壹
残響の塔に鈴の音響く。 起きよ、起きよと声がする。
荒魂来たれり、と、のどを鳴らすがその身は動かじ。
開けたまぶたに昼の町音。 ゆるりまぶたがくだりて閉じる。
大鷹が空に弧を描いていた。その瞳は、森の中を疾駆する兎の姿を捉えている。
冬眠に備えて木の実を探して歩く内、岩場に来てしまったその兎には、身を隠す穴も、姿を隠す木々も無い。
自らの姿に気付かぬその丸く育った兎を、大鷹は見据え、そして身体を傾けた。
急降下。そして羽ばたき。自由落下よりもなお速いその姿を、しかし、それ以上に速い鉤爪が追っていた。
空を裂く、両翼合わせて畳ほどの大きさのその身体を、鋼のような黒い爪が貫き、掴む。
空の王者たる大鷹は、しかし自らよりも速く、大きな怪鳥の餌食となっていた。
中空を舞いながら、「それ」は大鷹の羽をむしり、はらわたを喰らう。
舞い散った羽が、ふわりふわりと粉雪のように地上に舞い落ちた。
人に似た顔の下半分が、暗紅色の血で染まっていた。
「足りない。足りない。喰い足りない。次は人を喰らいたい。若い女を喰らいたい」
むしりむしりと肉を噛み、ばきりばきりと骨を砕いて、その黒い影は、牙を朱に染めた。
朝。
背が総毛立つような感覚だった。根拠は無いが、確信はあった。
あの日の朝も、こんな感覚だった。
美希自身も、それなりの力を持っている――と自覚していた。
それは千早のような現実的な能力ではなく、あずさのような超越的な能力でもない。
ひどく感覚的で、他の誰かに言葉で説明できる類の能力ではないのだが、しかしそれが告げた。
――秋月律子の、今日の1日は刃渡りだ。
律子を守りたいと思った。失いたくないと思った。
もう主人を失いたくないと思った。
たとえそれが、自分の存在に気付いていない主人でも。
貮
残像の塔に鏡の光。 起きよ、起きよと声がする。
暗魂来たれり、と、その目を開くがその身は動かじ。
まどろむ目に午後の光。 のびする体が再び寝転ぶ。
秋月律子が目を覚ますと、既に朝の空気が去っていた。冷たさの和らいだ昼前の空気だ。
一度大きく伸びをして、書架の上の眼鏡を手にする。
視界良好。次いで机の上を確認する。今日は握り飯は無いらしい。
凛と冷たい水で顔と手を洗う。今日はなんだかとても調子が良く、肩も背中も軽かった。
身体が軽いと心も軽い、という事でたまには外で食事をしようと律子は町に出る。
律子の耳に、からりころりと足音が聞こえた。その足音の主は、白紙張りの日傘を差したあずさだった。
「ああ、あずささん。こんにちは」
「あら、律子さん。こんにちは。今日はお一人なのね」
あずさの言葉に、律子は、はたと立ち止まる。さて、私は大抵いつも一人なのだけれど、と。
偶像町の裏山にそびえる仁王杉の樹上にその姿があった。
大鷹よりも鋭いその視線は、町の小道を歩く小さな人影を捉え、吟味する。
「いぶせし土地よ。どうにも人の味が薄い」
嗅覚と視覚が糸の様に這い回り、そして、やがて一人の少女の姿を捉える。
「あれか」
その少女は、人間の匂いが強かった。年の頃は十七、八か。肉付きは良い。
「それ」は口の中でざらつく大鷹の骨と羽をまとめて吐き出すと、ついと宙に飛び出した。
秋の山風を腕下の皮膜にはらみ、「それ」は音もなく空を滑り降りて行った。
參
残影の塔に糸の揺れ。 起きよ、起きよと声がする。
闇魂来たれり、と、総毛立ちたるその身を動かし。
上げたまぶたに宵の明星。 いざや、いざやと声上げる。
偶像町に来て、律子が感じているのは、町の規模に対して人が少ない、という事だ。
空き家が多い、という訳ではない。家々が極端に広い訳でもない。
ただ、町を歩いていて誰かとすれ違うという事が妙に少ないような気がする。
都会に慣れすぎてしまっているんだろうか、とは思う。
この町では、勤め人が一斉に会社へ向かう朝は無い。
この町では、学生がひしめく通学路も娯楽施設も無い。
小さな世界で、それぞれの人がそれぞれの時間で生活しているから――と律子は分析していた。
通い慣れた道。けれど人影はなく、がらんとして、どこか少し淋しい気がした。
ひゅう、と風がなった。
律子が空を振り仰いだ瞬間、黒い影が太陽を覆う。
何かにぶつかる衝撃。肩口を裂く痛み――。
獲物を掴んだ「それ」は、一度天高く舞い上がり、そして急降下して山の中に消えた。
地面に降り立つ直前、「それ」は掴んだ獲物を放し、地面に叩きつける。
地に落ちた獲物を見て、しかし「それ」は首を傾げた。
「はて。取り違えたか? 我が喰らいたかったのは人の娘ぞ」
宙で身体をひねり、かろうじて足から着地する事に成功した少女は、その異形を睨み、指を突きつけた。
「律子は渡さない! 律子は、美希が守るの!」
「愚かなり。翼を持たぬヌシが我に追いつけるものか。もう一度繰り返せば我の勝ちぞ」
美希は腕を組み、にやりと笑った。
「翼を使わなきゃ移動できないコウモリお化けに負けたりしないよ」
「猫め。なるほど、姿移しか。それで自ら我の爪の間に跳んだのか」
美希は、律子に触れる事ができない。それはとても残念で、悲しい事だ。
しかし、「それ」は美希を掴む事ができる。美希を掴めば、そのまま律子を掴む事はできない。
美希の笑みの意味を悟ると、「それ」は大きくため息をついた。
「やれ面倒だ。ならばお前を喰らうて行こう。我が腹は、枯れ井戸よりもがらんどうよ」
めきめきと音を立て、その姿が変容していく。
背が曲がり、口が裂け、牙が伸びる。「それ」はまるで四つ足の獣となり、翼だったものは背の上から伸びる刃となる。
「我が名は『赤雷』。我の血肉になる事を悦んで死ぬれ」
肆
疾駆する赤雷の攻撃を、美希は寸での所でかわす。
牙が腕を狙う。――身体を捻って避ける。
爪が胴を薙ぐ。――避けられない! 美希は空間をわずかに跳躍し、距離を取る。
敵が更に迫る。――跳んだ距離と同じだけ、間を詰められる。
背の刃が降る。――間に合わない! 鋭利な刃が、美希の胸を浅く切り裂いた。
「諦めよ。逃げよ。目を背けておればよいではないか」
赤雷は胸を押さえてうずくまる美希に向かって言葉を紡ぐ。
「猫は不味い。肉が軽くて筋張っていて、我の望む所ではない。人を喰らわせ」
美希は一度胸の傷を押さえる。まだ浅い。
相手の動きの速さは、今、理解できた。次はもっと距離を取る。深く息を吸った。
「そっちこそ。律子は諦め――」
赤雷の爪。集中する時間を与えてもらえず、跳ぶ距離が限られる。わずか五歩分ほどの転移。
「で、あろうな」
爪をかわした先に背の刃が迫る。頭を下げ、背を丸めて刃をやり過ごす。が――
美希の左脇腹に、鋭い痛みが刺さる。まるで槍のような赤雷の尾が、美希の腹を穿っていた。
赤雷はそのまま尾を振り抜き、美希の軽い身体を吹き飛ばす。その尾は鮮やかな血で濡れている。
「詰め将棋も同然よ。我の先手、四手詰め。労も無い」
美希は右手に力を入れる。爪は動いた。まだ、出せる。
――何事も、分析が大事なのよ。この世に、分からない事なんて無いのだから。
それは、律子の言葉だった。
赤雷の身体を改めて観察する。厚く硬い体毛は山嵐の針のようで、美希の爪では、貫けそうにない。
跳躍して近付き、目か鼻を狙う――それが唯一効きそうな手だった。
ばらばらに散りゆきそうな力をかき集め、美希はゆっくり立ち上がる。血が、膝まで濡らしていた。
「今すぐ……偶像町から出て行くなら、許してあげる」
美希の声を聞き、赤雷は大きく顔を歪めた。
「ひゃひゃ。面白い事を言う。ヌシが我に勝てると思うたか。勝てると言うか」
次の赤雷の攻撃に合わせて、反撃しよう、と美希は考えていた。が――
世界が、揺れた。
美希の視界が大きく傾く。天と地が綯い交ぜになり、身体の平衡が保てなくなる。耳が痛む。
「な、なんで――」
美希は地面に倒れた身体を起こそうとするが、立とうとして、逆に身体を地面にこすり付けてしまう。
視界の端で、口を開けた赤雷の姿が見えた。間の空気が、陽炎のように揺れていた。
「跳ばれては厄介よ。可聴域外の音をぶつけて、耳奥の管を狂わせた」
赤雷は更に大きく口を開け、音圧の塊を美希の耳に流し込む。
美希の、意識が飛んだ。
「さて、起きられては面倒よ。首を落としてから行くか」
赤雷は立ち上がり、腕と背の翼を合わせる。身体を起こし、二つの足で立ち上がる。と――
天地が逆になる。
「なんと――」
払われたのは足。空気の揺らぎすら感じぬ間に足を払われていた。
伍
感覚の混乱ではない。赤雷は純粋に、物理的な力によって倒された。
何だ、何が当たったのだ――と赤雷は身を起こす。
見渡せば、赤雷は三人に囲まれていた。
右。立ち枯れた樫の古木の下、鬱金染めの着流しを着た男。
「ちょいとお兄さん、やりすぎたんじゃなぁい?」
左。白藍のシャツに瑠璃紺のズボンを合わせた洋装の男。
「ミキちゃんイジめちゃ、赦せないヨねぇ」
背後。倒れた美希の隣に立つ、猩々緋の小紋に身を包んだ女。
「美希は血止めをしました。でも、あなたにまでは手が回らなかったわ」
その言葉の直後、赤雷の右足が裂け、黒い血飛沫が地を染めた。
「なんと」
痛み。数十年ぶりに感じる痛み。それに、赤雷は戸惑っていた。
「我の毛鎧を断ち、肉を斬るとは……」
赤雷は両腕を地面に付き、今一度その姿を変容させる。四つ足の異形は、しかし冷笑で迎えられた。
「うーん、分かってないヨねぇ」
「アタシ達には関係無いのよねぇ。そういうの」
ふっと、二人の姿が消えた。
瞬撃――四足の足首を同時に払われる。身体が宙に浮く。
赤雷は翼に力を入れ、空に逃げようとする。しかし、敢え無く身体は地に落ちた。
「なぜ――」
痛みは無く、血を流す事も無く。しかし、二枚の鋼が如き翼が根元から斬り落とされていた。
「さて、これで飛んで逃げる事も出来ないゼ」
「翼の無い蝙蝠なんて、鼠も同然ですね」
「あーら、アタシ、鼠は大好物よ。食べちゃおうかしら」
三人の動きが、赤雷にはまるで見えなかった。視覚で追えず、臭いも感じず。ならば、音か。
赤雷は口を開き、音の傘を広げていく。しかしそれもまた、朗々たる歌声によって掻き消された。
――よもよろづよの やそがみよ りゅうおうれいもん わきまえよ――
女の声が、空気を震わせる。美しい音律が、大気の歪みを許さない。
万策尽きるに至り、赤雷は悟った。
「理解した。ヌシらは鎌風か。いたちどもの眷属か」
三人の周りで、つむじ風が揺らめき立った。
「根の国へ帰れ。ここはお前の居場所じゃナイ」
青い男が、赤雷の顔に向かって右手の二指を突きつける。
それが、現世で赤雷の見た最後の光景だった。
陸
その耳に、からりころりと足音が聞こえた。その足音の主は、あずさだった。
「あら、あずささん。過ごしやすくなってきましたね」
「あら、音さん。本当に涼しくなりました」
音さん、と呼ばれた女性は微笑を返したが、あずさの目は笑っていなかった。
「私、何かお手伝いした方が良かったかしら?」
音は右手の人差し指を頬に当て、数瞬考えてから首を横に振った。
「あずささんが混ざると、色々と大事になりますから」
あらあら、とあずさは微笑んだ。
「では、また何かあったらお願いしますね」
「ええ。これが私達の役割ですから」
音は小さく頭を下げ、あずさに背を向けた。
音の視線の先には、二人の男がいた。
あずさの視線の先には、二人の少女の姿があった。
秋深まる偶像町の宵の口。
誰もいなくなった秋の小路につむじ風が立ち、紅葉の葉を一枚舞い上げた。
【終】
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