私達は空虚で、軽い存在だ。
だから、自分の隙間を何かで埋めようとする。
それはエゴで、わがままで、時に他人を傷つける。
午前中のインタビューと、午後のレッスンの合間。
ふっと空いてしまった空白の時間を、響は活字で埋める。
ミステリ作家が書いた、掌編集。
JALの機内誌で連載されていた作品群をまとめた一冊だ。
分かりやすい話もあるし、ピンとこない話もある。
それでも、いや、だからこそ、この本は何度も読んでいた。
――いつか、分かる日が来るのかもしれない。
きっと、自分には何かが欠けているんだ。
それは人として欠陥がある、という訳ではなくて。
きっと、十数年しか生きていないからだ。
自分達は、まだ若くて。
十数年しか生きていないから、大人が主役の話は、難しいんだ。
……いや、そうじゃないのかもしれない。
午後の撮影には早すぎる時間。
誰かがいたらどうしよう、と思いながら雪歩は静かにドアを開けた。
象牙色のピーコートを入り口のハンガーに掛ける。
紅いジャケットの袖を引っ張り、そっと左の手首を隠す。
事務所のリビングスペースで、見慣れたポニーテールが揺れた。
響ちゃん来てたんだ――雪歩は騒ぐ胸を落ち着けようと息を吐く。
響の目の前には、ペットボトルに入ったコーラがある。
雪歩はキャビネットから自分の湯呑みを出して、ポットの湯を注いだ。
98℃で保温されていた熱湯を、ゆっくりと振り回しながら熱を取る。
清水焼の枯れた色の急須と、桜皮の茶筒。
中に入っているのは、宇治・上林三入の煎茶初雁。
小さな茶盆にそれらを乗せて、雪歩は一度目をつむる。
「響ちゃん、おはよう」
「んぁ? ああ、雪歩。おはよー」
響が、前髪の奥で一瞬、視線を上げた。
その視線が、雪歩の手元を射抜く。
「あ、響ちゃんも飲む? これ、京都でしか買えないお茶なんだよ」
「ああ、後でもらおうかな」
雪歩が、急須に茶葉を入れ、湯呑みの中の湯を急須に落とす。
ふわり。
一瞬、青い、甘い香りが辺りに漂った。
「自分はダメダメだ、とか言ってて悲しくならないか?」
響の声に、雪歩は背骨を握られたような感覚になる。
茶の最後の一滴までを湯呑みに落として、雪歩が小さく笑う。
「私も、『自分は完璧だからな』とか言ってみたいよ」
――多分、自分達は欠陥品なんだな。
響が、呟くように言った。
雪歩が、表情を失った。
――どういう事?
響は、テーブルの上のペットボトルを口に当てた。
黒褐色の液体が、響の喉を通って胃の中に沈む。
自分達は、アイドルだから。
普通の女の子が体験する事を全部放棄してるんだ。
だから、普通の本を読んでも意味が分からない。
それを受け止めるだけの、下地になる経験とか、感覚が足りないんだ。
響は自分で噛み締めるように言う。
その意味は、分かるようで、よく分からない。
雪歩がそっと、湯のみに口を付けた。
柔らかな香りが、口の中に流れ込む。
私、UFOキャッチャーやった事ないなぁ。
自分、水族館に行った事ないぞ。
私、回るお寿司、食べた事ない。
自分、チョコレートを手作りした事ないぞ。
2人の言い合いはしばらく続く。
自分達が、いかに年頃の女の子と違うか――そんな話だった。
「ねぇ、響ちゃん」
雪歩が、響の分のお茶を淹れながら言った。
「そんな、大した事じゃないよね」
言いながら、2人ともそう感じていた。
まだ、トップアイドルという訳ではない。
学校にも通えているし、お休みだってある。
アイドル活動のせいで失っているものなんて、たかが知れていた。
「なぁ、雪歩。撮影何時までだ?」
「一応、16時予定だよ」
「ん……そっか」
響は携帯を取り出すと、自分のスケジュールを確認する。
時間は、そう遠くない。
「じゃ、一緒にUFOキャッチャーやって帰るか」
響きの声に、雪歩は笑った。
「うわぁ、楽しみだなぁ。響ちゃん、上手そうだよね」
「任せろ。自分、完璧だからな!」
――あーあ、今日はボーカルレッスンかぁ。
ため息混じりに響が立ち上がる。
雪歩はソファに座ったまま、響に右手を振った。
「行ってらっしゃい」
響は振り向くと、
「何か悩み事かあったら言えよな。絶対だぞ」
そう言って、雪歩を睨む。
雪歩は、誤解だよぉ、と言って左手を体の後ろに隠す。
響の背中を見送りながら、雪歩は、ほっと息を吐いた。
ほんのささいな戯れ。
自分の存在価値を確かめる遊び。
仲間との距離感を測る実験。
雪歩は、もうやめよう、と反省しながら、
左手の手首に巻いた包帯をほどき始めた。
【End】
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