東京、横浜、熱海――。
車窓から見える景色はまだ冬の情景で、寒そうな灰色と白とが目立った。
それでも、鳥は飛ぶし、波は寄せ来る。
風は、吹いている。
4人掛けのボックス席。進行方向を向いた窓側。
車両には私と、ずっと前の方に老夫婦がいるばかりだ。
新幹線ならもっと混むのだろうけど、今はこのくらいがありがたい。
頬にかかる髪を肩の後ろへ流し、私は窓の外に意識を向ける。
虚無、虚脱。あるいは拒絶。
今朝、目が覚めたその瞬間から、私は世界から切り離されていた。
なんのせいか分からない。
何か理由があるのかどうかも分からない。
あるいは、こんなにも気まぐれで低空飛行を続ける心。
それこそが、私の本質なのかもしれない。
電車の中は必要以上に暖かく、ガラス一枚が車内と冬を隔てている。
暖かい起毛の布張りの椅子に体を沈めていると、定期的な揺れが眠気を誘う。
がたん、ごとん、がたん、ごとん。
いっそ眠ってしまえば、どこか遠くまで行けるだろうか。
携帯が震える。
誰よりも頻繁にやり取りをしている相手からの、メール。
年上。優しい人。憧れ。まるで、入り口の無いサーカス小屋みたいな人。
心配する文面。とりあえず連絡を――そこまで読んで、私は携帯を閉じた。
沼津、静岡――。
事務所にお茶でも買って行こうか、なんて頭に浮かぶ。
ああ、でもお茶選びは彼女の楽しみだ。それを奪っちゃいけない。
また今日か明日にでも、小鳥さんと買いに行くはずだ。
夢と現の狭間で、薄ぼんやりとした白昼夢を視た。
線路が大きくせり上がり、列車が空に飛び出す、そんなイメージ。
空が夜空に変わり、星空になる。
胡桃の化石を拾う。
アルビレオの観測所を越える。
ああ、違う。
私は、焼けて死んだ蠍の火になりたいのに。
耳の奥で、ピアノ協奏曲の旋律が聴こえた。
携帯が震える。
目が覚める。
ああ、私は眠っていたらしい。
目を開けると、斜め前に一人の男性がいた。
日に焼けた顔の、やけに姿勢のいい人だった。
「腹、減ってないかい?」
唐突な問い掛け。
まどろむ意識に不意打ちを受ける。私は無防備だった。
「少し、減っています」
空腹を感じる程度には、生きている。
私はまだ、実在し、存在している。
「こっち、食ってくれ。悩んで、つい両方とも買っちまった」
その人は、レンガ色の紙に包まれた駅弁を私に差し出した。
『浜の釜めし』と書いてあった。
私はそれを開けると、付いていた割り箸を割った。
なぜ、私はこうも無防備なのだろう。
初めて会った名前も知らない男性に差し出された弁当を。
初めて――?
名前も……?
「最近、調子良いみたいだね。色々聞いてるよ」
私は、知っている。
この人の事を、知っている。
ああ、そうか。
私は気付いていたんだ。
弾倉に鉛の弾を込め、それを勢い良く回した。
けれど、それをこめかみに当てて引き鉄を引くほどの勇気はなかった。
そこへ、救世主が現れた――私の本能はそう悟ったんだ。
「で、今日はなんでこんな所にいるんだい?」
男は、爬虫類のような目で私を見ていた。
その無機質な表情が、私の心の裏側をそっと撫でる。
私は、持て余していた回転式拳銃を相手に手渡した。
「アイドル、辞めようと思うんです」
「ああ、しらす弁当で正解だったな。こりゃ美味いわ」
男は、まるで人の話を聞いていないかのような芝居をする。
「私は、私のままでいたいのに、それが難しくて……」
男は無言で弁当をつつく。
割り箸の上に乗った白米を、山盛りのしらすごと口に運ぶ。
軽い汐の香りがした。
「そんな事言って引退した女が、前にもいたなぁ」
少しだけ、口調が変わった。
ああ、そうだ。
やっぱり、この人は――。
「再就職口なら世話してやれるよ。寮も食事も出る所を」
あまり望ましい仕事ではないような気がした。
でも、それはアイドルとどう違うのだろう。
私が望む、働き方は。
私が望む、生き方は。
ほれ、食えよ。早く、早く。
男が促し、私が従う。
薄茶色のご飯の上に乗った玉子そぼろを口に含むと、急に空腹が増した。
優しい甘さが口いっぱいに広がる。だしの味が、舌を包む。
タレを含んだ炭火焼きの鰻が、口の中ではらはらと崩れていく。
「あなたは、なぜこの電車に?」
「偶然だよ」
男は、笑った。
「偶然、765プロ気鋭の新人、如月千早を見つけた。だから、追ってみた」
「ずいぶんヒマなんですね」
「いやいや、これが仕事だから」
偶然。
あるいは必然。
目の前の記者は引き鉄を引く指ではなく、むしろ鉛の弾なのかもしれない。
「気鋭の新人が、一番ダメージを受けるのはどんなスキャンダルでしょう」
男の割り箸が、器用にひじきと大豆の煮物をつまみ、口に運ぶ。
「まぁ、誰かとホテルから出てくる、とかじゃないかねぇ」
一般論。妥当な線。分かりやすいシナリオ。
「一緒に行ってみます?」
「実に魅力的な提案だが、そうすると出てきた所を写真撮れないだろ?」
「じゃあ、私が誰かに頼んで、あなたは出口で?」
「おいおい、『やらせ』はNGだよ。そりゃ記者倫理に反する」
倫理、という言葉についふきだしてしまった。
根も葉もない憶測や飛ばし記事を乱造しているのに、『やらせ』はダメらしい。
「美学、みたいなものでしょうか」
「大事だね。美学。いい言葉だと思うよ」
花形に飾り包丁を入れられた人参を口に含む。
舌の先に醤油の塩気、そして鼻から抜ける甘い人参の香り。
体に染み込むような気がして、少しだけ体温が上がったみたいだった。
「どこまで行くんだ?」
「さぁ。切符は名古屋まで買っているのですが」
「そうか。んじゃ、名古屋で降りようや」
「一緒に、ですか?」
「おう。飯の美味いカラオケ屋があるんだ。一緒に行こう」
男は弁当を傾けて一気に掻き込むと、両手を合わせ、ご馳走様でした、と言った。
「歌っていやな事忘れたら、戻れ。事務所に」
あいまいな表情のまま、私は頷き、はい、と返事をした。
携帯が震えていたが、私は、この人の前で何を歌おうか、と考え始めていた。
【End】
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