「20分程度で戻るから、それまでの間、代わりに箱上部の温度計の確認をお願い」
私の状況説明を聞き終え、要約して復唱した後、プロデューサーが言った。
「温度はだいたい60度から70度の間を保持する事。上がりそうなら下部の小窓を開ける事」
私は細い白煙を上げる謎のダンボールを見ながら、一応聞いてみた。
「これ、燃え上がったりしないですよね?」
「大丈夫。今度、『燃焼の三要素』について簡単に教えるね」
プロデューサーはつい先日、甲種防火管理者資格を取得していた。
温度管理は思いの外、簡単だった。
最初は少し高めに推移させてしまったが、コツを掴めば先読みができる。
温度の上下には、タイムラグというか、慣性みたいなものがある。早めに対応、がコツだ。
箱からは絶え間なく細い煙が上がっている。それは意外にも柔らかな匂いだった。
――燻製、って何の燻製かしら?
匂いで分かろうはずも無く、ただ、あれこれと想像するばかりだった。
「お待たせ」
プロデューサーが戻ってくる。かかった時間は、19分42秒。
「すごいですね」
「律子の説明で大体読めたから。最近は小鳥さんのクセも、分かってきたし」
事も無げに言うが、小鳥さんも私も、決して素人じゃない。圧倒的な能力差が、そこにある。
「ちょっと、悔しいです」
そんな私の声が、きっと聞こえていたはずなのにそれを無視して、箱に歩み寄る。
「さすが律子。このくらいは余裕だね」
温度計を見て、プロデューサーはにっこりと笑った。
「アメリカ産とか、オーストラリア産の牛モモブロックが一番いいかな」
私の問い掛けに答える形で、プロデューサーが作り方を教えてくれた。
「脂は少ない方がいい。だから、高い和牛とか買う必要は無いんだ。経済的でしょ?」
なんとなく、いつものクセでプロデューサーの言葉を手帳にメモする。
「それを、薄く削ぎ切りにする。繊維の方向に沿って、薄く、細長くね」
プロデューサーは調理の際の動きを真似しながら、横目で温度管理を続ける。
「次は、調味液。塩、砂糖、胡椒、ガーリック、玉ネギ。ちょっとの醤油。好みでウイスキーか赤ワイン」
「結構、濃い感じのタレですよね」
「そうだね。それに一晩漬け込んで、次の日、流水にさらして塩抜きをするんだ」
わざわざ濃い味をつけ、改めて塩抜きをする、という工程に若干の矛盾を感じつつ、疑問は一旦呑み込む。
「これで肉の臭味や雑味が消えて、肉も柔らかくなる」
「味は薄くなるんじゃないですか?」
プロデューサーは頷き、最初はそう思うよね、と同意を示してくれた。
「燻製前に、軽く乾燥させる工程がある。そこで、味と旨味が凝縮されるんだ」
大事なのは原因と結果を正しく組み立てる事――そういって、プロデューサーが笑った。
「燻製という調理法は、大きく分けて3つに分類されるんだ」
プロデューサーが1つずつ指を立て、列挙していく。
「熱燻。焼きながら燻す方法。これで作ったベーコンやスモークチキンは特に美味しい」
ベーコン? ビニールパックに入っているものしか見た事がないけど……。
「温燻。火には当てず、煙の温度で調理、乾燥させるやり方。玉子やソーセージなど」
これはなんとなく、イメージできる。グルメリポートで、前にイタリアンのレストランがやっていた。
「最後は冷燻。温度を上げずに煙だけ当てて、熱ではなく乾燥で保存性を高める。代表は生ハム」
なるほど。
「前者ほどグリルやローストに近くて、後者ほど保存食のイメージですね」
「出来のいい生徒を持つと、先生は楽だな」
前にも聞いたような言葉を言って、プロデューサーは時計を確認する。
「これは、熱燻になるんですか?」
「ううん。温燻だよ。もう、ほぼ完成」
プロデューサーがダンボールの背面を左右に開くと、箱の天井から吊られた細切り肉が見えた。
「下、見てごらん」
箱の裏に回り、プロデューサーの隣に立って箱の底を見る。
アルミトレーに載った、4cm四方のカーキ色の立方体。それを良く見ると、左側の側面だけが黒くなっていた。
「これはスモークウッド。燻製用チップを砕いて固めた物で、火を付けると一定の煙と熱だけを出し続けるんだ」
「お灸に使う、もぐさみたいなものですか?」
「近いね。あるいは、すごく太い線香、とか」
プロデューサーはぶら下がる肉の中でも小さい物をフックから外し、手に取った。
「はい。ビーフジャーキーの出来上がり」
プロデューサーのビーフジャーキーは赤ワインに少しシェリー酒を加え、燻煙前に黒胡椒を振ったものだった。
香りは、スパイシー。表面の胡椒だけではなく、深い香りが漂ってくる。
「肉の燻製はヒッコリーが良いと言われるんだけど、今日は桜のチップを使った。ちょっとマイルドで日本人好み」
桜のチップを使った――と言われれば、なんとなくそんな香りにも感じる、というのは言い過ぎかな。
少し緊張しながら、ジャーキーの端をかじってみる。
繊維の束を噛んでいる感触。けれど、それがプツプツと歯の間で切れ、少しひねった所で噛み切れた。
想像していたよりずっと――
「柔らかいでしょう?」
私は迷わず頷いた。
厳密に言えば、柔らかい訳ではないけれど、市販品と比べると全くの別物だ。
「売り物は長距離輸送と長期保存が前提だから、水分を極力飛ばすんだ。だから風味も落ちるし、硬くなる」
「なるほど。大量生産大量消費を前提とした作り方と、本当に美味しくなる作り方は違うんですね」
プロデューサーのビーフジャーキーは、まるで別物だ。パサつきが全く無く、噛むほどにジワッと味が染み出す。
今の世の中は流通も発達して、保存技術も向上しているけれど、それでも越えられない壁はある。
けれど、大量生産品をバカにしてはいけない。それもまた、なくてはならない物だからこそ、作り続けられる。
安定した価格、安定した品質、安定した味を提供する事も大切だし、心を込めた手作りの味もまた、大切だ。
「アイドルや音楽も、一緒かもしれないね」
プロデューサーが、立ち上る1本の細い煙を見上げて、呟いた。
「ところで、なんで急にビーフジャーキーを?」
「ああ、東京TVの笹村ディレクターって憶えてる?」
「あのいかにも業界人! っていう若い人ですよね?」
「そう。彼が1回アウトドア番組やりたいって言ったから、『うちの律子は燻製作れますよ』って言っておいた」
言わぬが花、という言葉がある。
私は、自称・花のグループには所属していない。どちらかと言えば実でありたい側だ。
だから、思った事は何でも言うし、それが相手の意に副わなくとも、良薬口に苦し。
結果的に、それが相手の為になるなら、私は嫌われても良いと思っている。
まぁ、一時的になら。
"Better late than never."
遅くとも、何も無いよりはマシ。
【END】