小皿に取り分けたルーの味を見て、火を止める。
「貴音ー! お腹すいたら食べていいからなー! 」
 昨日の晩に作ったカレーは、まだ鍋に半分ほど残っている。9月に入ったけどまだ気温が高いので、朝にも一度火を通しておいた。一番痛みやすいたまねぎはしっかり炒めてルーにしているけれど、ニンジンやジャガイモも油断はできない。
 木ベラを使って底から巻き上げるようにしながらカレーの粗熱をとる。ジャガイモの角が丸くなって、溶けた分の甘味がルーに出て、しっかり煮込んだから水分が飛んで。そんなこんなで、一晩経ったカレーはさらに美味しくなっている。
「無理して食べなくてもいいぞ。その時は、今晩カレーうどんな!」
「それもまた、風情があってよいですね」
 貴音の声が聞こえた。ベッドからは起き上がったらしい。もしかしたらカレーラーメンにしたいと言うかなーと思ったけれど、さすがにそれは無かった。
 貴音が急にラーメン好きになった理由については色々噂を聞くけれど、どうにもしっくり来なくて、でも、本人に聞くのも……なんか恐かった。
 最近、アイドルアルティメイトの予選が進んでいるせいでなかなか会えなかったけど、それでも、しっかり勝ち進んでるのは知ってたし、だから貴音から携帯にメールが届いた時は、正直焦った。

 発熱故不覚 行動不可能 食欲不振也 如何求飲料

 何が焦ったって、パッと見でまるで意味が分からなくて、どこの五言絶句だよ、ってツッコんで。
 後で聞いたら色々上の空で打ったメールらしかったんだけど、でも、頼られてるのは分かって、それがなんか嬉しくて、すぐにこのマンションに来た。
 途中のコンビニで500mlのペットボトルを10種類くらい買って、どれがいい、ってベッドの端に並べて見せて。一緒に買ったかち割り氷をグラスに入れて、貴音の選んだベルガモットオレンジティーを飲ませてやって。
 なんとなくホッとしたような貴音の顔を見て、なんだか嬉しくなった。
 貴音は一人で頑張ってる。だからせめて自分は、貴音の力になってやりたい。


  




「昨日は助かりました。なにぶん急な事でしたので」
 寝室から起き出してきた貴音はキャミソールに上着を羽織っただけの格好でダイニングに入ってきた。視線はハッキリしているから、もう熱は下がったんだろうな。夜中にも一度熱が上がったけど、そこでしっかり汗をかいたのが良かったんだ。きっと。
「また、今日も来るから、何か欲しいものあったらメールくれよな」
 961プロのサポート体制は、意外としっかりしている。勘違いして色々悪く言う人もいるけど、昨日もスタッフがいぬ美の散歩に行ってくれているし、ハム蔵やシマ男の餌もやってくれてるはずだ。だから、自分達はアイドルとしての活動に全力を尽くせる。
 自分達は、本当に恵まれてるんだ。
 自分達は、今、幸せなんだ。

「ありがとうございます。響がいてくれて、本当に助かりました」
 貴音が笑う。
「響がいてくれなかったら、私は……どうなっていたか」
 その言葉は、よく分からないけど、なんかツラそうだった。
 なんだか、貴音が今にも泣き出しそうに見えた。
「響? 何を――」
 右手を貴音の首の裏に当て、左手を額に当てる。微熱、といっていい程度の体温。熱を確かめる為だけの行為。それを言い訳にして、貴音に触れた。貴音に近付いて、その目を覗き込んだ。
「いくら頼ってくれてもいいからな。自分に出来る事は、なんでもするから気にすんな!」
 上手く、笑えたはずだ。


 心臓が、ズキズキ痛い。


 何もかも自分と正反対の貴音は、まるで鏡だ。
 貴音が泣きそうに見えたのは、きっと、自分が映ったからだ。
 貴音は強い。自分なんかよりずっと強い。
 そんな貴音が泣くはずなんてない。
 泣きそうだったのは、きっと自分の方だ。

 うさ江も、ねこ吉も、ワニ子も、いぬ美も、モモ次郎も、みんな家族だ。
 自分がいなきゃ、生きていけない。だから、自分はアイドルを続けるんだ。

 黒井社長は、自分をこの世界に連れてきてくれた恩人だ。
 その恩に報いる為に、自分は勝ち続けるんだ。

 貴音は、仲間だ。一緒に他のアイドルと戦う仲間だ。
 最後に貴音と自分でアイドルの頂点を競う為に、2人で勝ち続けるんだ。

 負けられない。あいつらに負けられない。
 負けちゃいけない。負けるなんて許されない。


 勝つしかないんだ。


 自分は、この東京で独りになりたくない――。

 

 



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「また、今日も来るから、何か欲しいものあったらメールくれよな」
 響の言葉に、胸が締め付けられるような思いでした。
 その背を見送り、ダイニングテーブルに腰を下ろし、響の飲み残しの紅茶を一口頂きます。


 心が、痛みます。


 響の心はとても純粋で、純真で、だからこそ強く、そして脆い。
 黒井殿の言葉を信じ、自分の夢を叶えようとしている。
 その純粋な心はとてもまぶしく、私は、その輝きに身を焼かれる想いです。


 私は、響――あなたを裏切っています。


 私は、あなたが敵と信じる765プロのアイドルと心通わせています。

 私は、あなたが敵と信じる765プロのプロデューサー殿と会っています。


 黒井殿の恩義を忘れるつもりはありません。
 黒井殿のご恩に報いる為に、アイドルアルティメイトで優勝を手に入れます。

 ですが、961プロの私達に、その先はありません。


 黒井殿が芸能界の覇権を握る為の尖兵として、私達は戦いましょう。
 ですが、黒井殿の私怨を晴らす為に765プロのアイドルを冒涜し続ける事はできません。
 765プロのアイドルの笑顔を見てしまった今、あの場所が魔窟であるとは思えないのです。



 響。

 私が昨日なぜ、あなたを呼んだか解りますか?

 私が、なぜ事務所のサポートスタッフではなくあなたを呼んだか。



 来たるべき日の為に、私は、あなたに飼われようと思うのです。

 あなたは、自分が世話をした生き物を、決して捨てたりはしないでしょうから。

 



 心が、痛みます。


 けれど私は思うのです。

 必死になって、敗北を恐れ、勝利を掴む為に手を伸ばすあなたの姿は見たくない、と。


 響。


 あなたの純粋さは、きっと、あの場所でこそ輝くでしょう。

 私はそう、確信をするのです。



                                                              【End】

 

 『一枚絵』第8回参加作品 

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