湘南新宿ラインに乗って横浜を過ぎ、2つ先の北鎌倉駅に着く。
ドアが開き、昼時特有の蒸し暑さが皮膚を伝うが、眠気覚ましにはちょうど良かった。
本来の改札口は駅構内の踏み切りを越えた反対側だが、今はこの2番線ホーム側にも臨時改札があった。
7月の梅雨空は、薄汚れた真綿のような雲の中に水気をたっぷりと含み、それは見るからに重そうだった。
――ともすれば、ひと雨来るか。
空を見上げながら、なぜここに呼び出されたのかを考える。苦い思い出しか無いだろうに、と過去を思い返す。
高木順一朗は、視線を前に向け、足を踏み出した。
横須賀線の線路に沿って歩き、明月川に沿った明月院通りへと入る。もう少しすれば、蛍の舞う細い川だ。
通りの右側には、まるで壁のように切れ間無く紫陽花が咲いていた。
土壌の酸性濃度で色を変えるその花は、古くから空模様や人の心に例えられる花だった。
――人は、変わるものだな。
腕時計を見る。古さを感じる飾り気のないセイコーの腕時計は、高木の腕に巻かれて、もう25年が経っていた。
時間は11時35分。約束の時間まで、あと5分だった。
福源山・明月院。その中の紫陽殿が待ち合わせの場所だった。
高木がその部屋に入ると、既に全ての準備が整っていて、部屋の隅では湯が沸いていた。
たった2人だけの茶会。
表千家の点前作法に従い、泡少なく点てられた濃茶を、高木はゆっくりと味わう事にした。
茶会の濃茶に使われる抹茶の原料は、樹齢70年〜100年ほどの茶の古木から摘まれる茶葉だ。
新芽の発芽前から木を葦の簾で覆って直射日光を遮り、摘んだ茶葉からは軸を取り除いて茶臼で挽く。
育成から加工まで、全てが最高の香りと味を引き出す為に考え尽くされたやり方だ。
「宇治から取り寄せた最高の抹茶を、鎌倉の最高の水で点てた濃茶だ」
茶席の主が、高木に向かって言った。高木はその言葉を聞きながら、二口目を口に含んだ。
茶と水、それだけではない。主の腕と、使われている道具も最高だ。その茶が不味いはずがない。
鼻腔を抜ける茶の香りはどこまでも深く、春の芽吹きと夏の輝きを感じさせた。
驚くほど、苦味に棘がない。
丸い苦味とでも言うべきそれは口の中でしっかりと根付き、奥底の甘みを際立たせる。
苔むす岩の間を流れて落ちる岩清水のような清涼な甘み。それが舌と喉を潤していく。
口から広がるそれは、体の隅々にまで命を吹き込むかのような味だった。
「結構なお点前で」
高木の言葉に、男は答えず、茶杓を使って自分の茶碗に抹茶を掬った。
「小堀遠州作、『上弦の月』。その茶杓は、お前がたった1つ欲しがった形見だったな」
高木は、男の手の中にある茶杓を見ながら、そう言った。
「何か一つと言われたら、もっとも価値がある物を頂くのが当然だ」
男は、自分の為に点てた濃茶を口に含んだ。
「先生がずっと身に付けていたから、などという理由で腕時計を選ぶほど、私は感傷的ではない」
男はそう言うと、視線を窓の外に向けた。高木も、窓の外に視線をやる。
紫陽殿の丸窓からは、美しい庭が見えた。昼に程近いその庭は、濡れた様に輝いていた。
一瞬、時間が止まった。
あるいは、過去に帰れたような気がした。
「感想を聞いていないぞ」
男が言った。
「結構なお点前で、と言ったじゃないか」
「儀礼的な返しではない。私の腕は落ちたか?」
「いや、全く。むしろ焦りが無くなって、落ち着いた味になった」
「……そうか」
高木は、椀に残った濃茶をもう一口、口に含んだ。よく練られたいい茶だった。
「うちに、お茶の好きな子がいるんだが――」
「萩原雪歩か」
男はすぐに名前を出した。お前の事務所の事は全て調査済みだ、と男が付け加えた。
「ああ。彼女に、お前の茶を飲ませてやりたいな」
程なくそうなるかもしれんぞ、と男が言った。
「最高の茶を点てる為には、全てを最高にしなければダメなのだ」
男が、真正面から高木を見て言った。
「日の光を一度も浴びないからこそ、これだけの濃さにしても飲める甘い茶葉になる」
目の前の茶入れの蓋を開け、男は中から一匙掬う。緑色の粉が、輝いていた。
「光を浴びたいと願うのは植物として当然だ。だが最高の濃茶を点てるなら、日の光は諦めさせねばならない」
「それが茶の話なら、その通りだな」
男の言葉が、何を指しているかは良く解った。それは男の持論であり、昔も今も変わらない信念だ。
「日の光を浴びた茶葉は、抹茶としては使えないのだ。お前は、全てを台無しにしようとしている」
「それがお前の間違いだというのだ。黒井」
高木の言葉が、男の声よりも大きく、紫陽殿の中に響いた。
「信じてやれ。彼女達の可能性を。彼女達は茶葉ではない。物ではない。意志ある若者だ」
茶碗をそっと畳の上に置き、高木は正対して男に言った。
「本人達が最高の経験と感じずして、輝けるものか。人に夢を与えられるものか」
「自立、自発、自主。そんなものを認めるから、彼女達は迷い、焦り、道を踏み外すのだ」
黒井は高木の茶碗を引き寄せると、茶入の隣の棗から、先程までとは違う抹茶を掬い、入れた。
湯を注ぎ、煤竹の茶筅で泡立てながらそれを薄茶として点てる。
差し出された茶碗を、高木は作法を無視して、すぐに口に運んだ。
「こちらも、美味いな」
「お前には、それで充分だ」
黒井は、微笑を浮かべながら薄茶を飲む高木を見て、大きなため息をついた。
「萩原雪歩」
自分の事務所のアイドル候補生の名を呼ばれ、高木は手を止め、顔を上げる。
「アレにトップアイドルは無理だ。彼女には演技の基礎を叩き込め」
「ふむ。彼女は、そんな自分を変えたがっているんだが」
「自分に自信がないが、芯は強い。役を演じさせるのが一番だ。女優としてなら、充分上を目指せる」
丸窓から、涼しい風が吹き込んでくる。水の匂い。木々の匂い。草の匂い。全てが、新鮮だった。
「秋月律子も、アイドルから外した方がいい。別の道なら頂点を目指せる」
「それが、お前の意見か」
「そうだ。道を誤らせるな。夢や憧れが、その裏にある可能性を潰してゆくのだ」
その言葉の真意は、高木にも伝わっていた。伝わった事に気付き、それでも、黒井は続けた。
「砂漠を旅する者に蜃気楼を見せてどうする。幻はすぐに、絶望へと変わるのだ」
過去を繰り返すな――それが、黒井の言葉だった。
それは高木自身が何度も考え、迷い、後悔し、それでも、諦められなかった道だった。
「それでも――」
高木は、茶碗の中で揺れる黄緑色の水面を見ていた。
柔らかな香りが鼻に届き、胸の奥が小さく痛む。
「それでも私は、彼女達の夢を、何一つ捨てさせずに叶えたいのだよ」
口に含んだ薄茶は、一杯目の濃茶よりも早く舌に馴染んだ。
広がる香りを楽しみながら、結構なお点前で、と小声で呟いた。
それを聞いた黒井は小さな声で、勝手にするがいい、と返すだけだった。
2人は山門の前に立ち、下りの石段を前にしていた。
「紫陽花が綺麗だな。黒井」
「ああ」
「紫陽花は、青くても、赤くても紫陽花だ」
「だからどうした」
高木は、その問いに答えず、一歩、石段を降りた。
「しっかり育ててやってくれ」
「育てるのではない。能力を引き出し、開花させるのだ」
黒井が、二歩、石段を降りた。
高木が蕾だと思っていた少女は、今、黒井の元で大輪の花となっていた。
美希を追って、961プロへ行きたい、という者が現れるかもしれないとは思っていた。
しかし、今の所、その声は聞こえてこない。
自分の力、小鳥の力、あるいは――と、高木は若いプロデューサーの顔を思い出していた。
いつか彼に、この腕時計を譲る時が来るかもしれない。
その時、彼はこれを受け取ってくれるだろうか。
高木は、そんな事を考えながら、少し先を歩く黒井の背中に声を掛ける。
「滅多にない機会だ。昼飯でも食わんかね?」
「どこへ行くつもりだ?」
「決まっているだろう。鎌倉なら、蕎麦の『竹屋」だ。あそこの三色そばを食わずには帰れん」
高木は左手で椀を持ち、右手を箸にしてそばをすする仕草をして見せる。
「馬鹿な。この季節に鰻の『つるや』を外すなど、愚の骨頂だ。うな重以外の選択肢など認めん」
黒井は腕を組んだまま石段を降り、高木を見下すように胸を逸らした。
石段の一番下まで来た所で、高木が言った。
「譲る気はないのか? 黒井」
「お前が私に従え。高木」
一陣の風が吹き、そして、同時に2人の腹が鳴った。
「交渉決裂だな、黒井」
「元より、私とお前は平行線なのだ!」
黒井はそのまま背を向けると、スタスタと歩き始める。
その背はいつもと変わらず、堂々とした背中だった。
高木は遠ざかって行く黒井の背を見送りながら、その言葉を噛み締める。
「我々は、平行線ではない。目指すものは同じなのだ。いつか交わる日が来るさ」
交差点まで進んだ黒井が、振り返らずに、挙げた右手を振った。
タクシーが通るような道ではなかったはずだ。そう考え、それが自分に対する別れの合図だと気が付いた。
絶対に声の届かない距離。そして、高木が見送っているであろう距離を分かっての事だった。
高木の性格を、誰よりも分かっているのは、実は黒井かもしれない。
そう思うとどこか嬉しく、そして同時に、これからの戦いが何よりも厳しいものになるという事を予感させた。
高木は背を向けたままの黒井に手を振り、心中で別れを告げる。
――また、共に茶を飲もう。甘い思い出も、苦い記憶も、全部飲み干そうじゃないか。
風が、水の匂いを孕んでいた。
暗雲は厚く、遠くで雷の音が聞こえる。
夏の嵐は、すぐ近くまで迫っていた。
【End】
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