序
それは企画と呼ぶにはあまりに漠然としていたし、それは企画書と呼ぶにはあまりに分厚い資料の束だった。
おそらく、企画側もその点は理解していたのであろう。幸いな事に、企画の骨子は『最初の40ページ』程度にまとめられていた。
「社長、これは実現可能なんでしょうか?」
それが、プロデューサーの第一声だった。
765プロの社長、高木順一朗はプロデューサーに背を向け、デスクの奥の窓から、オレンジ色のオフィス街を見ていた。
「君は、黒井という男についてどこまで知っているかね?」
唐突な問いだった。プロデューサーは社長室の入り口側の応接セットに腰掛けたまま、天井を仰ぎ見る。
「アイドルプロダクションである961プロの社長で、人材発掘の手腕に長けた人物。傲慢、尊大。徹底した実力主義者、とか、そんな感じですか?」
「そう。おおむねそれが、世間一般に知られている961プロダクション社長、黒井崇男の人物像だ」
高木社長は振り返る。窓から差し込む夕方の日差しが、胸を張ったスーツ姿の輪郭線を照らし出していた。
「だが、961プロダクションは、黒井財閥とも称されるコングロマリット――巨大企業複合体の広告塔だという事を忘れてはならない」
「あの男が総力を挙げるなら、実現可能、という事ですね」
企画書の中には契約書の雛形までが差し込まれていた。もしもこの企画に参加するという事になれば、765プロから参加するアイドルは6名という事になる。
765プロ所属アイドルにとっても、魅力的なプロモーションになる。参加するアイドルは芸能活動に著しい制限を受ける事になるが、スケジュール調整の苦労を補って余りある成果は挙げられそうだと確信できる内容だった。想定される期間は、中学校や高校の夏休み期間と重なるので、学校の方は問題無いだろうが……。
これまでのファンとは違った層にPRできる。今まで伝え切れなかった所属アイドル達の魅力も、TVのVTR映像や様々なスタイルの動画配信を通じて伝えられるだろう。相乗効果は、計り知れない。
最も懸念されるのは、企画元である961プロの当て馬のように扱われる事だ。美希が765プロに復帰し、響と貴音も新たなメンバーとして765プロに移籍をしたが、黒井社長が第二、第三のプロジェクトフェアリーをデビューさせようとしている、という噂は未だに消えない。
「961プロからも、誰かが出るんでしょうね」
「いや、今回961プロからは参加しないそうだ。その代わりに――」
0
カメラが、暗闇の中に立つ1人の男のシルエットを映す。BGMはホルストの組曲『惑星』より、JUPITER。
壇上の男は、静かに声を発した。
「ここに、直径が16cmの完全球体がある」
スポットライトで照らされた男の手。その手の上に、銀色に輝く金属の箱。
「この球体は、ラバー、鉛、銀、プラチナの四層構造でできていて、超音波も、X線も透過しない。私達は便宜上、これを、“キャノンボール”と呼ぶことにする」
男は、その銀色の球体を、小さな三角形の、透明アクリルの台座に載せた。そして、言葉を続ける。
「この光り輝く球体を、私は、ある場所に隠そう。さぁ、どこに隠すと思うかね?」
男は真紅の羅紗布を球に掛け、指を鳴らしてスタジオの照明を点けた。
男は、背後の巨大なモニターを振り返る。そこには、朝のJR新宿駅、西口改札が映っている。
「新宿駅。この巨大な駅の利用者は、1日平均で約346万人だ。この新宿駅の中に隠す?」
ノン。1時間もしない内に見つかってしまうだろうね、と男は言った。
モニターのカメラが駅から出て、そのまま上空へと舞い上がり、新宿駅を見下ろす航空写真に切り替わる。
「東京都内。1,300万人が生きる、2,187平方キロのどこかに隠す?」
ノン。味気ない、つまらない、まだスケールが小さい! と男は言った。
「関東? 日本? まだ足りない! 私がみたいのは、一大スペクタクルなのだ!」
男の声に合わせて、モニターの地図の縮尺がどんどん変化していく。
そして、ついには宇宙に浮かぶ地球が映し出された。
「私は、69億人が生きる、5億1,000平方キロの地球のどこかに、これを隠そう」
モニターの中の地球が展開され、平面的な世界地図になる。
そして、その地図の上に、無数の赤い点が描かれる。
「探すがいい! この“キャノンボール”を私の元へ届けたチームには、その栄誉を称え、この中に封じられた3つの宝石を進呈しよう。 知識を、技術を、経験を、閃きを! あらゆる人の力を繋ぎ合わせ、輝きに辿り着くがいい!」
地図の上の赤い点が、動き、集まり、そして文字に変わってゆく。
「最も多くの、そして最も有能なファンを集めたチームこそが、この栄光を勝ち取るだろう! 6組のアイドル達よ、地球上のどこかに隠された、この“キャノンボール”を追いかけるがいい!」
男は高らかに宣言をする。
「探せ! 世界のどこかに、それはある!」
男が右腕を大きく振り、羅紗布を剥ぎ取る。銀色の球体は、台座の上から消えていた。
BGMのクライマックスに合わせ、番組のタイトルが画面に映る――。
1
衝撃的な日曜、夜の生放送から2日。公式な情報は凪だった。
961プロから提供される情報は、毎週水曜日の12時、参加アイドル達に直接メールで送られる事になっていた。その1時間後、同じ情報は961プロの公式サイトに掲示される事になっている。だが、半ば社会現象に仕上げられたこの企画は、たった2日の空白すらも許されなかった。
黒井社長の宣言により、『キャノンボール ランデブー』の全てはフリーコンテンツとなっていた為、あらゆるTV媒体、雑誌、ネットニュースが自由に特集を組む事ができた。それは企画の意図や狙いについてであったり、“キャノンボール”の行方についてであったり、“キャノンボール”を探す事になった3人一組のアイドル達、18名についてであった。
765プロからは例外的に2チームが参加する事となり、またその人選も話題を呼び、取材の申し込みが殺到していた。961プロ主催の全参加アイドル合同記者会見では、各チームの代表が一言ずつ意気込みを語るだけだったせいもあり、マスコミはより価値あるコメントを取ろうと躍起になっていた。
如月千早は、言葉数が少なかった。チームメイトの2人に対しては強い信頼を表明し、この企画への参加を、自分自身の見聞を広める為の挑戦と位置付けていた。ラジオ等での共演が多かった同じ事務所の我那覇響がライバルチームとして参加する事についても、親友だからこそ全力を尽くします、と言い切っていた。
三浦あずさは、全ての取材に丁寧に答えていた。その内容は、海外旅行で行きたい国であったり、自身の方向音痴についてであったりといつもバラバラで、取材側が話題を提示しないと受け答えも迷子になる事が多かった。多くのマスコミの興味は、公私に渡って姉妹のように仲の良い星井美希がライバルチームに所属した点だったが、緊張や対立といったコメントは一切拾えず、海外で偶然会ったらどうしようかしら、といった微笑ましいものばかりだった。
水瀬伊織は、チームメイトの2人を立てながらも、海外が舞台になるのなら自分が様々な役割を果たさなければならないだろうと決意を語った。同時に、黒井社長の発言を自分なりに解釈し、ファンの皆さんの力を借りる事になるかもしれないから、その時にはぜひ自分達を助けて欲しい、と画面越しに訴えた。アイドルアルティメイトで熱戦を演じた四条貴音がライバルチームにいる点については、特に意識をしないようにするわ、と応え、別の事務所から参加するアイドル達と同様、しっかりその動きを見守って行きたい、と語った。
『765エンジェルス』とは対照的に、『765フェアリーズ』は常に3人でインタビューや記者会見に臨み、軽快にインタビューに答えていった。ライバルは? と問われればエンジェルスのメンバーを名指ししたし、勝つ自信は? と問われれば3人ともが自信満々に優勝宣言をする勢いだった。
「自分、飛行機の旅には慣れてるからな! どこだって飛んで行くぞ」
「じゃあ、美希はみんなの旅の安全を祈って、神社かお寺か教会に行ってくるね」
「私の帰りを待つ者達に、希望の光を届けましょう」
かつて、765プロと961プロが激突した『アイドルアルティメイト』。その記憶を思い返させるような『765エンジェルス』と『765フェアリーズ』との対立の構図。それこそが、本番前の『キャノンボール ランデブー』最大の話題であった。
そして、美希、響、貴音の3人を『765フェアリーズ』として参加させる事こそが、黒井からの要望だった。
2
“ 780,549038,72833,62040,632014,543,2056,285721,721,1018,505,2054,100,1 ”
水曜日、正午。その情報は、奇妙な数字の羅列だった。
そのメールを受け取った水瀬伊織は、スワロフスキーでデコレーションしたノートブックPCをプロデューサーに突きつける。プロデューサーは画面に目をやるが、それが、待ちに待った情報だとは思えなかった。
「最初の情報は数字とカンマ、この1行だけよ。これ、どうする訳?」
場を支配するのは困惑。ただ、それだけだった。
そして、次の瞬間、事務所の電話が一斉に鳴り始める。情報の一般公開を待ち切れないマスコミ各社からの電話インタビューの申し出だった。引っ越したばかりの事務所だったが、不幸な事に、電話線とインターネット回線に関する作業は滞りなく済んでいた為、同時に6台の電話が鳴っている。プロデューサーは両手を合わせてスマン、というジェスチャーをすると、小鳥と共に電話対応に掛かりきりになってしまった。
今日がたまたまオフだった春香ややよいも加わって765エンジェルスの3人と共に数字を見ているが、それが何を表すものなのか見当もつかない。
「カンマの位置が不規則なのは、手がかりなのよね。きっと」
あずさは思いついた事を口にし、春香ややよいがそれに感想や推理を重ねる。千早は黙って、まるで石の様に固まってしまった。伊織は大きくため息をつき、携帯電話を取り出して電話を掛ける。
『伊織からかかって来るとは思わなかったわ』
電話に出た律子が言った。
「そっちはどう動くの?」
『4人で考えても答が出そうにないから、早々に人を頼る事にしたわ』
律子から送られてきたアドレスを開くと、そこは『765フェアリーズ』のファンサイトとなっていた。
フェアリーズというチーム名は、961プロに所属していた当時の美希、響、貴音の3人が『プロジェクト・フェアリー』と呼ばれていた事に起因している。765プロではその名を使っていないし、3人が揃って露出するイベントや仕事もほとんどないのが現状だった。つまり、『765フェアリーズ』のファンサイトなど、あろうはずがなかった、のだが――。
「随分手回しがいいじゃないの」
『だってヒマなんだもの。3人はマスコミ相手にできるけど、私は日陰の身ですからねー』
「こっちに来て電話応対手伝いなさいよ。小鳥とプロデューサーがてんやわんやしてるわよ」
「あはは。こっちは電話機が無いから楽なもんよ」
旧765プロオフィス。たるき亭の上の住み慣れた空間が、『765フェアリーズ』の活動拠点だった。765プロから2チームが参加する今回の企画では――それが黒井の狙いであろう事は想像に難くないが――どこかで765プロvs961プロの構図を思い起こさせた。その空気を感じた律子は早々に、自分はフェアリーズ側に付く事を宣言し、まだ契約が2ヶ月残っていた古巣に簡易オフィス環境を構築していた。3人のマネジメントと体調管理、そして、『キャノンボール ランデブー』に関する作戦参謀を買って出る事にしたのだった。初期メンバーの律子がフェアリーズ側に付いた事により、事務所内の空気が違ったものになったのだが、当のフェアリーズはそれを意に介した様子もない。
律子は、妙に広く感じる事務所の中で1人、伊織と電話をしながら、リモコンを操作してテレビを付けた。
積んだ段ボール箱の上に置かれた小さなTVの中で、美希達がインタビューに応えている。
『ミキ達は今、765プロのみんなとは違う所でガンバッてるの! ホンキだよ!』
『淋しい気もするけど、この3人ってのも、なんだかちょっと懐かしい感じだな』
『私達に関する情報は、全てWebサイトにて公開させて頂きます。皆々様、今すぐ「765フェアリーズ」で検索を』
そして、美希が最高の笑顔でカメラのレンズ越しに呼び掛けた。
『ほんのさっき961プロから届いた暗号も載ってるから、気になる人は今すぐアクセス! 解けたらメールフォームからミキ達に送ってね! 最初に解けたスゴい人には、ミキお手製のおにぎりをプレゼントしちゃうね!』
画面がスタジオに移ると、スタジオのモニターには、『765フェアリーズ』のサイトアドレスとトップページが映っていた。
「サーバーも回線も問題なし。さぁ、どんどん見てってよね」
律子はキーボードを叩きながらアクセス解析をチェックしていく。アクセス数は、1分で30,000件を超えていた。
プロデューサーは時計を見る。12時10分。
「そういうことか……」
961プロのサイトに暗号が掲示されるのが13時。だが、実際にはフェアリーズのサイトに行けばその内容が全て確認できる。このたった10分間で、最新の情報が知りたければフェアリーズのサイト、という導線が出来上がってしまった。
「こっちも何か手を考えないとな」
しかし、最初の暗号解読に関して最も先行したのは、フェアリーズでもエンジェルスでもなかった。
3
金曜日、午前。
サンシャインシティ・ワールドインポートマートの5Fで、その4人はマスコミに取り囲まれる。
チーム『ブレイクスルー』の3人――日高愛、水谷絵理、秋月涼の3人と、引率者の尾崎玲子の4人は、東京都旅券課池袋分室から出た所で取材クルーに取り囲まれる事となった。
制服姿に不自然な帽子姿の愛と絵理、そしてグレーのノースリーブパーカーのフードを頭から被った涼の3人は、取材陣の問い掛けにも微笑を返すばかりであり、たまに小声で何かを会話するだけだった。
そして3人に代わって質問に応えたのは、尾崎だった。
「尾崎さん、今日、ここへ来たのは!?」
――もちろん、パスポートを受け取るためです。
「『ブレイクスルー』の皆さんのパスポート申請ですか!?」
――はい。
「暗号の答は、どこかの国を、あるいは位置情報を表しているんですか?」
――ノーコメント。他のチームに知られたくないので。
その後は突っ込んだ質問もいくつかあったが、全ては尾崎に遮られる格好となった。取材陣はその矛先を、ガードの固い尾崎からアイドル達に向け直す。どうする? と顔を見合わせる愛と涼を前に、
「……じゃあ、私から?」
と、絵理が小さく手を挙げた。
水谷絵理は帽子を取り、二度三度髪を撫で付けるように整えると、カメラに向かって笑顔で言った。
「……みんな、ありがとう、ございます? 私達、みんなのおかげで、優勝?」
「私達、優勝しちゃうかもしれません!!」
「あの、これからも私たちの応援、よろしくお願いしますね」
その日、ワイドショーの中で繰り返し放送されたそのシーンは、即座に複数の動画共有サイトにUPされ、【『ブレイクスルー』ファンの聖地】というタグが付けられる事となる。
「ネット系だとどうしても『ブレイクスルー』が有利みたいね」
伊織が、2人を前にして呟いた。
「そんなに?」
千早の問いに対して、伊織はため息をつく。千早にも分かるように説明しようとすると、途端に難易度が上がる。そしてあずさはそのさらに上を行く。
「律子辺りなら何らかのカウンターを出せるでしょうけど、私達やプロデューサーじゃ到底無理よ。いわゆるネットアイドルって連中が、軒並み『ブレイクスルー』支持を表明してるわ」
「あらあら、まるで選挙みたいねー」
その時、プロデューサーの携帯電話が鳴った。最初は不安げだったプロデューサーの声が次第に明るいものとなり、そしていくつかの確認を終えると、電話を切ったプロデューサーは3人に告げる。
「選挙ってはいい表現かもな。じゃ、俺達も、選挙活動を頑張ろうか」
プロデューサーは3人を会議室に集めると、ミーティングを開始した。プロデューサーの持っていたいくつかのイメージを結実すべく、段取りが整ったという連絡を受け、その内容を3人に伝える為だった。
4
「最初の曲行くわよ! 『GO MY WAY!!』」
伊織の声が、JCB HALLを埋め尽くしたファンのテンションをトップに引き上げる。
水曜、11時。『765エンジェルス』の電撃ライブは、発表された土曜日の時点で全席完売となっていた。ライブチケットの金額は全席1,000円。その破格の理由は、ライブの全内容をWebでも配信する、という前提のものだった。
その位置付けは明確。『765エンジェルス』が『キャノンボール ランデブー』に対する意気込みを語る場であり、より多くの支持者を集めるための営業活動であり、ファンとの結束をより強固にする決起集会であった。
「聴いて下さい。如月千早で、『目が逢う瞬間』。アコースティックバージョンです」
5曲が終わった所で、3人が揃ってステージに立つ。時刻は11時50分。会場も、その中継を見守る人間も、この後何が起きるかは理解していた。ステージ袖でプロデューサーが合図を送る。それを皮切りに、3人のトークパートが始まった。
トークの内容は『キャノンボール ランデブー』に関する内容に特化していた。ニュースやインターネットの情報によれば、最初の暗号を解読したと思われるのは876プロのチーム『ブレイクスルー』と、東豪寺プロの『ルシファー』の2チームらしい。ただし、その2チームも解いたと思わせる行動を取っているだけかもしれず、同時に他のチームも解けていないフリをしているだけかもしれない、というのが実情だった。事態は、高度な情報戦へと発展していた。
「その点、私達はまださっぱり――」
千早の声が、途中で止まった。ステージ上の3人は顔を見合わせ、袖のプロデューサーの合図を確認する。メール着信の合図。それはつまり、961プロからの第2の暗号の到着を告げるものだった。
「新しい暗号が届きましたー。みなさーん、私達と一緒に考えて下さいね〜」
そして次の瞬間、千早の携帯から転送されたメールの内容が、ステージ背景のディスプレイに映し出された。
“ -E2g0P 2S4d9G 2E5t1b 2K5e4S 2C4d3F 2U5g6S 2R5w0F 2B5i7F 2T5z5S ”
会場はどよめき、そして、その多くが携帯電話を取り出し、会場外へと情報を送る。今回のライブでは、トークパート中に関しては、携帯電話の使用を認められていた。それが何を意味しているか、主催側も参加者側もよく分かっていたし、そしてそれは予想通りの効果を巻き起こしていた。
匿名掲示板群である『@ちゃんねる』の暗号板でも、その情報は、ほぼリアルタイムで共有されていた。大学のミステリー研究会や文芸部でも話題になり、理数系の研究室でも息抜きと称して挑戦された。
『765エンジェルス』の電撃ライブ中、12時の時点で暗号を公開する事が事前に告知されていた為、千早や伊織、あずさのファンではないが暗号を見る為にこのライブを視聴する、という者もかなりの割合で含まれていた。
「前回は数字だけだったけど、今回はアルファベットも混ざっているのね」
千早がディスプレイを見上げて言う。
「間が空いているから、答は何かが九つになるのかしらね」
伊織の声を聞いて、あずさが指を折って何かを数え始める。
「水、金、地、火、木、土、天、海、冥?」
「地球のどこか、って話でしょ! なんで宇宙まで行こうとするのよ!」
伊織がとっさにツッコミをいれると同時に、会場からは、あずささん迷子すぎるよ! という声が飛んだ。
「それに、冥王星は準惑星に格下げになったから同列にはならないわよ」
両頬を押さえ、顔を赤らめて笑うあずさをよそに、伊織は会場に向かって声を掛ける。
「みんなー! 私達は前回の暗号もまだ解けてないけど、今回の暗号は絶対、絶対解きたいの!」
伊織は精一杯の声をあげ、今、自分の声を聞いている全ての者へ届くように祈った。
「解けたら私達に教えてちょうだい! 他のアイドルチームに浮気したら、伊織、泣いちゃうからねー!」
会場が、揺れるような歓声に包まれる。ライブは、あらゆる意味で大成功だった。
ライブ終了後、プロデューサーが楽屋を訪れる。着替え前の3人は不思議そうな目で、プロデューサーが差し出した携帯電話を見る。
「先週の暗号を解いたというファンの方からです。千早、あずささん、内容を聞いてください」
事前に打ち合わせは済んでいた。こういう展開になれば、正答、誤答はともかく、必ず『解けた』というファンからの連絡が殺到するはずだ、と。その全てをエンジェルスに対応させる事はできないという判断により、寄せられた答はまずプロデューサーが聞き、間違いの無い内容だ、と思えばエンジェルスに取り次ぐ事となった。
そのプロデューサーが、今、携帯電話を千早とあずさの2人に携帯を差し出している。
緊張しながら顔を見合わせた2人だったが、まずは千早が携帯を左手で受け取った。右手ではペンを持ち、テーブルにノートを開いて書きとめる準備をする。
「お電話代わりました。如月千早です」
「あ、ライブ、ネットで聞いてました。本当は暗号目当てで、皆さんの歌を聴いたのは、すいません、今日が初めてなんですけど……」
相手の緊張が手に取るように分かった。そしてそれが千早の緊張を解きほぐしていた。
「ありがとうございます。私達の歌は、いかがでしたか?」
「あ、はい! すごく良かったです。普段、CDとかあんまり買わないんですけど、でも、買いに行こうかなって」
千早の携帯に耳を近づけ、2人のやり取りを聞きながらあずさも微笑んでいた。
「ちょっと。バカプロデューサー。なんで私がのけ者なのよ?」
「慌てるなよ、伊織。この電話の主は3人内の誰かに、って事なんだが、暗号解いたってファンがもう1人いて、その人はどうしても伊織に伝えたい、って言うんだよ」
「あ、そ、そう? なら仕方ないわね。私じゃなきゃ嫌って言うなら――って、どうして私は部屋を移動してるのよ」
プロデューサーは廊下を歩きながら、状況を説明する。伊織を指名してきたファンは、今日のライブの観客の1人だった。驚くべき事に、ライブ会場で発表された暗号をその場で解いてしまったという。ライブ終了後、スタッフ経由でその内容を聞いたプロデューサーは驚愕し、しかし、それが正解である事を確信していた。
「本人が、別の控え室で待ってる。一応俺も入るから、トラブルにはならないだろう。直接答を聞いてくれ」
「間違いないんでしょうね?」
「ああ。間違いないと思う。あとで、千早達の聞いた答と付き合せてみろ」
伊織は違和感を憶えた。千早達に届いた答は先週の暗号の答のはずだ。だがそれは口にせず、プロデューサーに促されるまま、目の前の扉を開けた。その部屋の奥には、小柄な――伊織と大差ない年格好の少女が立っていた。
「あなた、前に会った事あったわよね?」
伊織は、開口一番そう言った。少女の面影は、記憶にあった。いつだっただろう。TV局で会ったはずだ。
「そうよ。女子高生クイズ王じゃない」
伊織の記憶が鮮明に甦る。半年ほど前、駆け出しアイドル達がその道の達人に挑戦する、という企画番組に出た時だ。伊織は他のプロダクションのアイドルと5人でチームを組み、目の前の少女にクイズで挑んだのだった。結果こそ惨敗だったが、実際の所、伊織と彼女、1対1の勝負だった。
「伊織ちゃんに憶えていてもらえて、嬉しいです!」
少女は輝くような笑顔で伊織に駆け寄った。番組での共演以来、伊織のファンだという彼女は今日のライブでもほぼ最前列に陣取っていたらしい。
「今日の暗号、もう解けちゃったわけ?」
「はい! 解けたというか、なんとなく『見えた』んです。念の為にと思って調べてみたら、間違い無さそうだったので!」
半信半疑の思いを表情に出さぬように気をつけながら、伊織は少女の話を聞いた。そして伊織もすぐに、彼女の興奮に巻き込まれていった。
「タンザニア」
「ありますよー」
「タンザニアは……ここね」
「ブルンジ」
「入ってまーす」
「初めて聞く国名だわ。えっと、これね」
伊織はクイズ王の少女から聞いた9つの国名を読み上げる。あずさは電話で聞いた答の中にそれが含まれているかどうかを確認し、千早はプロデューサーがライブ直後にインターネットからダウンロードした白地図を、サインペンで塗り分けていた。
ルワンダ、ウガンダ、コンゴ共和国、ケニア、エチオピア、スーダン、エジプト。
伊織の持つ答とあずさの持つ答は全て合致した。最初の暗号も、今日の暗号も、どちらも9つの国名を示すものだった。
そして、千早の塗った地図を全員で眺める。
「この国のどこかに、“キャノンボール”がある、という事でしょうか。プロデューサー?」
「間違いないだろうな。この時点でも、日本全体の何倍も広いんだ。最初の絞込み、という事だろう」
あずさは、困ったような顔をしてため息をつく。
「アフリカですか。遠いですねー」
「まだ範囲が広すぎますから、仮に現地に行ったとしても、何もできそうにありませんね」
それは、4人の共通見解だった。おそらく次週公開される情報で、もう一歩前進できるはずだから、それを待とう、と。
ただし、伊織はその頭の中で今後の展開についていくつかの可能性を考えていた。
5
3週目に入る頃には、それぞれのアイドルチームが独自のサポーターコミュニティを形成していた。そして、同時に情報収集の手段も確立されていった。暗号の答がなくてはその先に関する予想ができず、しかし、それを公でやってしまえばせっかく解いた暗号の答を他のチームに知られてしまう事となる。おのずとコミュニティ内部のセキュリティ意識は高まり、しかし同時に他のチームのコミュニティに潜り込んで情報を入手しようとする者も後を絶たなかった。
月曜。いくつかの動きがあった。
『765フェアリーズ』の3人が朝一番の新幹線を使って京都へ向けて移動したのだった。
律子のスケジュール管理は完璧で、番組収録やPV撮影を前倒しして終わらせてあり、その圧縮したスケジュールによって作られた空白は、6日分に及んだ。プロデューサーは、なぜ京都に行くのかと律子に聞いたが、律子はただ一言、勝利の為なら使えるものは全て使いますよ、と答えるだけだった。
「やっぱり、そう来る訳ね」
伊織は苦々しい表情でそう呟くと、絶対負けられないわ、と携帯を手に取ったのだった。
その行動が、マスコミによって国民に広められる事は無かった。
“キャノンボール”は国外にあるとされていた為であり、また、『765フェアリーズ』が京都で仕事をする訳ではない事は、同じ765プロ陣営でない限り知る由も無い。つまりほとんど全てのマスコミは、『765フェアリーズ』の京都行きを営業の一環だと考えていたのだった。
そして、『765フェアリーズ』の行動以上にマスコミの目を引いたのは876プロ、チーム『ブレイクスルー』の動きだった。
『ブレイクスルー』は、プロデューサーの尾崎玲子と岡本まなみの2人を加えた5人編成で、成田からの国際線を使い、出国したのだった。行き先はギリシャ・アテネ。この事から、“キャノンボール”の在り処はギリシャとする声が一気に高まり、後付けのような強引な解釈で、先の2つの暗号をギリシャに結びつける番組も現れた。
「プロデューサー。876プロの皆さんは、なぜアテネに向かったのでしょうか?」
千早が聞いた。プロデューサーは腕を組み、2つの可能性を提示した。
「1つは、暗号を誤って解いてしまい、その答がギリシャだった、という可能性」
「もう1つは?」
「もう1つは、俺達と同じ答えに辿り着いていて、それをカムフラージュする為、かな」
プロデューサーも確信は無いようだったが、しかし、それしか考えられない、という言い方だった。
「仮に、9ヶ国のうちのどれかに向かったなら、他のチームもすぐに後を追うだろう?」
「そうですねー。なんとなく、負けちゃいけない気分になりますね」
あずさも、その状況を想像してみて、不安そうな表情で頷いた。
「でも、ギリシャなら、焦って追う必要は無い――と思いますよね。なんとなく」
「ダメよ……」
伊織が、小さな声で呟いた。プロデューサーも、深刻な表情で頷いた。
「そう。アテネからカイロへは、直行便が出てるんだ。かかる時間は、1時間45分だそうだ」
東京からエジプト・カイロへは、直行便に乗ったしても7時間前後。仮に、東京とアテネに分かれたまま水曜日を迎えたとすると、チーム『ブレイクスルー』は5時間程度のアドバンテージを持つ事となる。
「さて、どうしようか」
腕組みをするプロデューサーを尻目に伊織はノートブックを操作すると、提案ではなく決定事項として3人に告げた。
「決まってるわ。プロデューサーは今日中にスケジュールの調整をしてちょうだい。私達も明日、日本を発つわよ」
「水瀬さん、いったいどこへ行こうというの?」
「エジプトのカイロよ。現状で最も“キャノンボール”に近い場所だわ」
伊織はノートブックの画面を3人に見せる。そのディスプレイには、一通のメール本文が表示されていた。
伊織ちゃん
9ヶ国の共通点ですが、この9ヶ国は全て、ナイル川流域です。ブルンジから始まり、エジプトの河口まで、6,650kmの長さです。
これは個人的な想像ですが、“キャノンボール”はどこかの国にあるのではなく、ナイル川のどこかにあるのではないでしょうか。
ナイル川関連だと、アスワン・ハイ・ダムなんかが有名です。あと、ナイルクルーズの定期観光船などもあるそうです。
水曜日になったら、また新しい情報が出ると思うので、楽しみにしています。
メールの着信は昨日の夜10時。そして、メールの着信から伊織は行動を加速させていた。
「876の3人が動いてる。フェアリーズも動いてる。もう、座して待つタイミングじゃないわ。総力戦よ!」
伊織の気迫に、3人も共感していた。
今や、『765エンジェルス』がTVに登場しない日は無い。その顔が、意気込みが、表情が、日本中に広まっていた。
『765エンジェルス』に向けて、毎日数百通の応援メールが届いている。暗号の回答も、様々な形で寄せられている。元々千早の、あずさの、伊織のファンだったという人達が、応援してくれた。『キャノンボール・ランデブー』で初めて3人を知ったという人達が、声援を送ってくれた。
その声に応える為にも、負ける訳にはいかない、と、全員が思っていた。
動きを見せるべきだ、と千早は思った。応援のお陰で、確かに前進している事を伝えたい、とあずさは思った。
「行きましょう、水瀬さん」
「そうねー。私達も、じっとしていられないわよね」
千早とあずさの2人も、その気持ちを抑え切れなくなっていた。プロデューサーも、3人の熱意に応えたいと思っていた。
「スケジュール調整の根回しはできてる。でも、明日のエジプト行きチケットの手配までは――」
「大丈夫よ。私だって、『勝利の為なら使えるものは全て』使うわ」
4人は改めて決意を固め、勝利を誓った。
6
“ 10 00011 11111 11111 00011 00111 00111 0 00011 01111 01111 00001 00111 00111 ”
“ 10 00111 11000 01111 11100 00011 00011 0 00011 01111 01111 11100 00000 10000 ”
“ 000 001 10 000 0 0 101 0 010 11000 00001 01 000 1011 001 1 1 111 001 010
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『キャノンボール・ランデブー』開始から3度目の水曜日――。
第3の情報が届けられた時、6チーム中4チームが日本を離れていた。1チームは南米に、1チームはオーストラリアに、そして2チームが地中海沿岸部に飛んでいた。876のチーム『ブレイクスルー』がギリシャのアテネに、そして、『765エンジェルス』がエジプトのカイロに移動していた。
唯一消息不明なのは『765フェアリーズ』だった。出国の形跡は無いものの、京都からの消息も追えていない。765プロには4名とも、10日間の休暇届が提出されていた。届けを受理した小鳥に対してプロデューサーは軽い恨み言をいったが、書類の書式もスケジュール調整も完璧だった為に却下はできず、また、休暇の理由や内容については一切不問、というのが765プロの伝統だった。緊急連絡先は預かっているが、緊急と言えるような口実は、見つからない。
「気にしても、しょうがないか……」
プロデューサーは、車の窓の外を流れる乾いた景色に目をやりながら、4人の無事を祈っていた。勝負事には熱くなる響と、マスコミの話題に上る事に積極的な貴音、お祭騒ぎが大好きな美希。その3人をサポートするのは、ビジネスチャンスを決して逃さない律子だ。日本中が、そして最近では海外からも注目されているこの『キャノンボール・ランデブー』の中で、『765フェアリーズ』がこのままフェードアウトするとは思えない。おそらく、何かを狙っているはずだった。
「着いたわよ」
伊織の声。グレーのスーツを着たプロデューサーに続き、それぞれデザインは異なるものの、白いワンピースで揃えた3人が続いた。
エジプト考古学博物館――通称、カイロ博物館と呼ばれるその博物館の前庭が、今日のライブ会場だった。
『765エンジェルス』は、エジプト大使館 エジプト学・観光局から任命された“エジプト観光親善大使”として、出入国手続きを極限まで簡略化してエジプトへの入国を果たしていた。そして、そのライブと暗号の発表は、衛星回線を通じて世界6ヶ国で同時中継される事になっていた。気温は36℃。覚悟していた程ではない。湿度が無い分だけ、日本の真夏日よりも過ごしやすいかもしれなかった。
「途中の水分補給だけ気をつけろよ。あと、日本人学校からも団体さんが来てくれてるから、バシッと決めてこい!」
「はい!」
プロデューサーは、3人を送り出して一息ついた。そして考える。このステージは、これまで3人がこなした仕事中、断トツで大きな仕事なんじゃないだろうか、と。
「『セインツ』から答が来たぞ!」
ライブを終え、いつも以上に消耗し、そして充実した気分になっていた3人に、プロデューサーが駆け寄った。『765エンジェルス』のサポーターチームはいつしか聖人――セインツ――と呼ばれるようになっていた。セインツはいくつかのチームに分かれ、独自の手法で暗号解読を進めている。その内の1チームが、暗号の答を導き出していた。衛星回線で結ばれたチャンネルを経由して、千早がその内容を確認する。
「最初の2つは、エジプトの都市、2つを表しているそうです。『カイロ』と『アスユート』?」
「アスユートは、エジプト中部の都市です。カイロからなら、ナイルを遡る観光船か、アスワン行きの鉄道で向かえます」
エジプト観光局の局長が、丁寧な日本語で応える。かつてエジプト政府の駐日大使を務めた、水瀬家とも親交の深い親日家だった。
「その、どちらかに、“キャノンボール”が隠されている、という事でしょうか?」
「ええと、それについては……はい、ちょっと待って下さい」
千早は聞こえてくる文字を手元のノートに書きとめる。
S 、U、 N、 S、E ―― SUNSEEKER 74 ASYUT TOUR COMPANIES WATER TRANSPORT.
その文字列を見て、観光局局長が大きな声を挙げた。
「アスユート水運のサンシーカーか!」
「知っているの?」
局長は大きな声で部下の数人に指示を出したあと、伊織の両手を取って大きく上下に振った。
「今、運行ルートを確認させています。案内します。アスユート観光は2ヶ月前、日本からサンシーカー・マンハッタン74という船舶を1艇、中古で購入しているんです」
7
エジプト空軍の所有するウェストランド社製捜索救難型ヘリ、COMMAND Mk.1により、マンハッタン74の次の寄港地であるベニスーフに先回りした4人は、ナイル川を遡行するマンハッタン74に乗り込む事ができた。観光局による確認、という事で観光客と乗組員は全て下船させる。プロデューサーは観光局局長に重ね重ね礼を言ってヘリを降り、船に乗り込んだが、伊織はそれに加えて、エジプト空軍のレーダー網についていくつか確認をしていた。
「伊織、何を心配しているんだ?」
「決まってるでしょ。他のチームに、もう逆転の目はないわ。唯一可能性があるのは、フェアリーズよ」
「いや、でもフェアリーズが日本を出たって話は聞いてないぞ?」
「ああ、そうね。アンタは知らないのよね。でも、あっちが手段を選ばないって事は、国境なんて関係ないって事なのよ」
二手に分かれて船の中を捜索する最中、伊織は一度、衛星回線を通して電話を掛けた。
「新堂? 私の携帯GPSは捕捉できてるわね? これより回線は常に繋いでおくわ。現況を【case,6】として全局面対応をしなさい」
『――かしこまりました。お嬢様』
【case.6】は水瀬家当主が営利目的の誘拐の標的となった場合の緊急措置の総称だ。しかし、2拍遅れて伊織の耳に届いた新堂の声は、それでもいつも通りの声だった。
座礁、あるいは転覆――そうとしか思えないような衝撃だった。
船底の機関室にいた『765エンジェルス』の3人とプロデューサーが床に倒れる。一瞬の空白。壁に打ち付けられた3人も意識が飛びそうになったが、その瞬間、プロデューサーの声が聞こえた。
「大丈夫か、伊織! 千早! あずささん!」
その声が、3人の意識を繋ぎ止める。
「当ったり前よ!」
「大丈夫です、プロデューサー!」
「はい。ちょっとびっくりしちゃいました」
3人は状況を確認する為に甲板に上がる。そして、そこで思いもよらない光景を目にするのだった。
「これは……」
それはとても奇妙な、そして非現実的な光景だった。蜘蛛の糸に絡め取られた木の葉のように、その船は中空に浮いていた。そして、100mほどの高度を維持したまま、ナイル西岸の上空へと向かっていた。行く先には、リビア砂漠が広がっている。
その光景に驚きつつ、しかしあずさは体調の変化に耐えられなかった。
「なんだかちょっと、気分が悪いわね」
「あずささんも、ですか? さっきの揺れから、私も……」
千早とあずさがうつむいている。プロデューサーは2人を心配している。鈍感もたまには便利ね、と伊織が笑って言った。
「重力のほとんどが打ち消されてるのよ。三半規管がでたらめになってるんだから、気持ち悪くもなるわ」
伊織は忌々しそうに真上を見上げる。空に、光の歪みの輪郭線が見えていた。
――手段は選ばずにも、程があるでしょう。四条貴音!
伊織は、自分の力を、家の力を使うつもりは無かった。少なくともこの『キャノンボール・ランデブー』で、水瀬家に頼るつもりはなかった。しかし、貴音がオーパーツを持ち出すなら話は別だ。右の皿に錘が乗ったなら、左の皿にも錘を乗せなければつり合いが取れない。
「新堂! 『天照(アマテラス)』照射準備! 出力は35%、標的は私よ!」
『かしこまりました』
一瞬の大気の震え。そして収縮――。
次の瞬間、4人の姿は完全な影の中に呑み込まれていた。
「何が起きたのですか!」
貴音が叫ぶ。ブリッジのクルーの1人が、状況を、正確に伝えた。
衛星軌道上からの収束レーザー照射による衝撃。その影響により、『空舟・皇(そらふね・すめらぎ)』の透過外装の上面が焼け落ち、銀幕幻影壁の展開が不完全となっていた。このままでは、エジプト空軍のレーダーに捕捉されるのも時間の問題だ。
「反重力場生成装置の出力も不安定になります! エネルギー経路の再編成、再構築の指示をお願いします」
貴音は状況を判断しかねていた。反重力場生成装置を切れば、『765エンジェルス』を乗せた船は垂直落下する。この舟を、軍やマスコミのカメラに晒す訳にはいかない。どうするのが最善か、と、考える時間の分だけ、状況は逼迫してゆく。
「現時刻を持って、『皇』の指揮は私が引き継ぐわ。『フェアリーズ』は『羽掃(ははき)』と『笹舟(ささふね)』を使って、“キャノンボール”を追いなさい」
律子の声がデッキに響く。貴音は一瞬躊躇したが、響に袖を引かれ、一度だけ頭を下げた。
「縁起でも無い雰囲気作らないでよね。密入国者とか侵略者扱いされるのは、私だってゴメンよ!」
律子の声に悲壮感は無く、むしろこの難局を楽しんでいるかのような雰囲気だった。
「デコちゃん! 千早さーん! あーずさー! ハニー!」
突然上空に現れた鉄の舟の後方ハッチから飛び出したジェットスキーのような乗り物の上で、美希が叫んだ。
「その船は危ないから、こっちに乗り移れ! 手を掴むんだぞー!」
響の声と同時に、船が大きく傾いた。その瞬間、脱出用小型ボートを覆っていた幌が剥がれ、遥か下方に落ちていく。これが沈み行く船である事は、明白だった。
「プロデューサー殿! 申し訳ございません。事態は急を要します!」
細かな振動が足を伝った。姿勢を維持するのも困難な傾きの中で、プロデューサーと伊織は美希の操る『笹船』に乗り移る。しかし、気分が悪い、と言っていた千早とあずさは、なかなか乗り移る事ができずにいた。
千早は、あずさに寄り添うようにして、小さく呟く。
「私は、この冒険の中で、何か役割を果たせていたでしょうか?」
あずさは、何も答えられなかった。同じ疑問を抱いていた。問題の回答を導き出した訳でもない。エジプト行きの特別なルートを作った訳でもない。いつだって、プロデューサーと伊織の作った道を、ただ楽しく、一緒に歩いてきただけだった。
「最後くらい、先輩らしい所を見せないといけないわよねぇ」
あずさが言った。
今、二人の目には、同じ物が映っていた。
脱出用小型ボートの中で、支えのワイヤーに押さえられている銀色の球体――“キャノンボール”。
2人はそっと手を取り合うと、既に急斜面となっていたマンハッタン74のデッキを駆け下りる。
砂漠の熱風が舞い上がり、2人の身体を宙に舞わせた。
驚く響。振り仰ぐ貴音。自らも飛び出そうとする伊織と、それを必死で押さえるプロデューサー。
手を伸ばすあずさ。その身体を守ろうとする千早。
そして――。
終
日本に帰った『エンジェルス』と『フェアリーズ』を待ち受けていたのは、驚くほど多忙な毎日だった。
最終的に主催者である黒井の元に“キャノンボール”を持ち込んだのは、『765エンジェルス』の3人だった。黒井は真贋を確かめる、という名目の元、TVカメラの前で“キャノンボール”をカットし、その中身を公開した。中に入っていたのは“古きムーサ”と呼ばれる3つ一組の宝石であり、“記憶”を司る女神・ムネーメーの名を冠したスターガーネットと、“歌唱”を司る女神・アオイデーの名を冠したスターサファイア、そして“演出”を司る女神・メレテーの名を冠したスタールビーの3つだった。かつてアテネ国立考古学博物館にも飾られた事のあるというこの宝石達は、装身具としての形になる前の裸石の状態でありながら、3つセットなら1億円は下らない、という稀代の宝石だった。
そして、アイドル達が得たものは、それだけではない。
実際の所、『キャノンボール・ランデブー』に参加した6チームの知名度は芸能界屈指となり、アイドルというカテゴリーに収まらない仕事の数々も舞い込んでくるようになっていた。報道やドキュメンタリー、密着取材などでその素顔とキャラクター性を広めたアイドル達は、知性や勇気、度胸。信頼や友情、尊敬といった様々なイメージを背負い、キャンペーンやCMに引っ張りだことなっていた。
凱旋ライブを行い、大歓声の中、3度のアンコールに応えた『765エンジェルス』の3人は、楽屋でゆっくりと過ぎる時間を感じていた。嵐のような日々だったが、実に良い経験だった。ただ、未だに謎なのは、なぜ961プロがこんな企画を打ちたてたのか、という1点だった。
「まさか、私達の知名度向上の為に一肌脱いでくれた、という訳では無いでしょうし」
「うーん、分からないわねぇ」
「ったく。つまんない事に頭使ってんじゃないわよ」
伊織は大きな声で2人を叱り飛ばすと、とっとと着替えを済ませなさい、と尻を叩く。
今日は、3人で寄り道をして事務所に帰る予定だった。
行きつけの宝石店に出した宝石が、そろいのペンダントとなって完成しているはずだった。1億だろうが、関係ない。
あの宝石は、3人の胸元で輝くのが一番相応しい、と伊織は確信していた。
伊織ちゃん
お久しぶりです。キャノンボールランデブーの優勝、おめでとうございます。
色々お話したい事はあるのですが、1点だけ、ご報告をしようと思い、メールします。
私は来春から社会人になることになりました。勤務先、どこだと思いますか?
実は、ある芸能事務所の方からスカウトが来て、広報とイベント企画のアシスタントをする事になりました!
残念ながら765プロではないのですが―― |