序曲



 響がコンロのつまみを回す。カチッ、と音がして青い光が点いた。
「コンロは使えるみたいだぞー! オール電化ってやつだけどな!」
 コンロの下の扉を開けると、その奥にはステンレス製の鍋とフライパン、ボウルやお玉など、調理器具もしっかりと揃っている。
 隣のハンドルを回すと、蛇口からはしっかりと水が出た。
「水も出るし、引き出しには――食器もあるぞ」
「クローゼットは、ずいぶん充実しております。しばらく着替えには困りませんね」
 貴音は目を覚ました時に着ていたシルクのパジャマから黒のキャミソールドレスと緋色のボレロに着替えていた。襟元に白のドレープが付いたデザインで、貴音に良く似合っていた。

 

 

 

 


「食べられそうなものは、ございましたか?」
「ああ、えーっと、今から見る!」
 冷蔵庫を開けると、扉側には緑茶やオレンジジュース、サイダーなどが、冷蔵室には卵や真空パックに入ったハムやベーコン、野菜室にはニンジンやジャガイモ、玉ネギなどが入っていた。
「なんだろ? カレーとか、オムライス、かな?」
 冷凍室には鶏のモモ肉やブロックの豚肉、牛肉が入っていた。
 貴音はキッチン周りを確認する響の姿を目に留め、ふと疑問を口にした。
「響、事務所に連絡はしましたか?」
「あー、それで相談しようと思ってたんだけどさぁ」
 響はカウンターの端にある固定電話から受話器を取り上げ、貴音に聞いた。
「どっちに掛けた方がいいんだ?」
「その相談を、まずはプロデューサー殿にするのはいかがでしょう?」
「お! それ、いいアイデアだな!」
 響は自分の携帯を取り出すと、は行から765プロのプロデューサーの番号を拾う。
 コール音が鳴る。1回、2回、3回。
「はい、もしもし?」
 電話口に出たのは、聞き覚えのある声。見た事の無い固定電話からの着信だったので、いくらか警戒しているようだ。
「あ、プロデューサー! 自分だ。響だぞ」
「響!? 携帯どうしたんだ?」
「ああ、ここ圏外みたいで通じないんだ」
「圏外? お前、どこにいるんだ?」
「それが、全然分からないんだ。テレビも付かないし」
「分からないって、どういう事なんだよ」
 プロデューサーの不思議そうな声を聞きながら、響は貴音を振り返る。貴音は小さく頷いた。

「なんか、自分と貴音、誘拐されたみたいなんだ」






  



 

 


       1



「で、貴様は真っ先に私を疑った――という事か」
 961プロダクションの応接室に通されたプロデューサーは、黒井が部屋に入るなり飛び掛らんとする勢いで詰め寄ったが、黒井はプロデューサーの手首を掴み、腕ごと逆関節に捻りながらソファに座らせた。
 今は、いくらか冷静さを取り戻したプロデューサーが、一通りの状況説明を終えた所だった。
「その近視眼的な物の見方とカラスに劣る判断力をどうにかする事だな」
 黒井は秘書の出したコーヒーを口にしながら、プロデューサーにも同じものを薦めた。
「我那覇響と四条貴音は現在も尚、961プロダクションに所属しているアイドルだ。移籍を前提にしての交渉中とはいえ、なぜ自分の事務所のアイドルを誘拐する必要があるのかね?」
「それは、2人の765プロへの移籍を妨害する目的で――」
 今では黒井の仕業ではないという事実を、プロデューサーも理解していた。それでも、自分の勘違いを説明せざるを得ないのは自身の浅慮の招いた結果であり、それについては反省もしていた。
「事実誤認も甚だしいな。私が目指しているのはあの負け犬達をこの栄誉ある961プロに留める事ではなく、広告宣伝に掛けた費用の何割かでも回収すべく、どこかの底辺事務所に少しでも高く売り付ける事だ。それが765プロだろうが876プロだろうが、どこでもいい。私は早く手放したくてたまらんのだよ」
 その話は、プロデューサーも社長からも聞いていた。響と貴音のアイドルアルティメイトでの敗北と、961プロ放逐の噂は確定的と芸能ニュースでも伝えられていたし、受け入れ先として765プロが最有力と言われているものの、他の事務所も獲得に向けて動いている、という話だった。
「君がここに来る事は、高木も承知しているのか?」
「いえ、高木には伝えていません」
「まったく、最悪だな」
 黒井は苦々しい顔を隠そうともせず、大きくため息をついた。
「飼い犬なら飼い犬らしく、せめて飼い主には従順でいろ。主から見えない所では動くな」
 ソファに大きく背を預け、黒井はスーツの内ポケットから携帯を取り出すと、ほとんど手元を見ずに電話を掛ける。2度のコール後、電話口には事務員の女性が出た。
「ああ、君か。相変わらず元気そうで何よりだ。高木に代わってくれ」
 直後、黒井の表情が曇る。
「ああ、誘拐騒動の事はそっちのプロデューサーが伝えにきてくれたよ。構わんから、代わってくれ」
 10秒、20秒。電話口から漏れ聞こえてくる高木社長の声は大きく、幾分早口だった。プロデューサーはその状況を不安に思いつつも、黒井の表情の変化から不穏な気配を感じ取っていた。
「残念だが、私は午後、重要な打ち合わせがあるのでね。構ってはいられないのだよ」
 2分程の通話の後、黒井は電話を切り、プロデューサーに告げた。
「厄介な事になった。2人が誘拐されたそうだ」
「いや、それさっき俺がそう言ったじゃないですか!」
 黒井はふぅ、と両腕を広げて首を大きく横に振る。
「愚か者に指導している時間は無い。とっとと高木の元に戻れ」
 その言葉を聞いたプロデューサーも、売り言葉に買い言葉と挑発めいた視線で黒井を睨む。
「言われなくても帰りますよ! 俺はアンタと違って、貴音も響も大切に――」
「早計で拙速で頭の回転の遅い単細胞が!」
 黒井は立ち上がり、大股でプロデューサーの正面に進むとそのネクタイを左腕で掴み、吊り上げるようにして立たせた。そして、そこで初めて怒りを込めて、プロデューサーを睨み付ける。

「誘拐されたのは――天海春香と高槻やよいだ」




       2



「プロデューサー! お帰りなさい。今、春香ちゃんと電話が繋がってます」
 小鳥がプロデューサーに状況を説明する。輪の中心はデスクに向かう律子で、律子は左手に携帯電話を、右手にPCのマウスを握っていた。事務所の中はほとんど人影も無く、まだガランとしていた。
「ありがとう、春香。大体分かったわ。今、プロデューサー着いたから代わるわね」
 はい、と言って手渡された律子の携帯を耳に当て、プロデューサーが声を飛ばす。
「春香、大丈夫か? 怪我は無いか?」
「は、はい。私もやよいも、大丈夫です。今、閉じ込められてるみたいなんですけど……」
 春香の声に怯えや恐怖の色は無く、ただ不安げで、そして困惑した雰囲気だった。
「犯人は、そこにいないのか?」
「はい。今はやよいと2人だけです。それで――」
 ツツープツッ、とそんな音がした。それきり、電話は切れてしまう。
「春香? 春香!?」
「あー、しばらく繋がりませんよ。そうなると」
 応えたのは律子だった。律子は開いていたドキュメントを上書き保存し、腕組みをして画面を見ていた。そこにはエクセルで描かれた部屋の間取り図のような物があり、律子の後ろからは小鳥が覗き込んでいた。
「ちょっと、状況説明してくれないか? 何がなんだか分からん」
 プロデューサーの声。続く、腕を組んだままの律子の答。
「昨晩、貴音と響、春香とやよいがそれぞれ誘拐されました。現在地は不明。監禁されているけれど電話での連絡は可能。ただし、携帯電話は圏外で、部屋の固定電話からのみ。原因は分からないけど、こちらから掛け直しても絶対に繋がりません。通話は30秒から1分程度で勝手に切れます」
「犯人は?」
「不明。貴音と響を誘拐したのは男の4人組。春香とやよいを誘拐したのは男2人と女2人の4人組だそうです。拳銃っぽいものと刃物で脅されて、仕方なく車に乗せられたらしいんだけど――」
「ちょっと待て! 別々の誘拐事件が、たまたま同じ日に起きたってのか!?」
「同一犯による連続誘拐で6人以上のグループによる犯行、という可能性もあるわ。というか――まぁ間違いなくそっちね。4人の監禁されている状況が完全に一緒なのよ」
 律子が画面を指差す。

 

 

 


「これは?」
「響と春香、それぞれから部屋の状況を聞きました。間取りが一緒だから、多分同じマンションですね。電気と水道は使えて、冷蔵庫には充分な食料と飲み物がある。着替えも用意されてる。テレビは映らないけれど、本棚には漫画や小説が大量にあるそうよ」
 律子の説明を聞いて、プロデューサーは一瞬黙る。
「監禁、って、暗い倉庫の中で縛られて、とかじゃないのか?」
「2LDK+S。室内行動は自由。照明は充分な明るさみたいね」
「……これは、風呂か?」
「ええ。追い炊きも可能なジャグジータイプ」
「トイレ?」
「ウォシュレット&ヒーター付き」
「これ、2つ並んでるのはは、ベッドだよな?」
「とりあえず記号だけ置いてますけど、セミダブルかダブルのベッドが2つみたいです」
 律子の説明を聞いて、プロデューサーは再び黙る。
「……なんだか、ちょっと快適そうじゃないか?」
「ええ。実際、響は芥川龍之介を端から読んでるそうだし、やよいはガラスの仮面に夢中ですって」
「分からん。犯人の目的は、いったい――」
「あ、あのっ!」
 唐突に、雪歩の声がした。時計を見ると、間もなく午後のレッスンの時間だった。雪歩は不安そうな眼差しでプロデューサーと律子、小鳥と視線を動かし、そして小鳥に向かってその手を差し出した。
 その手には、『765プロ社長 高木様』と書かれた白い封筒が載っていた。

「こ、これ! 社長に渡してくれって、今、男の人に、事務所の前で手渡されて……」




       3



 差出人の名は『銀月の使徒』と書いてあった。
「萩原君は……、これを渡してきた相手の顔は?」
「す、すいません。大きな男の人で、すっごく大きな声で『萩原さんだよね!』って言われて……」
「うむ、まぁ、仕方がないな」
 高木は手紙の内容に目を通し、それをプロデューサーに手渡した。
 今回の誘拐――彼ら流に言えば『保護』――は大いなる聖戦の序曲であり、目的達成という最終楽章を迎えるまで戦いは継続する事。国家権力の介入が無い限り、全ての偶像に害は及ばない事、等が延々と書き連ねられている。
 『銀月の使徒』の要求は四条貴音の765プロ移籍の撤回と、独立プロダクション設立。その証左として、黒井崇男と高木順一朗との共同記者会見の開催、あるいは直筆連名での宣誓文をマスコミ各社に送付する事、との記述があった。期限は5日、と定められていた。
 それが実現され次第、4人を解放する。実現されない場合は、その限りではない、というそれらしい文言で手紙は終わっている。
「難しい判断だな」
 高木は額を押さえるようにして呟いた。そして、プロデューサーにいくつかの確認を頼むと、少し考えさせてくれ、と言って3人に背を向けた。プロデューサーと雪歩、小鳥は社長室を後にする。
「社長、大丈夫でしょうか?」
 心配そうな小鳥の声に、雪歩も泣き出しそうな顔をする。プロデューサーは腕を組み、信じよう、とだけ答えた。

 

「貴音はもとより、春香達にまであれだけの環境を用意したグループだからな」


「春香さん、私達、どうなっちゃうんですか?」
 やよいは読んでいた漫画を閉じて顔を上げた。ふかふかのベッドや大量の漫画に喜んではいたが、時間の経過と共に不安が募ってきたらしい。聞かれた側の春香も、決して不安が無い訳では無いのだが。
「今の所、危険は無いみたいだし、きっとプロデューサーさんがもうすぐ助けに来てくれるよ」
 隣のベッドで天井を見ていた春香は飛び起き、ベッドから降りるとやよいの隣に飛び乗った。
「せっかくだから、何か作ろうか? ご飯でも、デザートでも作っちゃうよー」
「本当ですか!? じゃあ、プリンが食べたいです!」
「分かった。じゃあ、一緒に作ろうか? 天海春香特製、簡単プリン!」
「はい! 教えて下さい。私、作れるようになりたいです!!」
 やがてキッチンに、楽しそうな歌声と、卵と牛乳を混ぜる音が響いた。

 

「ミルクはカルシウムっ、がっ♪ タマゴっはビッタミン……豊富?」

 



「どうでした?」
 デスクに戻ると、律子が状況を確認しに来た。PCの前には伊織が立っていて、律子の作った間取りを見ていた。
「とりあえず、次に春香や貴音から連絡があったら、食料がどのくらいもちそうかだけ確認してくれ。なるべく切り詰めたとして、1週間くらい行けるかどうか。あとは、なんとか励ましてやって欲しい」
「ちょっと! プロデューサーはどうするんですか!?」
「俺は、局とレコード会社回ってくる。一旦は体調不良扱いにして、スケジュールの調整だ」
 律子は拳を胸の前で握り、少しだけ顔を曇らせた。
「それは……確かに、プロデューサーにしかできない役割ですね」
「ちょっと律子、これもう少し詳しく教えてくれない?」
 伊織がPCの画面を指差して聞いた。ああ、ええと――説明を始めた律子の背を見て、プロデューサーは事務所を出る。
 そして、プロデューサーの背を見送った小鳥が席に着いた時、デスクの外線が鳴った。

「あ、黒井――様。お久し、お世話になっております。……はい、高木、ですか?」




       4



 20時。プロデューサーは事務所に戻るとそのまま会議室に向かう。メールの差出人は、高木だった。
「ただいま戻りました」
 事務所には高木、小鳥、律子の他、伊織、千早、雪歩、真がいた。レッスンや収録から事務所に帰ってきたメンバーがそのまま居残った格好だ。ただし、まだ小学生の亜美と真美、オフのあずさと美希には状況が伏せられていた。
「うむ。では、全員揃った所で、765プロとしての対応を伝えよう。我々は――」
 全員が、息を呑む。そして、高木の声が、広くなった会議室に響いた。
「4人の安全を最優先し、現状では警察を頼らない事とする」
 安堵。どこか、緊張の緩みがあった。もしかしたら、高木社長は警察に通報する事を最善と考えるかもしれない、という可能性は全員の心にあった。また、それが最善かもしれない、という思いもあった。
 けれど、やはり通報しないという言葉を聞いて、どこかで安心していた。
「あの、社長。それで、961プロ側とのお話は?」
 小鳥の問い掛けだった。黒井が電話をしてきたことは、取り次いだ小鳥から全員に伝わっていた。
「うむ。その件だが、どうも全く同じ内容の手紙が黒井の所へも届いたらしい」
「では、記者会見か連名での署名を?」
 プロデューサーの声に、高木は残念そうに首を振った。
「そんな気は無い、との事だ。この件は、765プロで解決を目指そうと思う」
 解決――その言葉は、重く静かに、会議室の床に沈んだ。
 カチ、カチ、カチ。時計の秒針が3度なった時、小さな声が沈黙を破った。
「――じゃない」
 伊織の声だった。
 腕を組み、射抜くような視線で全員の顔を見て、伊織が叫ぶ。
「当っったり前じゃない! 春香もやよいも、貴音も響も、みんなまとめて助けるわよ!」
 そうね、はい、もちろん、当然!――いくつもの声が応え、そして全員の表情に赤味が差した。
 高木はゆっくりと立ち上がり、その場の全員の顔を見る。不安や絶望といった色は見えず、高木はひとまず安堵していた。
「この話は、社外秘だ。この場にいない者には、私が直接伝えるので、しばらく伏せておいてくれたまえ。私は当面、黒井との交渉を続ける。何ができるかはまだ分からないが、少なくとも4日間の猶予がある。出来る限りの事をやってみよう」
「はい!」
 プロデューサーは、まとめた情報を順に伝えた。春香とやよいのスケジュールで調整が可能なものは全て先送りにしたが、生放送が3つかあり、それについてはやよいの代わりに伊織が、春香の代わりに千早と真が出る事になった。
「基本的には、みんな普通に生活してくれ。マスコミに勘付かれたら一大事だからな。俺は、しばらく事務所で寝泊りする。夜中でも、春香や貴音から電話があるかもしれないからな」
「あの、プロデューサー!」
 真が、会議室の机に手をついて立ち上がる。
「不自然じゃない範囲なら、事務所に来てもいいですか?」
 真の声は、しかし真だけの思いではなく、プロデューサーの答を心配そうに待つ顔がいくつもあった。プロデューサーは全員に向かって、強く、そして大きく頷いた。


「当たり前だ。俺達は、みんなで仲間だ。765プロだ!」


 黒井は窓の外に広がる夜景を見ながら、その口元に笑みを浮かべた。
 高木との電話で、おおよその状況は把握していた。当面、765プロが警察に駆け込む事は無い。
 961プロのマーケティング・リサーチ部を動員し、不確定情報の集積も進めさせている。
 打てる手は全て打つ。それが黒井のやり方だった。
 そして、最後のピースも、ほぼ思い通りに動いていた。

「複数の電話回線を短時間で切り替えるトランザクションプログラム――このやり方なら逆探知もできないデスし、通話が切れた直後はその回線が不通になるので、掛け直しても繋がりません」
「ウィ、上首尾じゃないか。それでいい。私の言う通りに動けば、キミの願いは叶えてあげるよ」
 社長室のデスクの上に置かれたディスプレイの中には、一人の少女の姿があった。少女もまた、口元に笑みを浮かべていた。

「キミのセンパイをキミと同じ立場に戻すのも、君をセンパイと同じステージに上げるのも、私にとっては造作も無い事だ」

「安心するデス。バレるようなヘマはやらないデスよ」




       5



「えっと、歌を歌いました。やよいが恐がってたんで、一緒に『GO MY WAY!!』を……」
 一夜明け、春香とやよいもまだ落ち着いていた。テンションの確認だけ終えるとプロデューサーは、誘拐前後の状況をより詳しく聞き出して行く。左手で携帯を握ったまま、右手で春香の言葉をノートに書き留めていく。
「車に乗せられて、どのくらいだ? 歌い始めるまでに会話は?」
「すぐです。最初に目隠しを渡されて、どうしてこんなことするの、とか聞いて、答えられないって言われて、じゃあ歌ってもいいですか、って聞いて」
「車に乗ってから、5分くらいだな。フルで?」
「はい。前にやよいと一緒に収録した事があったので、2人で全部歌いました」
「『GO MY WAY!!』をフルで歌い切ってから、高速道路に登った訳だな」
 プロデューサーの言葉を聞き、手元のノートを覗き込みながら、律子がPCを操作する。春香とやよいが誘拐された点に赤のマーカーを置く。
 ――『GO MY WAY!!』は4:50秒の楽曲。夕方、都内の一般道。直前の会話と合わせて、10分で行ける範囲。
 地図の上にオレンジ色の円が描かれる。
「律子、これ!」
 真がやぶり取ったノートのページを挿し込んでくる。そこには、雪歩が貴音から聞き出した情報がまとめられていた。
 紅と青の同心円が重なる。
 ――可能性があるのは大泉、和光、練馬のインターチェンジ、南は高井戸、永福。東なら、熊野町ジャンクション?
 春香と貴音との電話が切れると、すぐに全員がPCの前に集まる。犯人グループの会話から行き先は分からないか、ラジオの途切れた回数から何度トンネルを通ったかが分からないか、様々な検討がされる。
 そんな事が繰り返された午前中の終わりを、水瀬伊織が運び込んできた。
「収録終わったわよ! 進展はあったんでしょうね!?」
 伊織は、今日の午前中にグルメレポーターとして行ったカフェでサンドイッチやバゲットサンド、クロックムッシュを買い込んでいた。束の間のランチタイム。しかし、その最中の話題の全て、4人の誘拐についてだった。



 事務所の午後。事務所の代表電話が鳴る。それを社長に取り次いだ小鳥の顔は蒼白だった。
「犯人ですか?」
「はい。『銀月の使徒』と名乗って……」
 長い沈黙。そして、事務所のドアが開いた。電話を終えた高木だった。
「諸君、我々は先方の要求を呑む、と伝えた。遺憾ではあるが、今は4人の無事を最優先とする」
 高木はまだ、黒井との交渉を続けていた。状況を説明し、情状に訴えた。一旦2人を独立させ、その1年後に765プロに迎える形なども提案をしたが、黒井は一顧だにしなかった。
 残された3日半の間に、4人を助け出す事。それが最善だと言えた。
「今後もプロデューサーを中心に、手を尽くしてくれたまえ」
 はい、了解です、分かりました! ――その場にいた全員が、一斉に頷いた。


「挽肉と玉ネギでミートソースにしたぞ。唐辛子多めだから、どっちかというとアラビアータだな」
 ダイニングのテーブルの上に、響が作ったパスタが並んだ。合わせる飲み物はオレンジジュースだった。
「いつまでここにいる事になるかわかんないけど、とりあえず賞味期限近いものからな」
「随分、本格的ですね」
「そうか? 本当はセロリ入れるともっと美味しいし、赤ワインもあれば使いたいんだけどな」
 テーブルに向かい合わせに座り、パスタと小さなサラダを囲む。パスタは最初ペンネの予定だったが、貴音の希望でスパゲッティに変えていた。
「とても素敵なランチになりましたね」
「なんか、太陽の光見てないから、あんまりランチ! って感じしないけどな」
 2人はキッチンの逆の窓を見る。ベランダに続く、広く取られた窓はおそらく気持ちのいい日光を取り込めるのだろう。今はコンクリートの壁で覆われ、その役割を果たしていない。
「じゃあ晩御飯は貴音の番な!」
「私が、料理ですか?」
 意外そうに目を丸める貴音に、響はずっと自分に作らす気だったのかよ! とツッコミを入れるが、貴音はきょとんと目を丸めるだけだった。
「そういえば、貴音って料理とかするのか? 全然見たことが無いけど」
「はい。たしなむ程度には」
「お、じゃあ楽しみにしてるからな! 自分、」
 スルスルと食べる響に対して、貴音はテーブルの上に視線を落としたまま、しばし動きを止めていた。
「あれ、貴音ってオレンジジュース、嫌いだったっけ?」
 貴音は微笑み、首を左右に振った。

「いいえ。少し、親友の事を思い出していました」




       6



「正直、これじゃあ絞ったといっても……」
 律子が悔しそうに呟く。その地図の上には、東京都心を空白域としたドーナツ状の帯が描かれていたが、その範囲は静岡県東部から山梨、長野、新潟、福島、茨城と広い範囲を覆っていた。

 

 

 

 


「もう少しエリアを絞れれば、こっちでなんとかできるんだけど」
 伊織が呟くように言った。

 もう少しって、どのくらいだ? とプロデューサーが聞く。せめて半分くらいかしら、と伊織が答える。
「律子、これから指示する所を削ってくれ」
「え?」
「まず、静岡、神奈川、千葉は除外だ」
 プロデューサーの声には自信が感じられたし、その目には迷いがなかった。プロデューサーの声に合わせて、律子が色帯レイヤーを削っていく。
 そして、やがてそれは、行儀の悪い子供が食べ散らかしたかドーナツの食べ残しのようになった。

 

 

 

 


「あの、プロデューサー? これって……」
「根拠は聞かせてもらえるんでしょうね?」
 当惑する律子をよそに、伊織がプロデューサーを問い詰める。プロデューサーは、マウスを操作し、律子が作った部屋の間取り図を示して見せる。

 

 

 

 

「律子も気にしてたみたいだけど、この玄関入って左手に、スペースがあるだろう?」
「あるわね。部屋にしても物置にしても、すごく不自然な感じだけど。それが?」
 伊織がどこか不満げに先を促す。
「これは、スキー用具置きだったんだよ!」
「な、なんだってー!」
「不謹慎だからやめなさい!」
 スパーン! と律子のハリセンがプロデューサーと真の後頭部をひっぱたく。
 意外にダメージが大きかったらしく床にしゃがみこんでうずくまる2人をよそに、小鳥が膝を打った。
「だから、山添いのエリアに絞ったんですね」
「ええ。個人的な予想でよければ、もっと絞れますよ。こんな作りの建物は、バブル期のリゾートマンションです。当時の基準だと耐震基準も曖昧だから、耐震補強の施工中と言えば、マンション全体が何かに覆われててもおかしくありません」
「バブル期のリゾート地だと、今ではゴーストタウン化していて廃墟みたいな所もありますよね」
 雪歩が呟く。誘拐犯の隠れ家としては、絶好の環境と言えるかもしれない。
「良くやったわ。アンタにしては、上出来じゃない!」
 伊織がキーボードを叩き、律子がエクセルで作ったデータをメールに添付する。そして、携帯を開き、メモリーからま行を選んだ。
「お兄様。今、送ったから。エクセルのデータだけど、画像データへの変換はそっちの専門家に任せるわ。簡単でしょ? ええ。……お願いします」
 伊織が苦笑しながら携帯電話を切る。できれば頼りたくなかった相手だけど、まぁ仕方が無いわね、とため息をついた。
「間取り図を画像データに変換して、高精度類似画像検索にかけるわ。中古マンションの物件情報で引っかかるはずよ」
「え、画像で? そんなの探せるもんなのかい?」
「うちの兄が、この前アメリカの小さな会社を買ったのよ。Web技術者集団なんてどうすんだ、ってお父様が怒ってたけどね」
 真の疑問に対し、伊織は胸を張って答えた。
「仲間の為だもの。使えるものは何だって使うわよ。そりの合わない、家族でもね」
 プロデューサーは、次の展開について思考を巡らせる。仮に、春香達の居所が掴めたとしたら、その先は? 犯人グループの規模も、本拠地も分からないまま、自分達に何ができるだろうか。
 ――4人1組で行動してて、少なくともナイフは持ってる相手、か……
「よし。伊織の方で何か手がかりが見つかると思うが、その間に――」
「プ、プロデューサーっ!」
 雪歩が、固く握った拳を胸元に引き寄せ、振り絞るような声で言った。

「わ、私、ちょっと外出してきますっっ!」




       7



 スチールラックの上に並ぶモニターを見ながら、男が言った。
「順調だね。765プロ側は完全に落ちたよ」
 隣に並ぶ男が、言った。
「961側はもう、2人に興味は無いんじゃないかな。好きにしろ、だってさ」
 モニターの中では、天海春香と高槻やよいが2人でプリンを食べている。
「いいなぁ。俺も春香さんのプリン食べたいなぁ」
「じゃ、俺、やよいちゃんのスプーンが欲しい」

「いやお前、それは変態だろ」



 律子はアイスコーヒーを飲みながら、PC上で物件案内を見ていた。

 確かに、リゾートマンションは似たような間取りに見える。
「雪歩は、どこに行ったのかしら?」
 伊織はオレンジジュースを飲みながら、携帯をいじっていた。
「さぁ。色々思う所があるんじゃないかしら」
 小鳥は、玄米茶を飲みながら、スキー場の公式サイトをチェックしていた。

「春香ちゃんとやよいちゃんがいないと、事務所が寂しいわね……」



 小さな倉庫の一角に、真の声が反響した。
「プロデューサー、ここは何ですか? 初めて来ましたけど」
 興味津々、といった感じの真とは対照的に、千早は不満そうに言った。
「私達、こんな所で時間を費やしていて良いのでしょうか」
 先行していたプロデューサーが、重そうな鉄の扉のノブに手を掛け、振り向いた。

「今日は、演技力のレッスンだ」



 社長室のデスクの上で、電話が鳴った。外線の転送ランプが付いている。
「高木だ」
 電話口から、小鳥の声がした。
「黒井様から、お電話が入っています。1番です」
 黒井には直通番号を教えていた。それでも代表番号に掛けてくるのは――。

「高木、状況を全て教えろ。全て、正確に、完全にだ」





       8



 事件発生から、3日が過ぎていた。
 先日事務所を飛び出して以来、雪歩とは連絡が付かず、今日も事務所には来ていないが、彼女以外の全員が集まっていた。
 午前10時。状況を聞かされたあずさ、美希、亜美、真美の4人は口々に不満を言ったが、プロデューサーが深く頭を下げ、それで終わった。
 そして今日、事務所に集められた全員の前で、高木が言った。
「私達は、765プロとして最善の選択をしているつもりだ。しかし、何より優先しなくてはいけないのは、仲間である4人の安全だ。そうだね?」
 プロデューサーや小鳥を含め、全員が頷いた。それを見て、高木が続ける。
「明日が、犯人から与えられた刻限だ。明日になったら、私は警察に行こうと思う。だから――」
 
「今日、我々の手で全てを解決しようではないか!」


 プロジェクターに繋がれたノートPCを操作した律子が、ここまでの情報を提示する。
「そして、これが伊織のメール送信先から届いたデータよ」
「なんか、色々面白そうだからってアメリカ人が喜んじゃって、光学文字認識組み込んだ専用アプリケーションまで構築しちゃって、ちょっと時間掛かったけどね」
 テキストデータとして表示されたのは、AAAからDまで格付けされたリンク集だった。
「とりあえず結論から言うわ。春香達の監禁場所が、特定されたの」
 AAAにカテゴライズされたリンクは4件だったが、確認されたマンションの名前は全て同一だった。
「『ダイヤリゾート湯沢』。新潟県・越後湯沢エリアにある築23年、7階建て、80戸のリゾートマンションよ」
 画面にはGoogleのキャッシュからサルベージされた間取り図が表示されている。それは律子の描いたものと酷似していたし、また、豊富な室内写真もこれまでに春香や貴音から聞いていた内容と合致する。
「バブル崩壊から入居者の流出は止まらず、今は入居者ゼロ。大手銀行の担保物権として差し押さえ管理になってるわ」
 その後、犯行現場の2ヶ所から現地までのルートが示される。練馬インターチェンジから関越自動車道を通って湯沢インターチェンジで一般道へ。4人から聞いた情報とも矛盾は無かった。
「事件当日以来、犯人グループから春香達への接触は無い。だが、現地に犯人グループがいないとも限らない。危険がある以上、全員で行く訳にはいかない」
 会議室の中にざわめきが起こる。

「俺と真、千早、律子の4人で行く。残るみんなは、成功を祈っていてくれ」



 ノートPCから聞こえた報告を、男は笑って聞いていた。
「ウィ、実に素晴らしいね。いやぁ、まったく実に素晴らしいよ」
 全ては、男の手の中で動いていた。

「何が最善かを決めるのは、常にこの私なのだ!」



「萩原さん、大丈夫でしょうか」
 関越自動車道を北上するプロデューサーの車中で、千早が言った。
「雪歩、携帯も繋がらないんだよね……」
 真も浮かない声だったが、それでも、どこかで大丈夫だという確信があった。あれは、逃げ出すような表情ではなく、むしろ、何かを決意した目だった。
 その瞬間、車内に音があふれた。メールの着信音が3つ。
「小鳥さんかな」
 運転中のプロデューサーに代わって律子がメールを開き、真と千早が画面を覗き込む。

『お疲れ様です。たった今、雪歩ちゃんから連絡がありました。あっという間に切れちゃったんですけど、マンションの住所と名前を聞かれたので教えちゃいました。構いませんよね?』




       9



[09/19 15:00:22] YU_KI: わり ちょい離席
[09/19 15:00:52] G-AX: いってら
[09/19 15:01:38] CiN: どうするの? 売っちゃう?
[09/19 15:02:22] G-AX: 金にはなるよなー 絶対
[09/19 15:03:04] STAIR: あ、こっちもちょい離席
[09/19 15:03:12] LUN@: マジ サツg

『ルナ』の書き込みを最後に、skypeの会話はぱったりと途切れた。
 何が起きたのか――。
 最悪の展開が頭をよぎる。警察が動き、メンバーが特定された? まさか。高木は絶対に警察には――。
 玄関のチャイムが鳴った。
 まさか。まさか。まさか。まさか。
「山内、勇気クン? 私だ。961プロの社長、黒井だよ」
 表札は出してない。それでも、フルネームを知られている。住所も知られている。どうして――。
「とりあえず外は暑いのでね。中に入れてもらおう」
「え、いや……人違いじゃないですかー?」
 山内はチェーンをかけたまま、そっとドアを開ける。その瞬間、巨大なチェーンニッパーが差し込まれ、バツンという音と共に鋼鉄製のチェーンが切断された。
 ひっ、と息を呑み、尻餅をつく山内の目の前で、ゆっくりと玄関ドアが開く。

 歳の分かりにくい男が、そこに立っていた。まだ若々しくも見えるし、初老のようにも見える。そしてその背後には、黒いスーツ姿の男が4人、立っていた。一番左の男は、まだチェーンニッパーを持っている。
 黒井は土足のまま上がりこみ、冷たい視線で部屋の中を見回した。

「ああ、お構いなく。ドリンクは期待していないよ」




 足場架設工事の最中である事を示す灰色のシートに覆われたその建物は、まるで包帯に巻かれた老躯のような雰囲気だった。
 山を切り出して作られた建設地は、背もたれの高い椅子のようにマンションの背後を守り、県道127号線の行き止まりにあるその建物は玉座に座る王のようでもあった。
 『ダイヤリゾート湯沢』はバブル期特有の広い駐車場を有していたが、その一角に小さなプレハブ小屋も見えた。
 間を遮るものは何もなく、そして、このマンションを訪れる者も、その理由も限られていた。
 プロデューサーが駐車場の入り口に車を入れ、運転席から降りると同時に、100mほど先のプレハブ小屋から2人の男が飛び出してくる。
「あんた、誰だよ」
「4人を引き取りに来た」
 その言葉が引き鉄となる。
「てめぇ、765プロの奴かよ!」
「ふざけんな! 貴音さんのIU制覇を邪魔した765プロに貴音さんを渡せるかっての!」
 2人の男は、腰のベルトからナイフを抜き、その刃先をプロデューサーに向ける。それでも、プロデューサーは足を止めず、男達に近付いていく。2人とプロデューサーの距離は、約50mほどに縮まっていた。
 プロデューサーは大きくため息をつくと、スーツの上着を脱ぎ捨て、右手の人差し指を鉤にしてネクタイを緩めた。
「お前達は何も知らないだろう。四条貴音が、どれだけ水瀬伊織と仲がいいか」
 一瞬で、2人の男の表情が曇る。
「双海亜美と、萩原雪歩と、765プロのアイドルと一緒に仕事ができることをどれだけ楽しみにしているか、お前達は知らないだろう!」
 プロデューサーは銀色の光に臆する事無く、一歩、前に出る。
「応援と、狂信は違う。愛情と独占欲は違う。理解と支配は違う!」
 プロデューサーの気迫は、いつもの茫洋とした彼の雰囲気とは全く違っていた。
「自分の思い通りにならなきゃ認めないなんて、そんな狭量でアイドルを輝かせられるものか!」
 プロデューサーを支えるのは、目の前に春香達がいるという事実だった。この男達さえどうにかできれば、4人を救うことができる。その想いが、プロデューサーを突き動かしていた。
「お前達みたいな人間に、アイドルのプロデュースなんて任せられるか!」
「うるせぇんだよ!」
 2人の男のさらに後ろから、3人目の男が現れた。男の髪は短く、頭には黒のバンダナを巻き、その右手には長い銃が下げられていた。
「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇよ! 頭吹き飛ばすぞ!」
 男はその銃を一度折り曲げ、中に実弾を込めてその銃口をプロデューサーに向ける。プロデューサーの足が、止まった。
 沈黙。睨み合い。そして、その均衡を破る声――。
「ウィンチェスターの上下二連式ね。スラグを込めてるって事はないでしょうから、有効射程距離は50m。対人殺傷能力なら30m程度ね」
 凛とした、良く通る声だった。
「だ、誰だテメェ!」
「あら、呆れた。貴音様バンザイを叫ぶなら、他のアイドルも知る事ね。ベートーベンしか聴いた事の無い人がベートーベンの素晴らしさを語っても滑稽だわ」
「秋月律子。765プロのアイドルだよ。クイズ番組とか、よく出てるだろ」
 ナイフ持ちの一人が呟いた。名前を憶えられていたのは嬉しいが、その理由はいささか傷付くわね、と律子が笑う。
「あなたのショットガンでは、プロデューサーを重症にできるかどうか、といった所ね。でも、こっちは充分届くわよ」
 こっち――そう言って律子が指差したのは、和弓を構え、矢をつがえる千早の姿だった。
 髪をポニーテールに束ね、白い胴衣と黒い胸当て、黒い袴に身を包んだ千早が、もっとも遠い男の姿を視線で射抜く。
「京都・三十三間堂の通し矢って知ってるかしら? 現代の単位に直せば、121m。千早の矢は、あなたまで確実に届くわよ」
「さすがにボクでも、ショットガンはどうにもできないからね。でも、ナイフなら大丈夫。任せて」
 千早の隣に立つ真が言った。黒いグローブに包まれた右の拳を、同じグローブに包まれた左のグローブに叩きつける。ドスッ、と重い音がした。
「まさか、このダマスカスの防刃グローブを実戦で試せる日が来るとはね」
 ニヤリと笑い、真もゆっくりと歩を進める。律子は2人の後ろに立ち、言った。

「相手はナイフとショットガンで武装した誘拐犯の男が3人。どうしたって、正当防衛よね」




       10



 部屋の中にはデスクトップPCがあり、その中ではskypeと、監視カメラの遠隔操作アプリケーションと、動画キャプチャーが動いていた。
 黒井は、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出す。状況の報告メールが続々と舞い込んで来る中で、一際目立つ件名があった。
『冤罪デス!』
 ああ、と黒井は呟いた。この『CiN』は、彼女のハンドルネームだったな――と。
 玄関を黒スーツの男に固められ、到底逃げ出せそうに無い山内は、頭の中で必死になって状況をまとめていた。
「あ、あの、黒井さん」
「ん? どうかしたかね?」
 黒井は振り返りもせずに、部屋の本棚に並ぶ背表紙を見ながら聞いた。
「四条貴音や我那覇響の動画、色々記録させて頂いてるんですけど……」
「だから、どうかしたかね?」
「これ、ネットに流出とかしたらマズいんじゃないですかね?」
「一向に構わんよ。彼女達を引き取る765プロが困るだけの話で、私にはメリットしか無いのだからね」
 バサッ。ドサッ。
 黒いが本棚の本を片っ端から床にぶちまけていく。一段目、二段目。本が床に散乱していく。
「無論、天海春香や高槻やよいも、取引材料足り得ない。交渉のなんたるかを、ゼロから学びなおす事だ」
 振り返った黒井の目には、蔑むような色が浮かんだが、それも一瞬だった。
 山内は苦笑した。
 四条貴音の未来を輝かしいものにしたかった。その手助けをしたかった。961プロのやり方は、四条貴音の自由を封殺し、その魅力を損なわせるやり方だった。
 四条貴音が自由に動ける環境なら、彼女は世界最高のアイドルになれる。その為なら、なんでもやろうと思った。それなのに――。
 自分のプランなら、四条貴音は間違いなくSランクのアイドルになれるはずだった。それなのに――。
 山内は携帯電話をとりだし、リダイヤルを押した。そして、繋がった瞬間、ただ一言だけ呟いた。

「月は落ちた。埋めろ」




 膠着を破る電話の着信音。その短い電話をきっかけに、ナイフの2人はプレハブ小屋に戻る。
 ショットガンの男はその銃口をプロデューサーに向けたまま、しかし視線は千早に向いていた。
「俺達は4人を助けたいだけだ。4人を置いて、どこかへ行ってくれ」
「ふざけんな! 信用できるかよ。結局サツにタレこみやがって!!」
「はぁ? 俺達は警察なんか――」

 鈍い、地響きがあった。ドン! という音がした。
 次の瞬間、『ダイヤリゾート湯沢』の裏山で地すべりが起き、ゆっくりと流れ落ちる土砂がマンションを覆い始めた。

「お前ら、何をした!」
「イラネェよ! 四条貴音なんて、この世にいない方がいいんだよ!!」
 男はショットガンの引き鉄を引いた。大きな破裂音と煙が辺りを覆うが、プロデューサーの身体に痛みは無かった。
 ショットガンを撃った男は銃を投げ捨てると、プレハブ小屋の方へ走り去る。小屋の裏からは2人の男が乗った小型車が飛び出し、後部座席にショットガンの男を乗せて走り去った。
「春香! やよい! 貴音! 響!」
 プロデューサーは声を絞り出すように叫ぶと、マンションの方へと走り出そうとする。しかし、その両腕は千早と真に押さえられ、押し留められた。
「今行けば巻き込まれます! 少し距離を取りましょう!」
 律子の声にも、動揺はあった。しかし、人の力ではどうにもならない事は目に見えていた。
 崩れ落ちる土砂と岩石。引き倒される木々。それらが、ゆっくりとマンションを埋めていく。
 その地響きと轟音の中に、プロデューサーの声がこだました。

「春香ー! やよいー! 貴音ー! 響ー!」



 地響きが収まるまで、どれくらいの時間が経っただろうか。
 4人には一瞬のようにも、とても長い時間だったようにも感じられた。
 4人の目の前には、その八割方を土砂に埋められた、まるで溺れたようなマンションの姿があった。
 765プロにも、電話連絡は入っていないらしい。電話線が寸断されたのか、それとも――。
「助けなきゃな」
 プロデューサーは立ち上がると、マンションに向かって歩き始める。
「ここまで来たんだから、4人を助けなきゃ」
 律子は、何も言えなかった。千早も、かける言葉を見つけられなった。ただ、真だけが、口を開いた。
「……何か、聞こえませんか?」
「え?」
 両手を耳の後ろに当て、小さな音を拾おうと真が振り返る。
「何かしら。歌?」
 千早の耳にも、それは聞こえた。どこかで聞いた事があるような歌だった。
「え、これって――」
 律子が絶句し、プロデューサーが目を丸くした。スピーカー越しに聞こえたのは雪歩の歌声だった。

『安全第一萩原〜♪ メットは大切命綱〜♪ モンキー片手に足場組む〜♪』



 

「伊織ちゃんの言葉で、私も、お父さんに助けてもらえたらって、思ったんです」
 雪歩の頭を、真が撫でていた。雪歩は涙目になりながら、それでも精一杯話していた。
「大規模改修の段取りだとしたら仮設工事と劣化調査と下地補修は終わってるかもしれないけど、でも、春香ちゃん達の部屋の窓が全部塞がれてるって事は下地補修外装の延長工程かもしれなくって――」
 雪歩は矢継ぎ早に専門用語を口にする。プロデューサーも律子も千早もまるで分からなかったが、真は深く頷いていた。
「リゾートマンションって事はバブル期だと鉄筋コンクリート造が主流で、コンクリートパネル構造のSRC造だから、地震の上下動には弱かったとしても、土石流みたいな土砂の横圧には強いから――」
 これまで雪歩のアイドル活動には反対を続けていた父親も、今回の雪歩の必死の願いには理解を示してくれたらしい。その証拠に、『ダイヤリゾート湯沢』の駐車場には、12台の建設機械が勢揃いしていた。萩原雪歩のこれからを頼む、という主旨の、ともすれば名古屋の花嫁行列にも似た萩原組のはなむけが、意外な形で役立つ事となった。

 当初は、入り口を塞いでいるであろうコンテナや角材の除去程度と聞かされていた萩原組の男衆も、目の前の土砂崩れと埋没建造物に俄然ヤル気をだし、作業工程もほぼ一瞬で決まっていた。
 ホイール式油圧ショベルを中心に、プロの手による土砂除去が行われ、4人が無事救出されるのは、それから2時間40分後の事だった。

 

「私、みんなの役に、立てたかなぁ……」






       終曲


 
 961プロダクションの応接室に通されたプロデューサーは、黒井が部屋に入るなり飛び掛らんとする勢いで詰め寄ったが、黒井はプロデューサーの手首を掴み、腕ごと逆関節に捻りながらソファに座らせた。
「つくづく学習能力の無い男だね。キミは」
 黒井は秘書の出したコーヒーを口にしながら、プロデューサーにも同じものを薦めた。
「勝手に警察に連絡したのは、まぁ結果オーライで納得しましょう。結果的に、犯人グループも逮捕できました」
「感謝の言葉は、もっとストレートでも良いのではないかね?」
「ええ、でも、なんで俺達が犯人グループの情状酌量のお願いをしなきゃいけないんですか!」
 バン、と音を立てて机に叩きつけられたのは、黒井が送った減刑の為の嘆願書の文案だった。
「キミは、犯人グループをどうしたいのだね?」
「決まってるじゃないですか。法の裁きを――」
 黒井は苦々しい顔を隠そうともせず、大きくため息をついた。
「くだらん! 実にくだらん! だから765プロは甘いと言うのだよ」

 プロデューサーの顔を、ひどく残念そうな眼差しで見詰めながら、黒井が続ける。
「結果的に誰も大きな傷を負わずに済んでいる。肉体的にも、精神的にもだ。犯人グループから押収した映像と音声は、再編集して『アイドルの超節約術・マル秘レシピ対決』として番組化する予定だ」
「……それは、初耳です」
「犯人グループは皆、前科が無い。キミ達が嘆願書を出せば、起訴猶予処分になるだろうね」
「それって、おとがめ無しって事じゃないですか!」
 プロデューサーの言葉に、黒井は大きくため息をつき、ノン、と答えた。
「刑務所の中や留置所の中では、色々とやりづらい事が多いのだよ」
 その黒井の顔は、プロデューサーがこれまでに見た黒井の、どんな顔とも違っていた。
 黒井はコーヒーを飲み干すと、立ち上がって言った。

「私は、私のアイドルの未来に影を落とすものに、容赦などしない」



                                                              【End】

 

 『一枚絵』第8回参加作品 

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