蝉の命は、7日しかないという。だから、彼らにとってはいつだって、今日が夏の盛りなんだろう。

 昨日でもなく、明日でもなく。ただ、今日だけがそこに在るのだ。

 随分過ごしやすくなってきましたね、なんて会話は彼らには無縁で、もし涼しさを感じるとしたら、それは自分の命の炎が勢いを落としているという事実であり、それは迫り来る死期として恐ろしく感じられる事だろう。

 ……そんな事を考えると、人間にとっては鬱陶しいだけの、この正午の息苦しい暑さも実は貴重なものなんじゃないかと錯覚できそうな気がする。そう思えば、駅から歩く二時間半の道のりもまた、耐えられようというものだ。


 歩き疲れて立ち止まり、口を大きく開けて、一呼吸。
 口は、山の濃い緑の薫りと蝉時雨を肺の中に呼び込む通路となって、ちっとも疲れは取れなかったけれど、僕がいかに郷里に近付いたかを伝えてくれた。
 夏の盛り。彼らは夏と恋を謳歌している。短い命だから、全力で生きるしかないんだろう。
 そうでない僕は、果たして幸か? 不幸か? ……いや、答なんて、決して出やしないのだ。どう感じるか、或いはどう思い込むか、ただそれだけの話。
 そして、迷った時、焦った時、苦しい時――。

 僕はいつも、あの人の声を思い出す。
 銀色の髪と、柔らかな微笑を、思い出す。


    いつかのある日。
    青年は、石段の下から手を振った。
   「今日は、晴れますよね?」
    少女は、石段の上から微笑んだ。
   「晴れるかもしれませんし、降るかもしれませんね」
    一往復だけの会話。
    それが、いつもの会話だった。



 


 

 





 汗で濡れて肌にぺたりと張り付くワイシャツがひどく不快で、いっそ脱いでしまおうかとも考えたけれど、あと少しだからと自制した。
 町の入り口を直前にして、最後の別れ道。僕は、町の入り口の逆を目指す。細い細い登り坂を、踏みしめ、懐かしみ、湧き上がる微笑に、嫌気が差した。僕はちょっとだけ高い所から、故郷を見下ろしたかった。あるいは、見下したかったのかもしれない。
 偶像町――。
 古い推理小説に出てきそうな名前の、いつまでも変わらない古い町。そして僕の生まれ育った町だ。
 この細い登り坂は途中で大きく曲がるのだけれど、実は真っ直ぐ進む路が、さながら細いけもの道のように町の裏山に繋がる。この町の子供達なら誰もが知ってる、秘密の隠れ路。
 熱い日差しを木々の枝葉で避けながら、もう一度、蒸れた山の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 


    いつかのある夜。
    青年は、銀色の髪の少女に声をかけた。
   「夏祭の夜は、晴れますよね?」
    少女は、箒を繰る手を止め微笑んだ。
   「晴れるかもしれませんし、降るかもしれませんね」
    一往復だけの会話。
    青年は、そんな会話が好きだった。



 ほんの五分ほど、町全体を見下ろした。何一つ変化が見つけられず、その事を嬉しく思っている自分が少し意外だった。
 帰ってきた――。
 その感覚が足元から胸元まで這い上がってくる。まるで絡め取られてしまいそうで、二度と抜け出す事ができないようで、それでいて簡単に手放されてしまうような、薄情さにも似た優しさのある町だ。

 


    いつかのある日。
    青年は、石段の途中まで登って聞いた。
   「今年の夏は、暑くなりそうですよね?」
    少女は、町の裏山を振り仰いで微笑んだ。
   「暑くなるかもしれませんし、意外に過ごしやすいかもしれません」
    一往復だけの会話。
    青年は、その言葉をいつも良い方に解釈していた。

 



 細い細いけもの道を下りながら、つい、歌を歌ってしまっていた。
 誰もいないはず、という思い込み。屋外という開放感。あとは、そう、町に聴かせたかったのかもしれない。
 ――お前は知らないだろう? お前の外では、こんなにも華やかな歌が街を彩っているんだぞ。
 けれど、この町は、もうその歌を知っていた。僕の独唱は、いつしか斉唱となっていた。
「春香、ちゃん?」
 町を出た、と聞いていた少女が目の前にいた。歳が離れていたから幼馴染というほど親しくは無かったけれど、何年か前から、一足先に町を出た僕の事をセンパイと言って慕ってくれるようになっていた。
「センパイ! 戻るなら連絡くらいくれてもいいじゃないですか!」
 確かにそんな約束をしていたし、そして僕はそれを守ったはずだった。
「いや、一応帰る前に電報は打ったよ?」
「……あれ? それって、いつ頃ですか?」
 なんの事は無い。僕の電報を確認するよりも早く、夏休みに入った春香ちゃんの方が先に帰郷していた、というだけの話。僕の電報は、春香ちゃんの下宿先の方が受け取ってくれたのだろう。そして、春香ちゃんは少し気まずそうに明後日の方向に視線を逸らす。
「春香ちゃんは、今からお社?」
「はい! 学校の宿題で、絵を出さないといけないので!」
 そういって、画板と画材鞄を掲げて見せてくれた。
 町の裏山に登って、小道からさらに少し奥に入ると、何が祀られているのか良く分からない小さなお社がある。そこは偶像町の子供達の格好の探検スポットであり、普段の行動半径の中では――つまり、子供が普通に歩いて行ける場所としては――最も遠い場所だ。
「もっと、町の中で描きやすい物もあるんじゃない?」
「いえいえいえいえ! 誰かに見られたら恥ずかしいじゃないですかっ!」
 そういって、顔を真っ赤にする春香の顔は、半年前よりも少し、大人っぽく見えた。
「春香ちゃん、綺麗になったね」
 暖炉の中の石炭みたいに頬を真っ赤にして、春香ちゃんが両頬を押さえる。
「え、えっと、突然そんな事を言われても、もう! センパイったら、正直過ぎますよっ!」
 その表情は、なんだかきらきらと輝いて見えた。蝉達が、一斉にじりじりと鳴いた。

 



    いつかのある夕暮れ。
    青年は、鳥居の下から聞いた。
   「今年の夏も、蛍は飛ぶでしょうか?」
    少女は、本殿の入り口から答えた。
   「飛ぶかもしれませんし、飛ばないかもしれません」
    一往復だけの会話。
    青年は、その後で一言、言葉を足した。
   「蛍は見ておきたいです。都会には、いないと聞いていますから」



 町の中を流れる小川に沿って歩く。夏。今でもきっと、夜は蛍が飛ぶのだろう。
 小川にかかる小さな橋を渡る。せせらぎ。祭の夜は今でも、灯篭が流れるのだろう。
 この町の事は、嫌いじゃない。忘れたい訳じゃない。
 それでも、自分の夢を叶える為には狭い箱庭で、水の入れ替わらない沼みたいな環境で。
 それでも。
 それでも。
 それでも。


 家に帰る前に、少しだけ回り道をする。
 何かと理由を付けては回り道をして立ち寄った神社。
 ただ、ほんの少し言葉を交わすだけで満たされた時間。
 渇いた喉にしみこむ水のように。
 空いた腹にかきこむ飯のように。
 そんな想いも、今は少し形を変えていた。
 町への想い。あるいは未練。その中心にある紅い点。その輪郭が、今は滲んでいる。


 石段を登る途中で声を掛けられた。
「お帰りなさい」
 見上げれば、風に揺れる銀色の髪。緋色の袴。
「ただいま、戻りました」
 口にして、はじめて自分が偶像町に帰ってきたのだと感じた。
 ここに、帰る理由のひとつがあった。


「僕の実家は、ようかんを作っています」
「通わせて頂いております」
 偶像町は、水が美味い。何度か旅をして名水と呼ばれる水を口にしたけれど、そのどれもが偶像町の水ほど美味くはなかった。
「両親は朝早くから小豆を煮ます。使う砂糖と塩と、水。どれもが大切で、作業中は一瞬も目が離せません」
「本練羊羹も絶品ですが、夏だけ味わえる水羊羹はまた格別に美味しゅうございますね」
 風が吹いた。一瞬の涼風。水だけでなく、風もまた味を作るのかもしれない、と気が付いた。
「両親は、僕に後を継いで欲しいと思っています。でも、僕には別の夢があって――」
 贖罪。懺悔。免罪。教会の神父を相手にした告解のように、自分の身を切りつけながら言葉を紡ぐ。
「僕は、音楽の世界に生きたいと思っています。僕の作った旋律を、世の中に出したいと」

 決意と、それを告げる為の帰郷。

 苦しさと、申し訳無さと、それでも決して諦められない夢を伝える為の旅路。
 音楽大学に受かった事を告げた時
の両親の顔が、脳裏に浮かぶ。
 苦しそうな顔で、搾り出すように言われた『おめでとう』の言葉は、今も僕自身を責め続ける。

 あんな表情をさせた自分を、自分自身の声が責める。

 誰かに、聞いて欲しかった。
 気休めや慰めが欲しかった訳ではない。
 仮定や意見を求めた訳じゃない。

 そうかもしれないし、そうでないかもしれない――そんな風に受け止めてもらえればそれでいい、と考えていた。


    今日。
    青年は、石舞台の端に腰掛けて、聞いた。
   「両親は僕の夢を認めてくれるでしょうか?」
    少女は、その青年の隣に座ったまま、一度、目を閉じた。
   「ご両親は――、応援してくれます。貴方の夢を。必ず」
    初めての、断言。

    その返しに、青年は目を丸くし、やがて目頭を熱くした。




 麗しの君――。
 夢の中で、そう呼んだ事があった。
 明けた朝は、恋だと思った。はや手遅れの頃に実を結んだ、恋だと思った。
 けれど、今なら分かる。
 それはきっと、恋慕や愛情の類ではない。
 美しき片思いの面影でも、胸焦がす情熱の爪跡でもない。
 夜の濃い藍色に浮かぶ白い月の思い出であり、郷里への思いを紡いだ月光の糸だ。
 それは必死になって忘れ去るべきものでもなく、炎にくべて灰にすべきものでもなく。
 ただそっと、引き出しの中に仕舞って置けば良いものだ。
 いつ取り出して、眺めたって良いものだ。


 青年は言った。
 いつか。
 いつの日か。
 僕の作った歌を、歌って下さい。
 簡単な踊りを添えます。
 いつか。
 いつの日か。
 この石舞台の上で。月明かりの下で。
 
 少女は微笑んだ。
 歌えるかもしれませんし、歌えないかもしれません。
 一往復だけの会話。
 青年は、そんな会話が好きだった。


                                                              【End】

 

 

 『偶像町幻想百景 まとめ』 百合根Pの動画から始まった幻想伝奇調二次創作群です。

 ご意見・ご感想あれば、こちらまで。 → 自ブログ当該記事

 

inserted by FC2 system