そこんトコわかってないだけなんだから」

 ふふん。と美希は得意そうに腕を組んでみせる。それでも犬はまた、あくびをした。美希の
顔をじっと見上げて、もっと他の何かを、ねだっているようにも見える。

「……み、ミキは褒めないよ」

 絶対褒めたくない。美希は思った。この子はずるい。とてもずるい。そう思えば思うほど、
炎は沈静化してしまう。美希の熱くなった心は、炭のように静かになってしまう。

「ね。キミなんでここにいるの? 犬レースのリハ見にきたなら、フロア違うんじゃないの?」

 ふと浮かび上がった、美希の素朴な疑問に対し、犬は初めて扉のほうを向いた。

 「おにぎりちゃーん」と、あずさの声が遥か遠くに聴こえて、美希はうろたえた。この犬は、
捜されているのだ。ここにいたら、犬と一緒に美希まで見つかってしまう。今のタイミングで
あずさに会うのは、嬉しいことではなかった。今の美希の立場が、それを良しとはしない。
 美希は犬を抱えると、控え室から飛び出した。まだ廊下に人影はなかった。自販機前に犬を
降ろし、自分も膝をつく。犬は美希をまっすぐに見上げている。

「ここにいれば大丈夫だからね。『まて』だよ。……いい?」

 犬の頭上に掌をかざし、美希は強めに言い聞かせた。犬は美希を見つめたまま、おとなしく
座っている。あずさの声が聞こえて、美希は通路の曲がり角へと身をひそめた。

「あ。こんなところに居たのね。良かった、迷子になっていなくて」

 頭をなでられながら、犬はまだ律儀にそこに座りつづけている。不思議そうな顔をしていた
あずさだったが、やがて犬を抱き上げると、もときた道を戻っていった。あずさの肩越しに、
曲がり角の方角を、犬はじっと見ている。その視線の先に、こちらを見つめる美希がいた。

 わん。と犬が啼いて、あずさがよしよしと背を撫でる。曲がり角の奥で、美希が、わん。と
啼いた。あの犬にはあずさが来たが、美希には誰もこなかった。
 美希の遠吠えは、頼りなく空中に浮かんでいって、誰にも届くことなく、宙にかき消えた。

 美希の耳の奥に残っていたノイズは去って、違うノイズが、美希の心臓のあたりに残った。
それきり美希は、二度とそちらを覗こうとはしなかった。



 この日あずさは、雪歩や亜美たちと一緒に、『イヌ・アルティメイト』のリハーサル会場を
訪れていた。広いスタジオには、ちょっとしたドッグランスペースがあり、亜美たちはそこで
本番の説明を受けている。普段大きなスタジオで歌を披露することがないので、真美はずっと
ステージの広さに興奮していた。

「おにぎり、すごいねー。真美たちより、ずーっと上のアイドルみたい!」

 少し離れたところで、あずさの傍で大人しくしていたおにぎりだったが、試しに少し走って
みませんかと声をかけられ、あずさが席を立とうとした途端、おにぎりはあずさの膝から逃げ
出してしまった。焦る真美をその場にとどめ、あずさはスタジオ内で、おにぎりを追いかける
羽目になったのだ。
 散々さがした挙句、おにぎりは自販機前にちょこんと座って、保護者のあずさを待っていた。

「突然引っ張られて、リードから手を離してしまったわ。ごめんなさいね」

 開口一番、あずさはそう謝った。逃げもせず、吠えもせず、おにぎりは黙ってあずさの背中
越しの景色を見ている。元のスタジオに戻りながら、通路には他に誰もいないのを良いことに、
あずさは一人、おにぎりに語りかける。

「……私、本当にダメなアイドルね。一人じゃ、どこにも進めないみたい」

 それまで大人しくしていたおにぎりが、あずさの顔を覗き込んだ。あずさは未だ前を向いた
まま、ゆっくり語り続ける。
 デビューしてからの日々。勝負事に向かない気質のこと。亜美真美や雪歩に頼られて、今は
毎日とても嬉しいこと。思った以上に自分は、裏方の方が向いているんじゃないかということ。

 ――自分の意思で道を選べないアイドルは、一生トップアイドルになんて、なれないんだわ。

 あずさはそう思ったが、脳裏に黒井社長の顔が浮かんで、口に出すのは止めた。代わりに、
自分をここまで連れだした、おにぎりの背を軽く叩いて、困ったような顔で笑う。

「誰かに引っ張られないと、前に進めないのよ。同じところを、延々ぐるぐる回ってばかりで」

 だから、あなたが居てくれて助かったわ。と、あずさは礼を言った。おにぎりは、あずさの
肩越しに、なにかを捜していたが、通路にも、曲がり角の向こうにも、人影は見えなかった。
あずさの肩を乗り越えて降りようとするおにぎりに対し、あずさは軽くリードを引いて制する。
めっ、と言われたおにぎりは、それきり静かになった。

「私を引っ張ってくれる、『運命の人』は、どこにいるのかしら?」

 あずさの問いかけにも、おにぎりは黙って曲がり角の方向を見ていた。瞬きをしなければ、
探し人が出てくると言わんばかりに、おにぎりは、いつまでも廊下の果てを凝視していた。



<5>

 とうとう『アルティメイト・ムーン』決勝の日がやってきた。決勝に駒を進めたアイドルは
六人。しかし、世間の注目の大半は、一人のアイドルに注がれていた。
 961プロ所属、“ラスト・フェアリー”星井美希――。

 『アルティメイト・ムーン』は美希の為に作られたステージであり、それを取り巻く全ては
美希の輝きを引き立てる装飾品の一つにすぎない。それが『空気』であり『流れ』だった。

 その大きな流れの中に、亜美と雪歩、そしてあずさと真美も呑み込まれていた。

「がんばれー! 亜美ー!」

 あずさの隣で真美が叫んだ。まさに961プロダクションの演出、ともいえる場内アナウンスに
より、600人を越える観客の熱気は、最高潮へと達している。その結果、限りなく無名に近い、
低ランクアイドルのあずさや真美の存在が注目されることは無く、結果、二人は応援に全力を
そそぐことができた。

 『イヌ・アルティメイト』もまた『アイドル・アルティメイト』と同じ審査形式をとられて
いる。さまざまな芸能事務所から参加してきた、六頭の犬達に対して、三つのステージが用意
されており、三人の審査員が星を与えていくスタイルだ。一つのステージあたり、最高10個の
星を獲得することができ、三ステージをフルマークで完走できた場合、星を30個獲得できる。



 最初の『ビジュアル・ステージ』は、外見と行動の可愛らしさ、美しさの審査だった。
 おにぎりはまだ仔犬という事もあり、プードル種特有のモコモコとした毛並みと相まって、
ボールにじゃれ付き一緒に転がってみせる事で、審査員のハートを一気に鷲掴みにしていた。
ビジュアル審査員から星を五つ、ダンス審査員から三つ、ボーカル審査員から二つを獲得して、
フルマークでの暫定一位。ぱっとしない前評判を覆した予想外の健闘に、あずさや真美ならず
会場からも大きな歓声が挙がった。

「いい感じ。次は『ボーカル・ステージ』って言ってたわね」
「そうだよ。亜美が出す指示通りに、おにぎりが動いてくれればいいの。
 『ダンス・ステージ』は障害物競走だから、ゆきぴょんでもスタートはさせられると思うよ」
「あっ、亜美ちゃんたちだわ!」

 照明が花道に光のウェーブを作る中、亜美とおにぎりが颯爽と登場する。亜美が選んだ音楽、
『mexican flyer』の盛り上がりと共に、亜美が「声」でおにぎりに指示を出していく。亜美は、
ちらと他の犬たちに視線をやったが、犬たちの目は、感情の無いぬいぐるみのように見えた。

(……変なの。なんか、犬っぽくないよね?)

 今までおにぎりと一緒に過ごしてきた亜美は、おにぎりの気持ちは、目を見ればなんとなく
分かる。だが、961プロの犬は無表情で、そこに潜む気持ちは全く見えなかった。どこか怖さを
覚えた亜美は、観客席の真美の声に乗せる形で、懸命に指示を出していく。

「いけいけ亜美ー! 『アップ』! 『アップ』! 『アップ』『ダウン』!!」

 亜美と観客席の真美の声が綺麗にシンクロする。その声に合わせ、おにぎりが動き、吠える。
あずさには、その姿が「飼い主と飼い犬」ではなく、歳の近い兄弟のように見えていた。

 「命令」に近い、犬への指示の出し方は、あずさもあまり詳しくなかった。本を読んだり、
調べた知識を、亜美や真美に教えるくらいしかできなかったが、双子はちょっと考えたあと、
顔を見合わせて、あずさにこう尋ねたのだ。

『んー、それってつまり、「ゲーム」みたいなカンジでいいのかな?』
『そんなカンジだよね! 真美たちが「おにぎりを操作」すればいいんだよ!』

 それは犬に対する「命令」でも「掌握」でもなかった。亜美と真美にとっては、おにぎりを
巻き込んだ「楽しい遊び」が、そのまま「ゲームの世界」として映ったようだ。
 二人の目には、事務所や公園はゲームのステージに見え、おにぎりを連れ出しては、そこで
プレイヤーキャラを「思い通りに動かす」ことを楽しんでいた。

 どんな場所も、自分たちの遊び場にし、どんな相手も、自分たちの遊び相手に変えてしまう。
それが、アイドル双海亜美の類を見ない才能だった。あずさにはない、「世界を全て巻き込む」
タイプの、大きな強みであり、武器だった。
 いつも場の雰囲気や相手の視線に押されがちなあずさにとっては、それは本当に、魅力的な
部分だった。キラキラと映る亜美を見て、あずさは素直に、隣の真美に感想を告げる。

「すごいわね、亜美ちゃん。なんだかとっても楽しそう」
「うん。……でも、楽しいだけじゃないよ。亜美、チョー必死なんだよ。
 『961プロになんて行きたくない』って、ガッコ行く前に泣いたりしたし」

 そう答える真美の顔も、すこし何かを含んだ表情だった。あずさは、そんな真美に気づいて、
真美の手をそっと握る。それで真美は、今まで我慢していた不安を、あずさに打ち明けた。

「真美も、亜美が961プロに行くのはヤダよ。だってそしたら、亜美はどうなっちゃうの?
 『リトル・スノウ』は? ゆきぴょんも、引退しちゃうの?」
「真美ちゃん……」
「961プロ、良くないトコだって、みんな言ってるよ。あんなトコに閉じ込められたくない」

 それは一般的な認識ではない、アイドルとしての直感だった。961プロを出てきた響や貴音と、
言葉を交わして、765プロとは違う雰囲気を、真美は幼いながらに感じとってしまったのだろう。
輝かしいだけではない、アイドルを「人」として扱わない、非情過ぎる事務所のことを。

 曲が終わる。審査結果は、星五つを獲得しての三位。亜美の指示も、それを聞くおにぎりの
動きにも間違いは無かったが、徹底的に調教された犬たちには、わずかに及ばなかった。

 二戦を終え、『ビジュアル・ステージ』で一位を取った犬も、星の獲得は八つ、二位の犬は
星七つ。なかなかに星が割れた格好だ。勝負は、最終ステージへと持ち越されることになった。

「大丈夫よ、真美ちゃん」
「なにが? まだ最後のレースもあるし、絶対に大丈夫じゃないよ?」
「そうじゃないの。……亜美ちゃんが、961プロに行くことはないのよ。絶対に。
 ずっと黙っていたけれど、かえって、真美ちゃんを不安にさせてしまったわね。
 真美ちゃん、ごめんなさい。本当は、私――」

 ヒートアップを続ける会場の熱気とは反して、あずさの独白を聞いた真美の頭は、一転して
キンキンに冷えきった。あずさが「大丈夫」と言わなければ、頭が真っ白になっていただろう。
 真美は何も言わなくなった代わりに、先程よりもずっと強く、あずさの手を握り返した。



 ステージ上の二人は、あずさの独白を未だ知らない。

 最終種目の『ダンス・ステージ』は、長距離を走る、障害物レースだ。観客席の動揺を未だ
耳にしていない雪歩は、スタート地点に向かうべく、待機中のおにぎりに声をかけていた。

「お、おにぎりちゃん、行こう。あっちだから、ね?」

 控え室の床に伏せ、あくびをしているおにぎりの機嫌をとるように声をかけ、必死になって
誘導しようとする。
 亜美の「大丈夫?」という問いに対し「これくらい出来なきゃレースに勝てないから」と、
応えたのは本心だ。そして、そろそろ言う事を聞いてくれるはずだ、という想いはあった。

 だがそれは、とんだ間違いだった。いっそ抱いて連れて行けば良いのだけれど、触るのは、
雪歩にはやっぱり無理だった。なんとか近付くと、視線を合わせて懇願する。

「お、お願い。おにぎりちゃんが走ってくれないと、亜美ちゃんが……」

 雪歩の言葉がどんどん小さくなっていく。勝負に負け、亜美が961プロに移籍してしまえば、
『リトル・スノウ』は事実上の活動停止だ。亜美が移籍したからといって「双子でした」と、
双海真美を引っ張り出す訳にはいかない。なにより、亜美と真美をバラバラにさせる未来自体、
雪歩は想像すらしたくなかった。

「おにぎりちゃん……」

 雪歩の声は不安混じりだった。その目には、うっすら涙が浮かんでいる。けれどおにぎりは
片目を開けて雪歩の顔を見ては、わふぅ。とあくびをしてその場に伏せてしまう。

 その仕草が、雪歩の焦りと不安に火を付けた。雪歩は両手を強く握りしめて叫ぶ。

「お――おにぎりちゃん、頑張ってよ! 亜美ちゃんを961プロに行かせちゃダメなんだから!
 亜美ちゃんだけじゃない! 取り返さなきゃいけないんだから、“美希ちゃん”だって――」

 その瞬間、おにぎりが顔を上げた。一瞬ビクッと凍りついた雪歩の顔を見て、力強く一啼き
する。驚いた雪歩だったが、すぐに、ぱっと顔を明るくした。

「わ、わかってくれたんだね!? おにぎりちゃん!」

 雪歩がリードを拾い上げようとしたその時、おにぎりが駆け出した。雪歩の手からリードが
するりと抜ける。おにぎりは、すごい勢いで控え室の入り口を飛び出し、廊下の彼方へと走り
去ってしまった。

「……え? ええーっ!?」

 雪歩は呆気にとられ立ち尽くしていたが、慌てて廊下に飛び出した。おにぎりの姿は、どこ
にもない。パニックで真っ白になりかけた雪歩の頭に飛び込んできたのは、真美の声だった。

「おーい、ゆきぴょーん! そろそろ時間だよー! おにぎりはー?」
「ま……真美ちゃーん! あずささーん!」

 あんまり雪歩が遅いので、心配した真美とあずさは、雪歩の様子を見にきたのだ。その場で
泣きだした雪歩を見て、二人はおおよその状況を理解した。一体何が起きたのか、問いかける
あずさに対し、雪歩はことの次第を説明する。
 泣きじゃくる雪歩の背を撫で、あずさは「大丈夫よ」「おにぎりちゃんは戻ってくるわ」と
繰り返した。そして時計を確認すると、二人に向かって口を開いた。

「真美ちゃんは、観客席に戻ってちょうだい。おにぎりちゃんが来たら、捕まえてほしいの」
「うん!」
「雪歩ちゃんは、亜美ちゃんと合流しましょう。出演者さんたちの中にいるかもしれないわ」
「あ、あずささんは……?」
「事情を話して、スタートの時間を遅らせてもらえないかどうか、相談に行こうと思うの」

 大丈夫よ、と、あずさは繰り返した。『あの人』は、多分、聞いてくれると思うわ。

 そう言ったあずさは、どこか一瞬だけ、内に秘めた意志を見せた。それを目にした雪歩が、
反射的に、「本当に大丈夫ですか」と口にしてしまう。言葉にしてハッとなったが、あずさは
それすらも、大丈夫だから、と笑って返した。

「私はこれから、私ができる、精一杯のことをするわ。
 だから、雪歩ちゃんも、雪歩ちゃんが出来ることを、精一杯頑張って欲しいの」

 雪歩は不安に満ちていたが、目の前のあずさを信じようと思った。おっとりしているけれど、
あずさの芯は強く、決して諦めない。そばにいてくれるだけで、安心できる。あずさが後ろに
いてくれると思うだけで、自分は、迷わずに全力を出せる。

「じゃ、私は行くわね。雪歩ちゃん。頑張って」
「――はいっ!」

 あずさのように自分もなりたい。雪歩はそう思った。亜美と真美の「支え」になりたいと、
強く思っていた。そう思った雪歩の中から、既に身体の震えは消え失せていた。



<6>

 テレビ局内の楽屋で、美希はだらしなく寝そべっていた。ずっと消えない小さなノイズが、
次第にそのボリュームを大きくしていく。

 「おにぎり」と名付けられたあのダメ犬は、なぜずっと自分の方を見続けていたのか。その
答えが出せぬままに美希は、楽屋で『アルティメイト・ムーン』の決勝を前にしていた。

「……そっか。『おにぎり』か」

 あの日、廊下の向こうからよく通る、あずさの落ち着いた声は、確かにそう言っていた。

 移動中の車を停め、たまたま出くわしたあずさたちと一緒にいたあの犬。のたのた走っては
無様に転び、泥だらけになっても褒められるダメ犬。恐らく誰かが気を抜いた瞬間に飛び出し、
局内を我が物顔で走り回っていたであろう、言うことを聞かない、どこまでも自由な犬。

 その犬の名がなぜ「おにぎり」だったのか、美希には少しだけ見当が付き始めていた。

 不意にソファから体を起こす。担当するディレクターは、まだ来そうにない。十分な午睡の
時間を与えられていながら、美希は体を起こすことを選んだ。

 あずさの肩越しに、ずっと自分を見ていた犬の無垢な視線が、脳裏に焼き付いて離れない。
 視線は単に美希を見ていた、本当に、それだけのものだったのだろうか? 物珍しかった、
それだけの理由かも知れない。何せ見てきた通りのダメ犬だ。961プロが連れてきた、優れた
犬たちに比べたら――。

「……そうじゃ、ないよね」

 広いだけの楽屋に、美希の独り言が小さく響く。 美希の心の中に巣食ったノイズの正体は、
「里心」だった。
 あの犬には、765プロの中に居場所がある。どんなにダメでも、間抜けでも、芸がひとつも
出来なくても、犬には居場所があった。それは取りも直さず、かつての美希の居場所だった。
自分の居場所だったポジションに、あの犬が存在していることに、もう美希は気付いていた。
だから、「おにぎり」なんだ、ということにも。

「どうして……こうなっちゃったんだろ?」

 「里心」と言う名のノイズは、やがて美希の心の中に小さく鳴りを潜めていた様々なモノと
共鳴を始める。それは「猜疑心」だった。

 確かに黒井社長は「有能」であるかも知れない。トップアイドルを作り、大々的に売り出し、
世間の関心を一気に集めてしまうその手法は、強引で敵をつくりやすいかも知れない。けれど、
最も効率的でわかりやすい方法論を提示している。

 いつまでも765プロの中で、高木社長の下でくすぶっていることに比べれば、華やかな舞台に
立つこともできたし、仕事もいっぱい増えた。今や国内で「星井美希」を知らない者は、ごく
ごく限られた世界の住人以外に考えられないほど、美希の歌声と容姿は日本を席巻することと
なったのだから。

 その分、代償も大きかった。「プロジェクト・フェアリー」として大々的に売り出されたが、
響はやよいに、貴音は伊織に敗れ、961プロを放逐された。そこには微塵の慈悲もなく、一つの
失敗さえ許さない、黒井社長の強硬な姿勢だけがクローズアップされている。
 響が去り、貴音が去ってなお、美希は961プロを離れなかった。黒井社長は以前にも増して
美希を虎の子のように重用する。

「でも、ミキでなくても良いんだよね、結局……」

 不意に口から零れた言葉を、美希は拾うこともできなかった。「星井美希」である必然性は、
どこにも存在しなかったのだ。

 黒井社長は、決して美希を褒めることはしなかった。ひとつの目標を超えたら、次の新しい
目標をぶら下げられるだけだった。それは、優秀なレース馬にも似ていた。常に背中を叩かれ
ながら疾駆する、闇雲に走るだけの経済動物――。

 更に考えれば、これで仮に『アルティメイト・ムーン』で律子に敗れるようなことになれば、
自分だって961プロを追われるだろう。そこまで思い至り、美希の手は小刻みに震えた。

 あの犬に出会わなければ。あの日、森林公園であずさたちが犬と戯れる様子さえ見なければ。
こんな感情に苛まれることはなかったと、美希は頭を振った。何かに取り憑かれたものを振り
払うように、美希は激しく頭を左右に振るう。そのたびに、自慢のブロンドヘアが舞い上がり、
ばさっ、と音を立てる。

 ――こつん。

 不意に扉のほうから物音がして、美希はまるで見えない何かに怯えるように、音のした方に
視線を向けた。しかしドアが開く様子はない。誰かが訪ねてきたわけでは、なさそうだった。
 だが、美希にはそれが単なる気のせいには、感じられなかった。内側の保安ロックを外して、
ドアノブを押し下げる。その行程さえもどかしいと言わんばかりに、美希は楽屋の扉を手前に
勢い良く引っぱった。

「わんっ」

 あの日、局の廊下で出会った時と同じ瞳をした犬が、そこにいた。

「えっ!?……な、なんで、またキミ……なの?」

 美希の瞳が見開かれる。犬は何事も無かったかのように、くぅん、と小さく啼く。決勝戦を
前にして、既に本番用の衣装を着ているにも関わらず、美希は、犬を抱きかかえた。

「どうして……どうしてキミはいつも、ミキのことを見ているの?」

 美希は、タレントクローク前のスペースに掛かっていた、収録番組の一覧を思い出していた。
決勝戦の前座、『イヌ・アルティメイト』の収録は、『アルティメイト・ムーン』の二時間前
からだった。すなわちこの犬は、またしても、堂々と脱走を果たしたと言うことになる。

「……ミキ、そんなに心配そうに見える? これでも一応、トップアイドルなんだけど」

 トップアイドル。その言葉が、美希の中で空しく響いた。まわりに誰もいない、孤独な王様。
それのどこが、素晴らしいことなんだろう。誰からも本音で応じられず、ひとりぼっちで膝を
抱える美希のもとを訪れたのは、それこそ、目の前の犬くらいのものだった。

 わん。と犬は美希を呼んだ。美希が静かに、犬を廊下に下ろす。

「……ミキはね、まだ行けないんだ。決勝戦もあるし、まだ、帰れないよ。
 でもキミは帰らなきゃ。キミの居場所は、ここじゃないから――」

 心の中に広がるノイズは、やがて正しい信号となって、新しい像を結んだ。

「――行こ、おにぎり!」

 控え室に背を向けた美希は、おにぎりを連れ立ってその場所から逃げ出した。
 金髪とダメ犬の不可思議なデュオユニットが、息を揃えて廊下を疾走していく。



 長い四肢を存分に曲げ伸ばし、美希が通路を走っていた。スケジュール違反をものともせず、
足元を疾駆していく、おにぎりにも引けを取らない早さで。

 確かに黒井社長は、美希をトップアイドルへと導いた。約束された成功は、あともう少しで
その手の中に収まるはずだった。
 ……違う。そうじゃないの。美希が心で反芻を繰り返す。それは「美希の成功」ではなく、
煎じ詰めれば「黒井社長の成功譚」として、後世に語り継がれるものだったのだ。

 今まで、人を疑ったりすることを、美希は嫌っていた。うっとうしいと思うことはあっても、
それを真っ向から拒絶するのがイヤだったからだ。そう思うからこそ、美希は誰を疑うことも
しなかった。結果的にそれが、今の美希を縛りつける鎖となった。

「おにぎり、ここ右っ!!」
「わふっ!」

 おにぎりは軽快に走っていく。その隣に美希が並んだ。うっすら汗ばんでいた美希の額から、
きらきらと輝く汗が流れ、局の廊下を照らす淡い照明に反射して、廊下に爆ぜた。

 黒井社長は確かに、美希を導いたのかも知れない。けれどそれは、意図的に作られた道のり
だった。高い壁によって、左右を塞がれた一本道へと美希をおびきだし、進退窮まった状態を
作り出した。前にしか進むことのできないその道を、他に何も見えない道を、ただひたすらに、
休むこと無く歩かされただけだった。

 そこには眩しい太陽の光も差さなければ、星の穏やかな明かりを見ることもない。

 ――当然、月だって輝いたりしない。

「階段、降りるよっ!!」
「わわんっ!」

 美希の足は、二段飛ばしで階段のステップを飛んだ。おにぎりも大きくジャンプし、階段の
踊り場でカーブを決める。
 美希とおにぎりは、軽快に局舎を駆け抜けた。息が切れる。汗が止まらない。メイクさんに
怒られる。いや、それ以前にもっと怒るだろう相手が、確実に一人いる。

「……そんなの構わない!」

 黒井社長の幻想を振り切るように、美希はありったけの声で叫んだ。

 おにぎりは来てくれた。美希に教えてくれた。美希はひとりじゃないことを教えてくれた。
だから美希は、おにぎりを帰してやろうと思った。美希とは違って「帰る場所」が残っている
おにぎりを、皆のもとに帰してやりたかった。

 あの日、己を呼ぶ声に、おにぎりは啼いて答えた。美希は、自分が「わん」と啼いたことを
思い出していた。おにぎりには、あずさが来て、美希の隣には、誰も居なかった。

 ――誰も、美希の隣になんて、来てくれなかった。

「……そうじゃないんだってばっ!!」

 誰に向かって叫ぶでもなく、美希は己の感情を爆発させながら駆け続けた。おにぎりには、
帰る場所がある。まだ、迎えにくる仲間がいる。ならば、おにぎりは帰らなくてはいけない。

「みんな、きっと待ってるんだから! そうだよね、おにぎり!?」
「わんっ!!」

 やがて目の前に、「Fスタジオ」と書かれた、案内看板が見えた。こっち! 美希が叫ぶ。
鋭い入射角で体を傾け、スピードを殺さずに廊下を曲がろうとした瞬間だった。

 美希の足首が、鈍い音と共にねじれて、激痛がはしった。流れる世界が一瞬全てスローに
なって、大きくバランスを失った美希は、勢いよく廊下の床に転がった。

「……痛っ……!」

 Fスタジオへは、まだ少し距離がある。ひねった右足首は、すぐに痛みを収めてくれるほど、
美希の味方をしてはくれなかった。あと少しなのに。もう少しなのに。美希は歯噛みする。

 不様に廊下に倒れた美希のそばに、おにぎりがちょこちょこと歩み寄った。美希の鼻っ面を
舐め上げ、美希が驚いたような声をあげる。おにぎりが小さく啼いた。
 目の前にいる、おにぎりの視線は少し切なげで、美希を「心配」しているようにも映った。
痛みを無視して、美希はわずかな微笑みを浮かべて応じる。

「だいじょうぶ……だいじょうぶだから……っ!」

 筋肉の疲労に加え、ひねった右の足首が痛む。体中が悲鳴を上げている。それでも、美希は
脂汗を流しながら立ち上がった。行かなくちゃ。おにぎりを連れて行かなくちゃ。そう思って
立ち上がった美希の視界で、おにぎりが突然吠えたてた。

「わんっ! わわわわんっ!!」
「どうしたの、おにぎり? 何かあったの?」

 美希は視線を向ける。聞き覚えのある声が、遠くから、こちらに近づいてくるのがわかった。

「……ちゃーん! おにぎりちゃーん!!」

 あずさの声だった。おにぎりを捜してここまで来たのだ。足首を引きずりつつ、美希は声の
するほうへと足を向ける。ヤだな、と少し思った。
 確実に今の状態なら、美希はあずさと鉢合わせすることになる。先日は体良く顔を合わせる
ことはなかったけれど、今日はそうも行かないだろう。

 今はまだ、逢いたくない。それが正直な美希の心境だった。もう髪だってぐしゃぐしゃだし、
メイクも崩れている。大事な決勝戦前からそんな状態で、かつての仲間と逢うことに、美希は
少しばかりの、ためらいを感じていた。

「おにぎりちゃん、どこ〜?」

 ああ、あずさは、昔と全然変わってない。美希は内心そう思ってから、すぐに打ち消した。
変わらないものなんか、ない。あずさだって、自分が知らないところでいろんな体験をして、
変わっているに違いなかった。
 未だにFランクで、レギュラーと言えば、お色気要員っぽい深夜番組くらいしか仕事のない
あずさでも、それは「三浦あずさ」を評価する軸になどはならないことを、美希は、理屈より
感情で知っていた。大きく息を吸って、懸命に叫ぶ。

「あずさー!! こっちー!!」
「……えっ、み、美希ちゃん!? どこにいるの!?」
「Fスタの、前の廊下! 今行くよ! おにぎりも一緒だよっ!!」

 あずさのいる場所に見当がついた美希が、懸命に足を引き摺りながら向かって行く。それに
呼応するように、もう一つの足音が、美希のいる方へと近づいてくるのがわかった。
 廊下の向こうに、あの日のままのあずさが佇んでいるのを、美希はしっかりと視界に入れた。

「……美希ちゃん」
「……あずさ。久しぶり……なの」

 ――よかったね、おにぎり。キミの「帰る場所」が、迎えに来たよ。

 安堵と悔恨をないまぜにして、目尻から涙を零しながら、美希は笑ってみせた。



<7>

 20分後、無事におにぎりを連れ戻してきたあずさを、亜美と雪歩は、歓声をあげて迎えた。

 『競技を前に、臆病なダメ犬が一頭逃走してしまったので、開始まで多少の時間をとる』と、
いう旨のアナウンスが、いかにも得意そうな黒井社長の声で流れてきたことで、亜美と雪歩は、
あずさが上手くやってくれたことを悟った。
 そして最終競技を控えたステージ裏で、二人は祈るような気持ちで、おにぎりを待っていた
のだ。もし見つからなければ棄権になるところだったと、雪歩が胸を撫でおろしながら呟く。

「もし不戦敗になったら、あずささんが大変なことになっていたんですよね……」

 予想外な雪歩の一言に、あずさは目を見張った。おにぎりを抱えた亜美も、真剣な顔をして
いる。それを見て、あずさは、真美が「真実」を告げたことを悟った。

「……どうして、黙ってたんですか?」

 雪歩の目は、まっすぐにあずさを捉えていた。黒井社長の「陰謀」の始終を知った雪歩が、
あずさから聞き出したかったことは、一つだけだ。本当のことを三人に隠していたあずさは、
まっすぐ雪歩を見られず、視線を遠くに向けた。

「私たちが――おにぎりちゃんが勝ったとしても。私たちには、何も得るものがないんです。
 そんなバランスの悪い賭けに、私たちを駒として使うことが……私には、許せない」

 静かな熱をたたえ、雪歩が言葉を繋げる。その近くで亜美とおにぎりは、最後の確認作業を
していた。『イヌ・アルティメイト』の最終競技、『ダンス・ステージ』は、障害物レースだ。
ゴール順位、障害クリア率、トレーナーに対する従順さが、採点要素となる。
 おにぎりを連れた亜美が、念入りにコースの最終確認をしている。その姿を遠目に見ながら、
雪歩はきっぱりと断じた。

「……亜美ちゃんだからとか、あずささんだからとか、そういうことじゃないんです。
 私たちは、私たちが揃っていることに意味が有る、って。
 それが私たち『リトル・スノウ』である理由なんだ、って。
 誰一人、欠けちゃいけないって、私たち、知ってるはずじゃないですか」

 雪歩の言わんとしているところを汲み取ったあずさは、笑顔で雪歩を見た。おにぎりと言う
名前に託した、少女への思い。けして欠かしてはならぬ存在が、容易く奪われたときの失意。
そんなのは、もう嫌だった。あずさは雪歩に見えない場所で、軽く拳を握った。

「オッケー! 準備バンタンだよ、ゆきぴょん!」

 亜美がおにぎりを抱えて、スタート地点まで駆け戻って来た。これから亜美はゴール地点で
待ち受け、雪歩はコース外から指示を出し、おにぎりを送り届けなくてはならない。

「あずさお姉ちゃんは、961プロなんかに渡さない! 絶対負けないよ、おにぎり!」

 ADの指示が出て、参加チームがそれぞれのスタート位置につく。セットから離れたあずさは、
関係者の席に控えた。首位との得点差は五点。十点フルマークが絶対条件の最終ステージだ。
ゆずれない意地とプライドを胸に秘め、『リトル・スノウ』の二人が、おにぎりを脇に従え、
絶望的な戦いの舞台へと足を踏み入れる。

 あずさは、美希との対話を思い出していた――。



『……あずさ。久しぶり……なの』

 約一年振りに出会った美希は、綺麗になっていた。いくら髪がぼさぼさでも、汗だくでも、
間違いなく「トップアイドル」になった美希が、あずさの目の前にいた。だがそれと同時に、
記憶の中にいる美希とは一致しない部分も、透かして見えた気がした。足元に歩み寄ってきた
おにぎりを、あずさはそっと抱きかかえる。

『美希ちゃん、大変そうね……少し、やつれた気がするわ』
『……うん。いろいろあったの』

 「おにぎり」に振り回され続けた日々のことを、美希は、ぽつりぽつりとあずさに語った。
スタジオでリハがあった日、おにぎりが控え室に現れたこと。その後あずさの声が聞こえて、
身を隠してしまったこと。今日も同じように、楽屋の扉をノックして、おにぎりがやってきた
こと。
 公園であずさたちを見かけ、おにぎりに対して嫉妬を覚えたことも、美希は打ち明けた。

『……ミキ、なんでもできるって思ってた。
 歌だってダンスだって、社長の言うことは全部できたよ』

 美希の声は、微かに震えていた。いつまで経っても、デビューにゴーサインを出さない高木
社長に対する、ほんのちょっとした、嫌がらせのつもりだったのに。いつの間にやら美希は、
業界を取り巻く仕掛けの中心に固められていたのだ。その苦悩が今、ゆっくりと時間の流れに
放たれる。

『……でもミキ、気付いちゃったの』

 あずさは、美希の独白を黙って聞いていた。今までの苦悩に、胸を焦がれた美希の思いを、
丹念に拾い集めていた。

『……『なんでもできる』は、『なんにもできない』のと同じだよっ!』

 悲鳴にも似た叫びとともに床にくずおれると、美希は幼い子供のように泣きだした。そこで
初めて、あずさは自分の中に、静かな憤りと怒りが渦巻いていることを認識する。

 いくら天才と言われたところで、美希はまだ14歳の子供なのだ。たしかにアイドルの世界は
ショウビズと言う、消費経済の枠組みの中で動いている。アイドルを動かすもの、アイドルに
よって動くもの、その最大の要因は「お金」だ。そんなことはわかっている。
 けれど、本当に動いているものはお金だけではない。人間と、その内側にある「心」が動く
から、ショウビズは連環を為すのだ。

 もっとも多感で、いろんな経験をして、精神的に成長するべき「今」を生きている美希に、
深い傷を負わせたこと。更に私怨であろう高木社長との因縁に絡めて、自分たちアイドルを
「駒」のように扱う黒井社長に対して、あずさは怒っていた。

 アイドルは競い合う存在ではない。ファンの心の中に、充足した世界を作り上げることが、
アイドルの役目だ。数字だけを積み上げたところで、心がこもってない空間には、精神的な
意味は見つからないのだ。

 あずさはそっとしゃがんで、美希の両肩を抱き寄せる。そして言葉を続けた。

『ねぇ、美希ちゃん。一つ約束して』

 俯いている美希に向けて、あずさはハッキリと告げる。

『……『アルティメイト・ムーン』を、全力で戦って欲しいの』

 それまで泣きじゃくっていた美希が、驚いて顔を上げた。



「Hey body, say YEAH!! 『イヌ・アルティメイト』もいよいよFinal Stage!
 ここで今年のベスト・ドッグが決定するぜっ!!」

 『アルティメイト・ムーン』の前座番組である『イヌ・アルティメイト』の実況を担当して
いたDJ界の大御所、軽口哲也の声がスタジオにこだまして、あずさは現在時間を取り戻した。
一般の観客席からは、ADの手の振りに合わせて拍手と歓声が巻き起こった。

「We'll be started " Ultimate Dog Race " !! Check it out! ……Are you ready?」

 スタートゲートの後ろで、雪歩が両手の拳を握り締めた。

「Set……」

 ゴール地点で待ち構える亜美が、ゲートにいる、おにぎりに視線を集中する。

「Go!!」

 ゲートが開くと同時に、勢いよく犬たちがコースに飛び出して行く。その中にはもちろん、
おにぎりの姿も含まれていた。

 「行っけー、おにぎりー!!」亜美が叫ぶ。「おにぎりちゃん、こっち! こっちだよ!」
雪歩が懸命に指示を出す。目の前は犬だらけだったが、雪歩の目には今、おにぎりしか映って
いなかった。

 おにぎりはなかなかに果敢だった。中型犬・大型犬の合間をスルリと抜け、障害物を器用な
身のこなしで通過して行く。障害のない地足比べとなると、ストライドの長い大型犬に大きく
劣るものの、単純な「かけっこ」ではなかったことが、雪歩たちにも功を奏した。

「さぁレースは意外な展開! 765プロからやって来た小さな刺客おにぎり号が、
 果敢にレースを引っ張る展開だ! これは時計勝負も面白くなって来たぜっ!!」

 実況の軽口が、まるで原稿でも用意していたような口ぶりで状況を伝えている。あずさから
少し離れたところで、不意に大きな声がした。

「ええい、あいつらは何をやっているんだ! モタモタするなぁっ!!」
「しゃ、社長っ! 声が大きいです、マイクに乗ってしまいます!」
「うるさいっ! 早くその、小賢しくチョコマカしているのを始末して決着を付けろっ!!」

 あずさは軽くその方向を一瞥したが、声の主が誰であるかを敢えて確認する必要もなかった。
代わりに、一番その男にとって癪に障る言葉を口にした。

「おにぎりちゃん、がんばれー! 大きいだけの子に負けちゃだめよー!」

 朗々と澄み渡るあずさの応援が、スタジオに響きわたる。先程の罵声がした方向から視線を
感じたので、あずさは今度はしっかりとその視線に目を合わせ、軽くウィンクをして見せた。

「む、むううっ!! 負けるなぁっ! 負けたらどうなるかわかってるだろうなっ!?」

 黒井社長の駄々っ子のような叫びが、虚しくスタジオにこだました。

「最終コーナーを立ち上がって残る障害はあと一つ!
 この急な谷を超えれば、その向こうにはパートナーが待ってるぜっ! Here we go!!」

 その谷型障害とやらが、クセモノだった。急な下り坂と上り坂をただ組み合わせただけの、
見掛けは単純な障害だが、小型犬のおにぎりにとって、この角度と高さは、普通に当たれば
確実に砕けるレベルの大障害だ。

 亜美が生み出した「作戦」に向かって、雪歩とおにぎりは着実に手を進めていた。



『……単純に行くと、この障害でどーしても負けちゃうよね』

 最後の作戦会議の日、真美がコース下見の写真をながめながら呟いた。
 「降りるのは誰でもできるけど、高すぎて登れないよ」と続ける。

『んっふっふ〜♪ 真美はまだまだ甘いねー』

 亜美は、にやりと笑って得意気な顔をした。首を傾げる真美に、胸を張って答える。

『高さが足りないってことは、踏み台が有ればいいんじゃん?』
『それがドコにもないから困ってるんっしょ!?』
『あるじゃん。今はないけど、レースが始まったら、おにぎりの目の前には、たくさん――』



 レース展開は、亜美の想定通りとなった。前半の障害でレースを引っ張る形にして、後続を
あおり、全体のレーススピードを上げる。地足では勝ち目のないおにぎりは、当然ずるずると
その位置を下げていく。そしてその位置取りとペース配分そのものが、おにぎりの必勝戦術に
他ならなかった。

 あずさと真美もまた、関係者席でレースの行方を見守っている。ここで「作戦」がきまれば、
障害の飛越セクションでも加点が期待できる。大型犬ではできない器用さを存分に見せ付ける、
最大のチャンスが訪れようとしていた。

 「いいよいいよ、おにぎり!」と、ゴール地点で亜美が声を張り上げる。最終コーナーの奥、
谷型障害の少し手前で、雪歩はおにぎりがやってくるのを待ち構えている。

「最終コーナー、今先頭が障害に突入っ! 後続も続々と深い谷底へとDiving!
 さぁ、最初にこの谷から這い上がってくるCOOLな奴はいったい誰だ!?」

 軽口の実況も絶好調な中、秒単位で出足負けしているおにぎりが、雪歩の視界に入ってきた。

「……おにぎりちゃん、上っ!!」

 雪歩の右手が、天井に向かって振り上げられる。おにぎりはそれに反応して、谷の手前から
一息にジャンプした。その着地点――谷底にいる大型犬の頭に、おにぎりが飛び乗った。
 不意打ちで頭を「踏み台」にされた大型犬は、怒りと共に、大きくうなって頭を振りあげる。
同時におにぎりが、思い切って跳躍した。その身体が、ロケットのように宙に舞い上がった。

「うおおおおっ!? すごいっ! おにぎり飛んだっ!?」
「おにぎりちゃん! あともう少しよっ!!」

 懸命に声を張り上げて、あずさと真美が同時に叫ぶ。おにぎりは何事も無かったかのように、
たしっ、と両足を地面について、谷の向こう岸へと辿り着いた。

「Waaaaao!! こいつはWonderfulな障害クリア! 
 765プロ『おにぎり』号、頭脳作戦で体格ハンディキャップを、ものともせず!」

 興奮を抑えきれずに、あずさが客席から立ち上がる。ゴール地点に、亜美の姿を見て取った
おにぎりは、全速力で駆け出した。亜美もまた、ゴールラインぎりぎりに寄って待ち構える。
その小さな手の中に、おにぎりが飛び込んだ。

「――『おにぎり』号、今先頭でGoal in!!」

 亜美がおにぎりを抱き上げたところで、勝負が決まった。雪歩は、ゴール手前のコース外で
へなへなとしゃがみこむ。関係者席の真美は、あずさと共に歓喜を爆発させていた。

「なん……だと……?……よりによって……よりによってあのダメ犬如きに……っ!!」

 関係者席の最前列に陣取っていた黒井社長が、ひとつ雄叫びを上げて会場を後にしたのを、
あずさは視界の端で追っていた。一抹の不安が胸をよぎる。
 そのときあずさの脳裏に浮かんでいたのは、黒井社長ではなく、美希の姿だった。



 『イヌ・アルティメイト』が劇的な幕切れを迎えている頃、美希は楽屋に戻っていた。

 右足首に巻かれたテーピングを隠すため、靴は急遽ブーツに変更された。待機時間中に何が
あったのかと、スタッフから散々問いただされた美希は、何も詳細を述べずに、ただひたすら
「転んだ」を繰り返した。

 ――まったく、くだらん!!

 扉を挟んだ廊下の向こうから、黒井社長の怒号が聞こえた。結局『イヌ・アルティメイト』
では勝てなかったことを、美希は人づてに耳にしている。事務所内でちらりと見かけたあの犬
たちは、トレーナーたちは、今後どうなるのだろう。またそうやって「使い捨て」にしていく
のか。
 美希の内心に降り積もった「猜疑心」は、もはや限界に達していた。

 電子ロックが外れる音がして、楽屋の扉が開く。

「やぁ、美希ちゃん。『伝説の始まり』だね」

 先程まで廊下で怒り狂っていた表情を仮面の下に隠し、黒井社長がにこやかに美希に告げる。
だが美希は、真一文字に口を結び、意を決した視線だけを黒井社長に向けた。

「どうしたんだい? そう言えば、転んで足をひねったと聞いたが、大丈夫だろうね?」
「……だいじょうぶ。関係ないから」

 楽屋の大きな鏡を睨みつけながら、美希がぼそりと答えると、黒井社長は嬉しそうに笑った。

「そう、それでこそマイ・フェアリーだ。いやぁ、実は少々不安が有ったんだよ。
 もしかして、秋月律子に勝ちを譲ったりしないだろうかと思っていてね――」
「見損なわないでっ!!」

 それは冗談の気配をふくませた口調だったが、美希の降り積もった猜疑心を逆撫でするには
十分な一言だった。美希は椅子から立ち上がると、キッと黒井社長を睨みつける。

「ミキ、絶対勝つよ! でもそれは、社長のためじゃない!
 ミキはミキのために勝つの! だって、ミキは星井美希なんだからっ!」

 961プロに移籍してからというもの、美希は黒井社長に口答えをしたことは一度もなかった。
それでも美希は、煮えたぎる意志を塊にして、黒井社長に己の感情を叩きつける。

「ミキは『妖精』なんかじゃない!!」

 美希の頭の中には、あずさとの「約束」が、よみがえっていた。



 『アルティメイト・ムーン』を全力で戦って欲しい。あずさの言葉に、美希は顔を上げた。

『律子さん、言ってたわ。本気でぶつかってくる美希に会いたいんです、って』

 あずさは優しく包むように美希を諭す。その柔らかな顔付きが涙で揺らぎ、ぼやけて見えた。

『それにね、美希ちゃん』

 あずさがそっと、美希の耳元に顔を近付けた。

『私はずっと、美希ちゃんを応援しているから。ずっと見ているから。
 全力で、律子さんと本気の勝負を見せて欲しいの、だから――』

 ――全力で、戦いなさい。

 美希の鼻腔を、あずさの着けているフローラルなフレグランスが、軽くくすぐった。美希は
それに言葉で応じ、立ち上がろうとする。その瞬間、右の足首が悲鳴をあげた。

『ど、どうしたの、美希ちゃん!?』
『あ、あはは……ちょっと転んじゃったの』

 明らかに美希の足首は、通常以上に腫れ上がっていた。医務室に行かなくちゃ、とあずさが、
美希の右手を取り、腕ごと自分の肩へと回す。力を入れちゃダメよ、とあずさは念を押した。

 そして美希を力強く先導しようとして――

『あっ、あずさ! 医務室そっちじゃないの! 逆、逆!』
『……あ、あらあら〜?』

 ――いつもどおりの変わらぬあずさにホッとして、美希の顔が、泣き笑いに変わった。



 真っ向から否定を受けた黒井社長は、ふん、と鼻で一笑すると、美希を叱咤した。

「何の為か、なんてどうでもいい。勝ってさえくれれば、それで万事OKだよ。
 さぁ、出番だ。トップアイドルらしく、ステージで踊っておいで!」

 大げさに語る黒井社長の横を、美希は振り返りもせずに通り抜けて、控え室を後にした。

「……ふぅむ」

 楽屋にひとり残された黒井社長が、溜息とも独り言ともつかぬ声を上げる。控え室を去った
美希は、肩に余計な力が入っていた。身体のどこかをかばっているのが見て取れた。それでは
美希は、満足に歌うことも、踊ることも、笑顔を振り撒くことも、ままならないだろう。
 有能なアイドルプロデューサーでもある黒井社長の目には、それはありありと映った。

 それでもなお、美希は「勝つ」と宣言した。ならば何も言うまいと、黒井社長は自らの口を
閉ざしたのだ。いや、閉ざされた、と言っても良かった。美希の覇気が、黒井社長を一瞬だけ
圧倒し、何も言えなくなってしまったのだ。

 誰もいなくなった部屋で、黒井社長が独白する。

「……星井美希と三浦あずさ、か。
 二人で日本を……いや、世界を席巻することだってできただろうに……!」

 黒井社長は、己が立てた「計画」が泡になっていくのを悟った。行き場のなくなった怒りが、
部屋を満たしていく。それは黒井社長の苛立ちを更に深めていった。握りしめる両手の震えは、
いつまでも静まる気配がなかった。



<8>

 『アルティメイト・ムーン』が幕を閉じた。あずさが固唾をのんで見ている、スタジオ内の
スクリーンには、涙をこらえながらプロデューサーと固い握手を交わす、律子の姿があった。

 優勝者へのインタビューはまだ続いていたが、あずさはそっと、その場を離れた。着替えに
いった雪歩たちも、そろそろ更衣室を出てくる頃合いだ。事務所への連絡も済ませたことだし、
みんなと合流したら、なにかお祝いをするのも良いかもしれない。そうしたら――

 考えにふけっていたあずさは、通路の一角で足を止めた。あずさの進路を塞ぐような形で、
見覚えのある男が、あずさを待ち構えていたからだ。

「あなたは……」
「勝者にしては、ずいぶんと覇気に欠けた様子だな。三浦あずさ」

 それでは王者にはなれまい。黒井社長はそう吐き捨てた。対峙しているあずさから見ても、
そこに含まれた苛立ちの色は、一層濃いものに映った。勝負はついた。ならばもう喧嘩を買う
必要もない。失礼します、と告げて通り抜けようとしたあずさだったが、それは、黒井社長の
言葉に制されてしまった。

「星井美希ならば、もう、この会場には居ないぞ」

 あずさが勢いよく振り返る。黒井社長の目は、さまざまな感情が入り混じって、もはや判別
不可能なまでに、黒く濁りきっていた。役立たず。使えない駒。裏切り者。無能な飼い犬め。
無限に沸きたつ苛立ちは、普段の彼から余裕の表情さえも奪ってしまっていた。その矛先が、
全てを台無しにした、あずさへと向かう。

「お前が潰したのだ。星井美希の『可能性』をな。あと一ピースあれば、私の計画は大成した。
 輝かしい未来にまで背を向けるとは、道が見えないアイドルも、ここまでくると哀れだな!」

 道が見えないアイドル。黒井社長にそう論じられて、あずさは言葉を詰まらせた。765プロの
中で、未だにどこにも進めないアイドル。それが三浦あずさだったからだ。自らの核を突かれた
迷子の底辺アイドルを前に、黒井社長は気にせず言葉を重ねる。

「765プロには馬鹿な連中が揃っている。見る目の無い社長に、若造のプロデューサー。
 連中には、私のプランなど解るはずもない。完璧なアイドルに、完璧な椅子を用意し――」
「いりません」

 あずさの言葉が、黒井社長の発言を断つ。苦い顔で睨む黒井社長に、あずさは応じた。

「私には、未来はないかもしれません。でも、作りものの地位は要らないんです。
 どんなに売れても、どんなに有名になっても、それは『私』じゃないんです」

 底辺アイドルが三浦あずさの看板なら、私はそれを受け入れます。あずさはハッキリと断言
した。黒井社長は、この上なく苦いものを呑みこんだ顔をして、何もわかっておらんな!と、
床を蹴りあげる。765プロは馬鹿な連中が揃いすぎている! ろくでなし事務所が!

「私は、黒井社長さんに、少し感謝しています」
「……感謝だと?」
「はい。あなたに喧嘩を売っていただけました。アイドルとして、覚えていただけました。
 底辺アイドルが、高名な社長さんと、こんなふうに張り合うことができて、それに」

 ――未来がないことを、教えていただけました。

 あずさの言葉を受けた黒井社長は、意外なほど大人しくなった。あずさは思ったことを口に
しただけだったが、黒井社長はなにか言いかけて、奥歯を噛んで言葉を砕く。馬鹿連中が、と
押し殺したような声が漏れた。

「結局、何も見えていないのか。まるで引き際をわきまえたような口ぶりだな」
「近いうちに、考えたいと思います。私には、まだ、やり残したことがあるので」

 美希を捜しに行こうと、あずさは背を向ける。黒井社長が、その背に声を吐き捨てる。

「填まらぬピースなど、ゴミ屑も同然だ。三浦あずさ、お前は私に負けを認めさせるのか」
「えっ」
「お前は本当に『無知』なのだな! 迷い続けた挙句、朽ち果てるがいい!」

 あずさが振り返った時には、黒井社長は既にその場から去ってしまっていた。ゴミ屑。無知。
填まらぬピース。さんざん罵倒して、男は去った。あずさは少し首を傾げながら、廊下の先を
進もうとして、雷に撃たれたように、ぴしゃりと動けなくなった。

「――私は……」

 道が見えないアイドル。何もかも遅いアイドル。前に進めないアイドル。価値なんて無くて、
可能性も見つけられない。それでも『リトル・スノウ』のサポートをする日々は充実していた。
裏方になって、誰かの足場を支えるのが向いているのかもしれないと、思いかけていた。

「わたしは……」

 立ちつくすあずさの脳裏に、IUの映像が流れ込む。『アルティメイト・ムーン』で雌雄を
決するトップアイドルたちの姿。何万単位で観客を魅了する、圧倒的な歌声。そこには普段と
別人のように変身した律子がいて、大勢の観客に勇気を振りまいていた。そして、その隣には。

『――うん、頑張る! ミキ、頑張ってくるから!』

 全力で戦いなさい。あずさはあの時、素直に浮かんだ気持ちを言葉にした。あずさには他に、
力になれることが無かったからだ。そんなあずさに、美希はこう言った。

『あずさが見てるなら、ミキも頑張れるから!』

 だから見ててね!と念を押して、美希は会場へと向かった。ファンに応援されるアイドル。
あの時は、そう認識していた。自分にもトップアイドルの手助けが出来たのだと思っていた。
だけど今は、そうは思わない。あずさの中で、別の心に炎が燻りはじめていたからだ。

 ――見つけた。

 何かを確信したあずさは、強く床を蹴って廊下を駆けだした。



 『アルティメイト・ムーン』が終わって、すでに六時間が経過していた。765プロでは、優勝
パーティーの飾りつけが始められており、本日の優勝者たちを、今か今かと待っていた。

「律子も、おにぎりも、ごちそう用意してるのに、遅いな?」
「三浦あずさが、迷子になって、てんてこ舞いなのかもしれませんね」

 準備係の響と貴音が、きっとそうだと顔を見合わせて笑う。

「せっかくこんなに用意したんだから、みんな揃うといいな!」

 テーブルの上の大皿には、『イヌ・アルティメイト』の優勝者と同じ名を冠したメニューが、
これでもかと山盛りに用意されている。



 そこから遠くない、事務所近くの公園で、美希はひとりブランコに座っていた。黒井社長と
口論した挙句、961プロを追い出されてきたのだ。『アルティメイト・ムーン』の準優勝者とは
いえ、敗者は敗者だった。
 ひとりぼっちになった美希は、カラッポの気分になって、空を見上げた。

「これから、どうしようかなあ……」

 765プロに戻り、みんなに謝ろうかなとも考えた。でも、変な顔をされたり、拒絶されたり
したら、どうしよう。という気持ちも、もちろんあって、それが美希の足を迷わせていた。
大手を振って帰る理由が、美希には欠落していた。

「わんっ」
「あ、おにぎり!」

 おにぎりに呼ばれ、美希の表情がパッと明るくなった。ここにおにぎりがいるということは、
みんなが事務所に帰ってきたのかもしれない。足元で尾を振る、おにぎりを膝に抱え、美希は
ますます考えこんだ。

「どうしよう、おにぎり。ミキ、どうしたらいい?」

 美希は言う。キミは優勝したから帰れるけど、ミキは負けちゃったからどこにも帰れないよ。

「キミと一緒なら、765プロに行っても平気かな。律子…さんも、ゆるしてくれるかな?」

 行って謝ろうか。美希の中からは既に、変なプライドは消失していた。おにぎりは答えない。
美希の膝の上で、公園の外をじっと眺めて、やってくる人影に、わんと大きく啼いた。

「あらあら、ここだったのね。美希ちゃんも一緒で、助かるわ」
「あ、あずさ!?」
「私は、いつも美希ちゃんに、おにぎりちゃんを捕まえてもらってばかりねぇ」

 おにぎりのことを、捜しにきたのだろう。あずさの息は少しあがっている。ひとつ頷いて、
美希はおにぎりを差し出した。

「どうもありがとう。美希ちゃんは偉いわね」
「……え?」
「ひとりで何でも頑張って、準優勝までしたのだもの。もっと、胸をはっても良いのよ?」

 唖然とした美希の手から、おにぎりが落下した。非難がましい声も、美希の耳には届かない。
 誰かに認められたことが、くすぐったくて、何もかも終わっていたことが、少し残念だった。

「べ、別に、こんなのフツーだよっ。ミキはカンペキ……でもないけど、頑張ったもん」
「そうね。本当にその通りだわ。見習いたいくらい」
「あずさが見習っちゃいけないと思うな。ミキ、良いアイドルでもなかったよ」

 ミキはね、あずさ。美希が呟く。あずさみたいなアイドルになりたいんだ。

「あらあら。それこそ、見習っちゃいけないんじゃないかしら?」
「いいの! ミキもう決めたの! だから……ミキ、あずさと一緒に帰りたい」
「ええ。もちろんよ」
「ホント!?」

 美希は元気よくブランコから立ち上がると、あずさの手を取って、ずんずんと歩きだした。
おにぎりが嬉しそうに後を追い、あずさは慌てながらも、美希に引っ張られる形になる。その
背中に、あずさは声をかけた。

「ね、美希ちゃん」
「なーに?」
「私ね、ずっと捜していたものがあるの」


 ――知ってる。運命の人でしょ? あずさはロマンチストだね。

 ――そうかしら。美希ちゃんはどう思う?

 ――んー、よくわかんないけど。いるんじゃない?

 ――私は、まだ、アイドルやれるかしら?

 ――やれるよ! ミキの目標なのに、やめちゃうのは、や!


 先を歩いていた美希が、そこで初めて足を止め振り返った。事務所まではあと僅かだったが、
真剣な顔をして、否定の色を向ける。あずさはそこで、考えを口に出した。

「アイドル、辞めようと思うの。でね、もう一度、始めようと思うの」
「辞めて、始めるの?」
「そう。それで、美希ちゃんに、ひとつ、相談があるのだけれど――」

 あずさは、美希に一つの申し出をした。きょとんとして聞いていた美希の表情に、やがて、
満面の笑みが浮かんで、先程よりも強くあずさの手を引いて、事務所に駆けだす。

「帰ろう! あずさ、早く帰ろう! 社長に言わなきゃ!」
「そんなに急がなくても、事務所はお引っ越ししたりしないわよ〜」

 のんびり応じるあずさにも構わず、美希は事務所への道を駆けていく。見覚えのある世界が、
一度は離れたその風景が、たった五分前に比べて、色鮮やかな別物に見えた。

「あずさ、ミキが連れて行ってあげる! あずさのこと、トップアイドルにしてあげる!」

 疾走していく二人の足元を、懸命におにぎりが追いかける。その咆哮に気づいて、765プロの
窓がいくつか開いた。美希が顔をあげ、あずさがそちらに手を振る。上から降りそそいできた
優しい言葉の雨に、二人は同時に声を重ねた。


 ――ただいま!!


 それは二人が奏でる、初めてのハーモニー。


                                                              【End】

 

 『一枚絵』第6回参加作品

 ※この作品は寓話さん [寓話工場] &微熱体温さん [―― 37.2℃ ――] との合作作品です。 

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